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第15話

   翌日、しおんは音楽隊の練習に参加した。  ――大人しく口ぱくぱくさせてりゃ食うものと寝るところに困らないんだ。  しばらく様子を見るのも悪くない。どうせ行くところもない身の上だ。  音楽教師は、龍郷に雇用されている手前なのか、しおんにきつく当たるようなことはなかった。そういう意味でのやりづらさはなかったのだが、困惑したのは渡された楽譜というやつだ。  なんだ、これ。  文字なら、最低限ではあるが読める。孤児院で教えられたから。だが、そのかろうじて読める文字の上に文字より幅をとって、五本の線とおたまじゃくしのようなものが描かれているのはなんなのだろう。  ためつすがめつ眺めていると、は、と馬鹿にするような笑いが聞こえた。 「おまえ、まさか読めないのか?」  昨日とっくみ合いになった少年だった。まだ懲りないらしい。一瞬滾る血に任せて再び手を出しそうになったとき、教師がピアノを弾き始めた。これまで音楽になど興味を持ってこなかったしおんだが、教師の巧みな指先から紡ぎ出される繊細な音色を耳にすると、不思議と攻撃的な気分をそがれてしまう。相手の少年もそうなのか、不満げにしながらも黙った。 「まずは歌ってみましょう」  教師の声に合わせて、みな一斉に歌い出す。一方でしおんは歌い出しを逸してしまった。少年が隣の少年と目配せを交わし、目だけで笑い合っている。  ――くそ  途中から混ざろうにも、知らない歌なのだ。いたずらに唇をわななかせただけで終わった。  どうせもう笑われているのだし、無駄なあがきをすることはない。しおんは諦めてじっと耳を傾けた。  ピアノの音を聞くことは苦痛ではない。むしろ音だけなら好きだと思う。  それは自然としおんの中に入り込んでくる。 流れ込んでくるものをじっと取り込んでいるうちに、旋律のくり返しに気がついた。孤児院で嫌々歌っているときには気がつかなかったが、曲というものはどうもそういう作りになっているようだ。いくつかの心地よい塊がくり返されて、気がつくといつの間にかもっと大きな塊に包まれている。  心地良いそれに身を任せると、歌声が唇からあふれ出た。  すると今度は、旋律のほうからしおんの声に寄り添ってくる。  ピアノの音色を追いかけていたつもりだったのに、いつのまにか追いかけられている。かと思えばある点では重なり、混ざり合う。それがくり返されると、今度はどこか無限の広がりの彼方へ、体がふわっと運ばれていくような気がした。  なんだこれ。気持ちいい―  しばらくその感覚に酔っていたらしい。気がつくと、いつの間にかピアノの音色も、少年たちの歌声も止んでいた。  まだ自分の耳の中、体のなかには、微細な振動のような歌の余韻が残っている気がするのに。  教師すら訝しげな眼差しでこちらを見ている。その奇異な物を見るような目には覚えがあった。  だがなにかが違う。いつもの、自分たちと違う物を排除しようという嫌悪感とは、なにかが。 「あなた、この曲を知っていたんですか?」 「いや」  知るわけがない。学校に行っているわけでもない自分が今まで触れた音楽らしきものといえば、孤児院で歌わされた賛美歌のみだ。龍郷に出会ったときやけくそで歌った、あの。  教師の顔色が変わる。まるで雨上がりの空、みるみる雲が引いていくように。 「素晴らしい! あなたのその歌声、私が今まで教えた中で一番です」 「――え?」  思わず漏れた声は、答えを求めていたわけではなかった。どちらかと言えば自分自身への問い。 〈素晴らしい〉? それってどういう意味だったっけ? 「正直、龍郷様が構成を変えると言ってきたときには戸惑いました。もう今の人員でほとんど出来上がっていたんですからね」  やはり教師は雇用関係上大人の振る舞いをしていただけで、不満があったらしい。彼は丸い眼鏡を押し上げながら、鼻息を荒くした。 「こうなったら、完璧に仕上げましょう」  しおんが寝台の上で枕と膝を抱えて起きているのを見ると、龍郷は少し意外そうな顔をした。 「まだ起きていたのか」 「……あんたが頭を撫でろって」 「変なところで職務に忠実なんだな」  龍郷は愉快そうに笑って着替えを済ますと、寝台に入ってくる。まぶたを伏せるのが、撫でろという合図なんだろう。まぶたひとつで、といらだたなくもないが、目を閉じていてくれるのが今は都合がいい。 「今日、……褒められた。なんか知らないけど」  しおんは音楽教師とのやりとりをぼそぼそと話して聞かせた。〈そういうこと〉代わりに要求された、頭を撫でるという勤めを果たすため、というのは自分のために用意した言い訳だ。本当は妙に胸がざわついて、うまく寝付けなかった。  ざわつきが喉元までせり上がって、どうにもしがたい。こいつに話してすっきりしよう。寝入りばなのどさくさなら、そのまま適当に聞き流されるだろう―  そう考えてのことだったのに、龍郷はしおんの言葉を耳にするなりぱっちりと目を開いた。 「そうか、お披露目が楽しみだな」 「……なんであんたが自分の手柄みたいな顔してるんだ」 「俺の手柄だろう。おまえをこの広い世界から見つけ出した」  体を起こして肘で頭を支えると「ん?」と覗き込んでくる。  どう考えてもただの偶然だったと思うのだが、反論するのも面倒だ。 「寝る」  三日目にしてようやく慣れたふかふかの布団にくるまって背を向けると、拗ねたとでも思ったのか、龍郷が後ろから抱きしめてくる。鬱陶しい、と払いのけようとした耳元に呟きが落ちた。 「……おまえが褒められると、自分のことのように誇らしい。なぜかな」  こんなとき、どうしてか腰の裏側の辺りがじんわりと痺れる。言葉は耳で聞くもののはずなのに。  昨日から龍郷はしおんに〈そういうこと〉はしてこなかった。ただこんなふうに抱きしめたり、耳元に唇を押し当てたりはする。本当にぬいぐるみの代わりなんだろうか。  もう、ああいうことはしねえの。  そんなことを考えていることを知られたくはなくて、しおんは寝たふりを決め込んだ。 

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