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第13話
寝台の上であぐらをかいて寝間着に着替えるしおんのそばに、龍郷の姿はない。
結局あのあと「あの剣幕では寮に住むのは難しいだろう」とふたたび邸に連れ帰られた。龍郷はといえば、しおんの世話を今朝会った女中頭に頼むと慌ただしく着替えてまた外出したのだ。
従業員なら、閉店すれば家に帰る。だが龍郷には明確な「終わり」がない。難儀だな、とうっかり思ってしまってしおんは眉根を寄せた。
いや、こんな邸に暮らして贅沢してるんだから、そのくらいの代償はあって当然だ。
同情なんてしてやることはない。……ないはずだ、と思いながらしおんは最後の釦を留めた。と同時にあくびが口をついて出る。
敵地とは言えしおんも人の子だ。食事と寝床を与えられればたやすく睡魔に屈してしまう。
――今日はもう遅すぎるしな。
逃げ出す算段はまた明日だ。
寝台に潜り込もうとしたとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「おやめください、主の留守に」
どうもあの女中頭のようだ。いつもの落ち着き払った印象とは裏腹に、ずいぶんうろたえているようだった。
「甥の元を伯父が訊ねてきてなにが悪い」
「ですから、今は不在ですので」
「ここは元はと言えば私の家だったんだぞ」
応じるのは、年配の男の声のようだった。上等の絨毯が敷いてあるというのになおかつ響く無遠慮な足音は、廊下から隣の書斎に入る。今朝自分が忍び込んだ印象では、そこは龍郷の極めて私的な空間という気がしたのだが、伯父という人物が勝手に出入りするものなのだろうか。
いや。
金持ちの家の事情などよく知らないが、引き止めようとする女中の様子からいっても、普通のことではないだろう。そもそも伯父だとかいう人物の声には、離れて聞いていてもわかるほどの棘がある。横柄さなら龍郷だって負けていないが、なにかそれよりもたちの良くないものをしおんは感じて、寝室側から書斎のドアをそっと開けた。
龍郷の伯父は書斎の中をがさがさと家捜ししていた。まるで今朝の自分を見ているようだったが、見つからないようにという配慮がない分、男の散らかしようは酷い。
しおんの目から見ても持ち主が大事に使っていることがわかった机の引き出しをがたがたと音を立てて乱暴に開けたかと思えば、忌々しげに舌打ちをしてそのままにする。引き出したうちの一つがそのまま落ちて大きな音を立ててもお構いなしだ。金持ちにしてはやることががさつなのではないだろうか。
思わず息を呑んだ気配を察したのか、男がこちらを振り向いた。淀んだ水たまりのような瞳にしおんを映すなり、言い放つ。
「――なんだ、この気色の悪い餓鬼は」
気色の悪い餓鬼。
それは、慣れた反応のはずだった。しおんの姿を見た者は、みんなそう呼んだ。口に出す者と出さない者がいたというだけで。
けれど今日は洋食屋の女給や学者夫婦にやさしくされたせいだろうか。なんだか胸にぷっすり刃物でも突き立てられた気がする。切れ味が鋭すぎて、刺さった瞬間はなにが起きたかわからないようなそれは、次第にじわじわと痛みを連れてくる。
「一真様の客人です」
女中が毅然と応じると、伯父は「ふん」と鼻を鳴らした。
「客人? これがか。呪われた子には相応しいがな」
そう吐き捨てると、もうすっかり興味を失ったようで、男は再び家捜しに戻る。
呪われた子――?
誰のことなのかとっさに結びつかず、しばたいている間に、男はおおかた机の周りを物色し終える。だが目当ての物は見つからなかったようだ。
「ええい、なんだ、こんなもの」
癇癪を起こした男に掴み上げられたのは、今朝見かけたあのぬいぐるみだった。
見つけたときには書棚の一番下に隠すようにしまってあったのだが、あのあと奉仕することになって、元の場所に戻した記憶はない。そのあと床に転がしたままだったのだろう。
伯父がいら立った様子で投げつけた熊は机の上で跳ね、壁まで飛び上がると壁の灯りに触れた。硝子のほろが割れ、ぼ、という音と共に本物そっくりの毛並みに火が燃え移る。龍郷の邸では室内灯も瓦斯でまかなっているのが災いした。
「きゃ――」
火のついたぬいぐるみは再び机の上に落ち、龍郷のイニシャル入りの便せんに燃え移る。
「お、お――」
伯父は手にしていたステッキでそれを数度叩きつけ、形ばかりの消火をすると「片づけておけ……!」と捨て台詞を残すと、逃げるように去って行った。
「どうした、今、伯父上が――」
慌ただしさの余韻がまだ残る間に、入れ違いに帰宅したのだろう龍郷が戸口から中を覗く。ひと目見るなり惨状に口をつぐんだ。
「一真様、申し訳ありません。私があの方をお通ししたばっかりに」
「……いや、いい。どうせ言っても聞かなかったんだろう」
ため息と共に紡がれる言葉には、こんなことが起きるのを予測していたような響きがある。
身内があんな振る舞いをするのが、普通だってのか?
「それにしても、大事な書類関係はこんなところにはしまわないとわかりそうなものだが。あの方も養子先の事業がうまくいかずにずいぶん焦っているとみえる……」
「片付けはいいからもうやすみなさい」と告げ、女中を下がらせると、龍郷は寝室に入って上着を脱いだ。あらためて深くため息をつく背中に、しおんは思わず声をかけていた。
「……悪い」
「なにが」
「これ、大事なものだったんだろ。俺が元の場所に戻さなかったから」
拾い上げた熊のぬいぐるみは、顔の半分が黒く焦げてしまっていた。すべて燃えてしまわなかっただけましなのかもしれないが、むしろ痛々しさは大きい。
「――」
龍郷は一瞬驚いたように目を見張り、それから、ふっと口元を緩めた。
苦笑のようでいて、どこか淋しさの伴うその笑みは、すぐにひっこむ。
「ずいぶん殊勝なことを言う」
「――悪かったな!」
そうだ。自分だって同じ盗人を働こうとした身で、いうなればあの男と同類だ。
けれど声をかけずにはいられなかった。
力なく寝台に腰を下ろす龍郷が束の間見せた疲労が、こんな時間まで仕事をしていたせいだけではないような気がしたから。
しおんの言葉を混ぜ返していつものようにひとしきり笑ったあと、龍郷はもうすっかりいつもの表情に戻っていた。
「怪我はなかったか?」
「俺はだいじょうぶ、だけど」
「けど?」
言ってしまっていいことなのかわからず、口を閉ざしたのは明らかに失敗だった。これではなにかあったと言っているのと同じだ。
「伯父上に、なにか不愉快なことでも言われたか?」
「俺のことじゃなくて……呪われた子って」
訊いてしまっていいことなのかわからない。だがその言葉は、酷い扱いに慣れた自分の胸にもつかえるほど忌々しげに紡がれたのだ。およそこの、華やかな邸に不似合いな。
龍郷は形のいい目蓋を、一瞬だけ物憂げに伏せた。
「それは俺だ。俺は、この家でそう呼ばれている」
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