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第20話

 受け身は取れなかった。最初に感じた痛みは記憶にある。あとはもう何度打ち付けられたのか数えてはいられなかった。自慢の大階段を為す術もなく転がり落ちて、ああ、死ぬんだと思った。  死ぬ。  かつてはそれを望んだこともあったのに、今は恐怖のようなものがせり上がってくる。しおんはきつく目を閉じた。  最後に誰かが自分の名前を呼んだ気がした。    一番下まで転がり落ちたはずなのに、覚悟したほどの衝撃はない。やっぱりあの世はふわふわしているものなのか。訝しみながら目を開き、しおんは気がついた。  誰かが自分を庇って下敷きになっている。  ―唇からこぼれ落ちた声は、ひどくかすれていた。 「……おまえ、なんで」 「食堂にいなかっただろう……すぐ戻ると言ったのに」 「そういうことじゃなくて」  なんでおまえが俺の下敷きになってんのかって話を―問い詰めたいのに、それ以上声が出なかった。散々発声練習も重ねて、歌うことに慣れたはずのそれが。  なにも言えないしおんに反し、龍郷は訊ねてくる。 「怪我は」 「けが?」  あちこち打ち付けたのに、気が回らなかった。痛みはあるが、腕も足も問題なく動くようだ。 「俺なら、どこも。―、おまえ!」  答えようとして気がついた。  龍郷の頭の下に広がる血だまりに。  磨き上げられた大理石の床はそれを吸い込むことはなく、ただ広がっていくばかりだ。怪我などないはずの体が、その瞬間、四方に引き裂かれたような気がした。  しおんの答えに安堵したかのように龍郷は目を閉じる。その薄いまぶたがみるみる青ざめていく。 「――だ、」  ばらばらの感覚を取り戻すことも出来ないまま、しおんは龍郷の体にとりすがった。 「やだ、やだ、龍郷―龍郷!」 「しおん。おい、しおーん」  木々の間に名前を呼ぶ声がこだましている。  うっすらと靄がかかった高原の空気は、夏だというのに肌寒いほどだった。だが同時に、しっとり肌を覆って、都会からまとってきた空気を洗い流すようでもあって、不快ではない。  声の主を無視してずんずん歩く。初めて来る場所だったが、目指す建物はこちらだと聞いているから問題ないだろう。そういう勘は鋭いほうだ。  ――と、己を過信した瞬間、なにかに足を取られてつんのめった。 「――ッ」 「しおん!」  靄の中から血相を変えて追いかけて来た龍郷が、不似合いに抱えた大きな鞄を脇へ放り出す。しおんを支え起こすと、小道の脇の岩の上に座らせた。  まるで舶来者の人形の不具合でも確かめるように、しおんの足をじっくりと検分していく。 「下がやわらかい土で幸いしたな。ひねってないか?」 「……大丈夫だよ、大げさだ」  まじまじと見つめられるのが恥ずかしく、ぶっきらぼうに告げる。龍郷はにやっと口の端を歪めた。さっきまでの真剣な眼差しは一瞬で霧散して、見る間に人の悪い色に染め変わる。 「おまえほどじゃないがな」  しおんはリボンのついた麦わら帽子を頭から外し、思い切り投げつけた。当たったところで痛くもないだろうに、大げさに飛び退いた龍郷は、帽子を拾い上げるとまだ愉快そうに薄笑いを浮かべている。  あの日、大階段から転がり落ちたしおんを受け止めた龍郷の傷は、結論から言うとたいしたことはなかった。 「頭の怪我だから、怪我の割に血が沢山出たんだろうって」   と医者の言葉を伝えた野々宮は「ここのところ休養らしい休養もとってなかったし、ほとぼり冷ますのもかねて避暑にいったらどうかな」と強引に休暇をねじ込んだ。そうして汽車の手配まで済ませると、ふたりを龍郷の別荘へと送り出したのだった。  野々宮からか、他の社員からか、しおんが泣き叫んでいた(そんなつもりはないのだが)と聞いたらしく、龍郷は終始にやにやしている。おかげで初めて乗った蒸気機関とやらも素直に楽しめず、駅へ着くなり荷物を押しつけてずんずん歩いてきたところだ。  龍郷のにやにや顔がふと改まる。 「――血が出ているな」  ひねりはしなかったが、すりむいてはいたようだ。「たいしたことねえよ」とさえぎる前に龍郷はしおんの前に跪いた。 「……そんなに吸ったら、いてーよ……」  憎まれ口を叩きながら、身じろぐこともできない。頭上で梢を小鳥が揺らした。          「ここらは明治の頃から避暑地として開発が進んだところで、うちもいくらか出資している。向こうのスーパーマーケットに品物を手配してるのもうちだ」  休めと言われてきたはずなのに、結局はこうして仕事の話になる。別荘の中を案内されながらしおんは密かにげんなりとした。  こんな山の中なのに、大正の初めの頃から電気が通されているという。外国人も多く、そんな土地柄を好む学者や文化人が多く別荘を持つ。  そのせいなのか、龍郷が通いで世話を頼んだ地元の管理人も、しおんの姿を見ても奇異の目を向けてくることはなかった。皇族も訪れる土地で、人の容姿をじろじろながめまわすようでは勤まらないのだろう。  管理人に最低限の世話をさせて返すと、龍郷はベッドの上に大の字に寝転んだ。そんな寛いだ様子は珍しい。 「あのさ、俺はなにをしたらいいの」 「なにもしないをしにきたんだから、好きに。そうだな、少し休んだら散歩にでも行くか。釣りもできるだろう」  なにもしない、と言われると手持ちぶさたになるのは自分もだった。なんとなく身の置き所もなく、ならんだベッドのもうひとつに腰掛けると、さっき龍郷の舌が触れた膝頭が目に入る。それで、言わなければと思っていた言葉を思い出した。 「……ごめん」  龍郷は半身を起こし、肘で頭を支える。 「なぜ謝る?」 「俺のせいで、あんたに怪我させたから」 「ああ、」 「ッ、そーいう顔するから謝りたくなかったんだよ! ばーかばーか死ね!」  しおんがつっかかればつっかかるほど、龍郷は辛抱たまらない、というていでくつくつ笑う。ここまで来たら気の済むまで笑わせてやるさ、としおんは悟りの境地を開いて放置に撤した。それは〈気の済むまで殴らせる〉の他にしおんが最近覚えた対人術だった。  龍郷がやっと笑いをひっこめたところで(けっこうな時間がかかった)もうひとつ、帝都を出てからずっと気がかりだったことを言葉にする。 「けど、良かったのか? 俺、出番に穴開けて……」  他の少年たちは今日もきちんと勤めているはずだ。それも落ち着かない要因のひとつだった。 「おまえがいなくちゃ龍郷デパートに客が来ないって? いつの間にか頼もしくなったな」 「そんなことは言ってねえよ!」  からかわれているのだとわかっていつつ、ついむきになって返してしまう。 「……ただ、俺はそのためにあんたに買われたんだから、借りの分くらいは」  ああ、なんでこんな探りを入れるみたいな言葉が口をついて出るんだろう。自問しながら、一方で、冷静な自分の声もする。  そりゃ、探りを入れたいからだ。  ……龍郷は、龍郷百貨店を自分の色に塗り替えたいと思っている。それが母親と自分を物のように扱った父親への復讐だからだ。自分は言うなればその手段のために拾われた駒だった。  あとは、ぬいぐるみ代わりか。  どこまでが本気でどこまでが冗談なのかさっぱりわからないが、初めの日以来龍郷が自分を性的な意味で抱くことはなかった。おそらく忙しすぎるからだろうと思うが〈そういう〉務めもしない、歌いもしないとなると、自分がここにいる意味がわからなくなる。寝る前に頭を撫でろという要求も、龍郷の帰宅時間がばらばらなためうやむやになりがちだ。  朝方うとうとと目覚めると、背中側から龍郷がしおんの体を抱いている。それが妙に温かくて心地よくて、もう一度眠りに落ちる。ちゃんと目覚める頃には龍郷はすでに出かけている。もっぱらそれのくり返し。  もうずいぶん前、それも半ば無理矢理だったのに、龍郷の愛撫を思い出すと、どこか体の奥のほうがじゅっと潤むような気がした。湿った苔を踏んだときのように。  もう一度〈そういう〉支払いを命じられたら、たぶん自分は応じるだろう。       ……理由を深く考えるのはやめている。なんで、と思うくせに、はっきりと直視してしまうのは怖い。そんな厄介なものがずっと喉元につかえている。それは、龍郷が自分を庇って怪我をした日を境に、ますます存在を増しているような気がした。  そんなところへ持って来て、二人きりの休暇だ。ひどく落ち着かなくて、身の置き所がない。  寝台に身を投げ出しているうちに眠くなったのか、龍郷は寝返りを打ってしおんに背を向けた。 「おまえは根が真面目だな」  そんなことはない、と思ったが龍郷が「そうだ」となにか思い出したように顔だけこちらに向けるから、否定しそびれた。 「おまえの提案で出すようになったお子様ランチもさっそく好評らしいぞ。その褒美の休暇だとでも思っておけ」 「俺っていうか、あんたのだろ」  少しずつ全部食えたらいいのに。そんなしおんの戯れ言から龍郷は閃いたらしく、クロケット、オムレツライス、海老フライなどをすべて小さくしてひとつの器に盛り付けた「お子様ランチ」を出すよう食堂部に指示しを出していた。手当を受けている病床からだ。翌日からさっそく大食堂のメニューに載ったそれは、一週間もしないうちに大人気だという。  人が怪我の具合はどうなのかとやきもきしている間にもこれだ。龍郷の頭の中は常に店のことだけで占められている。 「残された者が頑張るさ。それだけの練習はしてる」という龍郷の声はあくびに紛れていた。  そもそも本来の目的である休息の邪魔をするのも憚られ、しおんは口を噤んだ。  龍郷の背中越し、すぐに規則正しい寝息が聞こえ始める。  取り残されて手持ち無沙汰なまま、しおんはそっと寝台に近寄って龍郷の頭を撫でた。誰もが羨む百貨店王も、こうしているとまるで幼い子供のようだ。それを自分だけが知っている。  まだ日は高いはずだが、辺りは心地よい静けさに包まれていた。浅草の夜の底に沈んだ、どんよりとしたそれとは違う。  聞こえるのは、小鳥の囀り。それと龍郷の微かな息づかい。  手持ち無沙汰であることは変わりないはずなのに、酷く穏やかで贅沢な時間のような気がした。 「……いつまで続くんだろうな」  こんな、心地いいときが。  気づいたら、そんな言葉がこぼれ落ちていた。幸い龍郷の眠りは深いようで、起こしてしまった様子はない。  ―俺も寝るか。  起きていたら、どうしても胸のつかえと向き合ってしまう。龍郷の下に広がる血溜まりを見たとき、どうしてあんなに苦しかったのか。怪我はなかったはずなのに、四肢をもがれたように感じたのか―  自分に割り当てられたベッドに潜り込む。夜一度目覚めて管理人の用意していった軽い夜食を食べると、また眠ってしまった。 

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