16 / 30

第16話

 空はよく晴れていた。 天窓から射し込む光が、ステンドグラスの鮮やかな影をホールにひしめく客の上に落としている。 龍郷の正式な社長就任を記念した式典。それがしおんを隊員に迎えた新生少年音楽隊の初披露の舞台だ。  新聞各社に大々的に打たれた広告と、街頭に貼り出されたポスターには「セレモニー」という耳慣れないカタカナが装飾された文字で描かれている。  少年音楽隊の出番は、式の冒頭。龍郷とふたりタンゴを踊ったあのホールの大階段に、燕尾服を身につけた少年たちが整然と並ぶと、客たちはざわめいた。  他社の音楽隊といえば鼓笛隊が主で、制服も玩具の兵隊のような可愛らしいものだ。「だからうちは逆をいく」と龍郷が仕立てさせたその姿が、一瞬で客の心を掴んだのを感じる。  しおんが出て行くと、ざわめきはさらに大きくなった。 ――覚悟はしてたけど。 そのざわめきは、先ほどまでのものと違う意味合いを持つ。 中にはあからさまに眉を顰めている男もいる。周りに人がいるからその程度で済んでいるのであって、これが人目のない路地だったなら、石でも投げつけられそうだ。  指揮者はやはり燕尾服に着替えた教師で、そうしているといつも少年たちの世話に手を焼いている人間と同じには見えなかった。  しおんが来たことによって構成の変わったセレモニーは、まずしおんの歌から始まり、ついで少年たちの管弦楽の演奏になる。責任感なんてものはないが、下手を打ちたくないという気持ちはあった。出て来ただけでこの訝しむような視線だ。これで失敗などしたら、それはすぐに蔑みに変わるだろう。  指揮者の腕が腕が上がる。すう、と息を吸って、隊員の中から選び出された少年が奏でるピアノに合わせて歌い出す――  ――ん?  まさに歌い出そうというとき、違和感でしおんは口をつぐんだ。違和感、というか、無音。  ピアノの演奏が始まらない。演奏者に目をやれば、青ざめて俯いたきり、指揮者の目配せも見てはいない。  あがっちまったのか? よりによって――  思わず舌打ちしそうになった視界の隅に、いつも喧嘩をふっかけてくるあいつの姿がちらりと映った。  整った顔に、底意地の悪い笑みを浮かべている。よく見ればピアノ演奏の少年も、自分にでもなく、教師でもなく、こいつのほうをちらりとうかがって青ざめているのだった。 「……くだらねえ」  自分でも意外なほど冷めた呟きが口をついて出る。ばかだ。龍郷に気に入られたいのならこんなこと逆効果中の逆効果なのに。  歌うことは、楽しいと思わないでもない。 旋律が自分の中に入り込んでまた出て行くあの感じは、嫌いじゃない。だけどそれだけだ。俺にとってはこんな舞台、どうでもいい。蔑まれたところでそれが元々で、今さら傷つかない。邪魔したって、たいした痛手になりはしないのに。  このままステージを降りてさっさと引っ込んでやろうかと思ったとき、じっと自分を見ている視線に気がついた。  龍郷。  周りがそろそろ異変に気がついて、ざわめき始めている。隣に立つ野々宮も他の来賓たちもちらちらと龍郷の顔をうかがっているのに、当の龍郷だけは変わらず涼しい顔のまま、しおんを見つめていた。  ――あいつはいつもそうだ。  誰もが目をそらすしおんの姿から、目をそらさない。  初めて会ったときも。邸で目覚めたときも。誰もが「見ない」「いない」ことにしようとする俺のことをちゃんと見る。呪いでしかないこの髪と目の色を、武器にしろという。 自分の持つもので闘えと、挑んでくる。  初めて会ったあの瞬間から、唯一俺を人間扱いしていた。この一番大切な場所で、俺には想像もつかない未来の話をしてくれた。  別にその礼ってわけでもねえけど―  しおんは目を閉じてひとつ深く息を吐く。    恋はやさし 野辺の花よ  甘ったるい言葉から始める歌の内容は、歌い始めるとすぐにどうでも良くなった。いつだったか龍郷がここで口にした言葉そのままに、高い天井に向け声が響いていく。  浅草オペラで人気のこの曲を歌うようにと指示したのも龍郷だった。今までの龍郷百貨店で買い物をするような層の多くは、浅草までは出向かない。だが今や爆発的な人気を誇る浅草オペラに興味はあるはず――だから取り入れるのだと。  伴奏がなくとも、恐れははなかった。むしろ、自分の声が空気を震わせて生まれる振動が、直接肌に伝わってくるような心地よさがある。  熱い想いを 胸にこめて  疑いの霜を 冬にもおかせぬ  わが心の ただひとりよ     ――まだ体の中でふつふつと細かな泡が立つような余韻を味わいながら、しおんは辺りを見渡して、まただ、と思った。  初めて龍郷の前でやけくそで歌ったあの日と同じに会場は静まり返っている。  ――失敗、した?  今日は龍郷が各界から著名人を招いている。あの浅草の安舞台で数人に聞かせるのとはわけが違った。龍郷に恥をかかせたくないのなら、素直に泣きながら引っ込んでいたほうがマシだったのか。  一瞬、十二階下の湿ったにおいが鼻先をよぎったような気がした。 結局俺はあそこから抜け出せないのか。わかってたことだけど。勘違いしていた。たった数日、少しばかりまともに扱われたからって。 呼吸ひとつが思うようにいかない。頭上から覆い被さる、暗い影に呑まれてしまう――  パン、と誰かが手を打って、ホールに張り詰めた空気を霧散させた。  糸の切れた人形のように呆然と座っていた観客が続々と拍手を初める。 高い天井にこだましたそれは、幾重にも重なりながらしおんの上に降り注いだ。  音が降ってくるような気がして見上げていた天井から視線を戻すと、初めて配達に行った家の夫婦の姿に気がついた。しおんがそちらに目をやると、一層しく手を叩いてくれる。登壇してからずっと胡乱げにしおんを睨め付けていた紋付袴の男も、打って変わって瞳を輝かせている。 「ブラボー! しおんさん、ブラボー!」 教師が自分も壇上にいることを忘れたように感涙にむせびながら告げてくる。それが賞賛の言葉であることは練習の中で知った。 そう、賞賛。 今この吹き抜けに満ちているのはそれだった。にわかには信じがたい気持ちを打ち消すように、拍手はいつまでも鳴り止まない。  けれどしおんにはわかっていた。一番最初に手を叩いたのが誰だったのか。  観客席の一番後ろに控えて、来賓たちに話しかけられている。その満足げな笑み。 『……おまえが褒められると、自分のことのように誇らしい。なぜかな』  そんなの、こっちが教えて欲しい。

ともだちにシェアしよう!