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第14話
「ああ、店で事情を知っている者にもだな」
「え……?」
野々宮も少年音楽隊の連中も、こいつを社長と呼んでいた。音楽隊の奴なんて、まるで神のように崇めていたのに?
英吉利でお勉強して、高級なぬいぐるみを買ってもらって、それのどこが―そんな考えを表情から読み取ったのか、龍郷は苦笑した。淋しさの混じらない、純粋な苦笑だ。
「俺の母は、龍郷の妾だったんだ。元々は父の年の離れた妹たちの家庭教師としてこの家に奉公にあがって、それで父の手がついた。父にはちゃんと本妻もいて、母はそれに成り代わろうなんて思っちゃいなかった。小さな家と毎月のお手当を頂戴して、俺と慎ましく暮らせればそれで。雲行きがおかしくなったのは、本妻に男子がなかなか生まれず、俺を養子にと声が上がってからだな。母親はお手当の支給を打ち切られても、自分で女学校の教師でもして俺とふたりで生きていくとずいぶん頑張ったらしいが、無理な話だった。父が手を回せば、いわくつきの女を雇ってくれる学校なんてどこにもない」
しおんの表情が歪んだのを見て「よくある話だ」と龍郷は続けた。
「俺がこの家に引き取られると、本妻が心を病んだ。母は大人しく別宅に住んで、俺は本妻を母と呼ぶように躾けられたが、女性としてそんなに簡単に割り切れるものではなかったんだろう。俺が優秀な成績を収めれば収めるほど、父の田舎の豪商から嫁いだ箱入りの彼女は、母にも引け目を感じていくようだった」
元々体も丈夫でなかった彼女が日に日に衰えて亡くなると、龍郷は一真の母を呼び寄せて強引に再婚した。そのころ龍郷デパートの前身である事業は波に乗っていたし、政府からの要請で数年英吉利に渡り経済を学ぶことになった龍郷にとって、語学が堪能な才女である母の存在が便利だったからだ。
当時はまだそんな女性は少なく、実際に血の繋がった母子ならなお好都合、なんの問題がある、というのが龍郷の考えだったらしい。
「結局母も心労がたたって帰国間もなく死に、父も数年前に亡くなって、俺だけが残った。だから龍郷の人間も、本妻時代からの使用人も、俺をそう呼ぶ。呪われた子と。特に伯父は、元々は妾の子の俺の手の中に龍郷の財産が転がり込んできたのが相当気にくわない様子で、たまにああして権利書のひとつも奪えないかとやってくる。本当ならこんな時間に約束もない客なんて、家令が許さないものだが」
敢えて止めなかったということなのだろう。
つまり家令も龍郷の存在を快くは思っていない。それならそれで暇でも申し出れば良さそうなものだが、恵まれた給金を捨てる気はないのだ。
「くそだな」
思わず呟くと、龍郷は唇の端をかすかに持ち上げた。いまさらそれ以上は感情を揺さぶることもない、といったていで。
「この邸で俺の本当の味方は女中頭くらいだ。彼女は母が家庭教師だった頃からの女中で、英吉利まで来てくれた間柄だからな。店なら野々宮くらいか。他はみんな俺が失敗する日を指折り数えて待っている」
そんな、と窘める気はしなかった。おそらくそうだろうと思ったからだ。さっきの伯父の態度を見るまでもなく、人間はそういうものだとしおんは知っている。詳しい事情も知らず、いや、知らないからこそ、成功を妬み、失敗を望む。
――あれ?
なんだか胸の奥がちくりと痛んだような気がする。なにかを咎めるように。その正体を掴む前に龍郷が焼けこげたぬいぐるみを抱き上げた。
「これは英吉利にいた頃母が買ってくれたものだったんだが……」
ふたりの慰めだったという百貨店でだろうか。だったらやはり大事なものだ。同じ物を買えば済むというものではない。
そして、失敗を望まれながら龍郷がデパートにこだわるわけもわかった気がした。あのきらきらと輝くホールで語ったこと。手を伸ばした先にあるものは、父親への怒りと母への憧憬なんだろう。
いい家に生まれてふた親が揃ってれば、幸せなもんだと思ってた。
なんと言ったらいいかわからず押し黙るしかないしおんの気配を察したのか、龍郷は肩を竦めて言った。
「まあいいさ。もう、ぬいぐるみがなければ眠れないって歳でもない」
こういう調子で話を終わらせようと、終わらせてくれようとしているのだと、しおんにはわかった。ここは合わせておくべきだろう。
「ほんとかよ」
揶揄するような響きを敢えて乗せれば、龍郷はこちらを向いて一瞬片眉を上げた。
「実は嘘だ」
それが存外切実なため息交じりだったような気がして「え」と思わず身を乗り出すと、乗り出した肩を抱き寄せられた。寝台の上に―というより、龍郷の上に倒れ込む。そのままぎゅっと抱き寄せられた。
「だからおまえに代わりを務めてもらおう」
しおんの薄い胸に顔を押しつけて言う。吐息が布越し伝わってくるが、表情は見えなかった。いったいどういうつもりで、と問う前に、不満げな呟きが柔らかな寝巻きの胸をくすぐる。
「抱き心地が悪い」
「文句言うなら離れろ」
「抱き心地が悪い分、追加で奉仕してもらうか」
「――」
それは。
〈そういうこと〉なんだろうか、やっぱり。
今朝のあれこれが一気によみがえる。しおん思わず体を強ばらせた。なのに、どこか身の奥がうらはらに湿るような気もする。
逃げ出すための方便でしかなかったはずなのに、拓かれた記憶をまだ体が保っていることが腹立たしかった。自分のものなのに、自分で制御できない疼き。
知らずうち、喉がごくりと鳴った。
「……べつにいいけど、あんたはこんな時間まで仕事で、さっきはあんなことがあって、よく――――だいたいそれで支払いはいつ終わ」
「頭を撫でてくれないか」
「―――え?」
「頭を撫でろと言った」
くり返される。どうも自分の聞き間違えではなかったようだ。聞き間違えでないとわかったところで戸惑いは消えない。
頭を、撫でろ?
子供みたいに?
龍郷はさあ、と額を胸に押しつけてくる。
どこが「呪われた子」なんだよ。しおんは瓢箪池のほとりでたまに会う野良猫を思い出していた。撫でろ、とばかりにぶにゃっと鳴いて、望み通りにしてやると、あとはもうこちらを顧みることなく去って行く。
「はやくしろ」
「……野良猫よりだいぶかわいげはないな」
だいたいこういうのは、強要するようなものなのか。強要した結果撫でられて嬉しいのか。
「なにか言ったか?」
「別に」
追求をかわすようにしおんは言って、龍郷の髪をしぶしぶ撫でる。龍郷の髪はしおんから見れば憎たらしいほど真っ黒だった。いっそひっぱたいてやろうか、とも思ったが、面倒なことになりそうだなと考え直す。黒さから受ける印象とは裏腹に、手のひらに触れる髪の感触はやわらかい。
その瞬間、なにかが頭の中で小さく弾けた。違和感とも呼べないような、ごく微かな、飛沫のような感慨が。
「――?」
「どうした?」
ほんの微かな戸惑いだったのに、龍郷が敏感に気がついてこちらを見上げてくる。
「別に」
「じゃあ、撫でろ。早く」
だからなんでそんなに偉そうなんだよ―龍郷には見えないのをいいことに、しおんは思い切り眉根を寄せて、龍郷の頭を再び撫でた。
いつだったか、こういうことをした気がする、と思いながら。
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