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第21話

   翌朝、寝台の中に龍郷の姿はなかった。  用意されていた夏用のセーラー服に着替えて階下に降りる。管理人がこの土地で外国人相手に商売をしているという店から届けさせたベーコンを厚めに切り、卵と共に焼いてくれた。 「あいつは?」 「おでかけになられましたよ。昼過ぎには戻るので、あなた様はそれまで好きにするようにと」  散歩だろうか。それなら自分を起こしてくれても良かったのに。いや、起こさなかったところを見るとまた仕事がらみなのかもしれない。たしか龍郷の競合相手がいくらか出資したホテルがあるとか言っていたから、それを偵察にでも行ったのかもしれない。  ともかく朝食を腹に詰め込んで、しおんも散歩に出てみることにした。  早朝の高原は、昨日より一層爽やかだ。  浅草時代は容姿を隠すため人目につかない時間を選んで外に出ていたし、龍郷に拾われてからは音楽隊の歌い手として見られる立場になってしまったから、そこらを気ままにうろつく訳にはいかなかった。  だがここでは、誰に気兼ねすることもなく堂々と歩ける。ほとんど人とすれ違うこともない。龍郷を探しに出たはずだったのだが、しばらくは無心でぷらぷら歩いてしまった。やがて、通りの向こうから自転車に乗った少女がやってくるのが見えた。  この辺りに別荘を持つ華族の娘だろう。東京ではそれなりの家の娘が供も連れずに外出することはまずないが、避暑地では彼女らにも自由があるのだとは、汽車の中で龍郷に聞いた話だ。人気のないことにすっかり気をよくしていたしおんは思わず体をこわばらせた。せっかくの爽やかな気分に水をさされたくはなく、やりすごそうと道に端に避けた。のに、自転車はわざわざそんなしおんの傍に寄って停まった。 「あなた、しおん? 龍郷デパートの?」  こういうときいつもそうするように、ただ黙って少し笑みを浮かべてやる。 「わたし、何枚もブロマイドを持っていてよ。ばあやに頼んで、少しずつ集めているの」  デパートで取り囲まれたときのように大勢でないのが救いだが、こんなふうに真っ向から好意を向けられると、未だにどこか他人事のような気がしてしまう。会釈だけして去ろうとすると「待って」と籠を探って取り出した桃を、しおんの手に握らせた。 「村の人にいただいたの。おひとつどうぞ」  それだけ言うと、じゃあ、とあっさり去って行く。おそらくは同じ都会の監視から逃れた身の上を気遣ってくれたのだ。  つまりは対等に扱われたのだ。  華族のお嬢様に。  あらためて思う。自分にこんな暮らしをくれたのは龍郷だ。始めは成り行きだったとしても、それはもう動かしがたい事実だった。  俺はあいつに、なにを返せる?  ここのところ自分の中に生まれたそんな感情を、しおんはもう見て見ぬ振りをできずにいた。それは手渡された桃と同じように扱いにくいものだ。しっかりと握ってしまったら、そこから浸食されていく気がする。かといって捨ててしまうこともできない――  扱いがたい感情を胸に抱いたまましばらくあてもなく歩いていると、木造の大きな建物が見えてきた。大きいが、途中見かけたホテルのように豪奢な造りではない。回り込んでみると、建物から見下ろす辺りに林を切り出して拓けた一画があり、そこで何人かが奇妙な形の網を持って、小さなボールを追いかけていた。テニス、とかいうやつだ。  コートサイドに立てられたパラソルの下、ひとりだけテニス用の装いではない男がいる。  龍郷だ。テニスに参加こそしていないが、楽しそうに談笑している。用事とは、ここに顔を出すことだったんだろうか。  一緒にいる連中は年齢も様々で、男女入り交じっている。その中に見覚えのある夫婦の姿があった。  あの日食堂にいた夫婦だ。その隣りには、若い娘―― 『小松原様のお嬢様と縁談が進んでいるっていう話よ』   噂好きのご婦人の声が、下世話な口調ごと耳の中で響いた。爽やかだった空気が、一瞬で不快にまとわりつくものに変わる。   白い帆布のパラソルの下にいる龍郷は、男爵や夫人との会話を楽しんでいるように見えた。夫人がことあるごとに娘のほうへ目をやって、話を振っている。娘ははにかみながらもどこか興奮しているようだ。頬の赤みは、テニスをしたばかりだからというわけでもなさそうだった。ほかの傘の下にいる女も男も、そんなやりとりを羨ましそうに眺めている。  中には大胆に傘の下まで龍郷を誘いにきた女もいた。龍郷が自分の出で立ちを指さすようなそぶりをして苦笑すると、女たちは残念そうにコートに戻っていく。まだ八割ほどが着物姿の帝都と違ってみんな洋装だ。中には、膝上までしかないスカートを履いた者もいる。  もちろん体を動かしやすいようになのだろうが――  なんか、これって  龍郷に見せるためじゃないのか、と勘ぐってしまう。そしてそんなことを考える自分に驚いてしまう。  帝都ではけして見ることのない短いスカートがひらひらと翻るさまに気を取られていると、いつのまにか龍郷がパラソルの下から姿を消していた。  帰ったのか。  辺りを見回すと、遊歩道のほうに歩いて行く人影があった。隣りにいるのは小松原の娘だ。  気づいたら、あとをつけていた。  高原の爽やかな空気が、今はどうしてか吸い込むだけで肺に突き刺さる。  ふたりは遊歩道の途中にある四阿(あずまや)へ向かっているようだった。ただ話をするだけならコートの傍でも構わないはず。そんなところにわざわざ移動して、一体なにを話すと言うのだろう。  東京で年頃の男女がこんなふうに並んで歩くことはまずない。もしも人目を避けるようにして歩いていたのならそれはもう、そういう関係ということだ―  土を踏み固めてあるはずの道が、やけにふわふわする。倒れそうになって足を踏ん張ったとき、手の中から桃が滑り落ちた。  とっ、とごく微かな音しかしなかったのに、 「しおん?」  龍郷の声が木立の向こうから聞こえ、なにか娘に早口で告げている。落ちたままにした桃にくっきりとついた指跡が、逃げるように踵を返したしおんの視界をかすめた。 「しおん、どこへ行くんだ。おまえ道はわかるのか?」  わからない、と胸の中だけで答える。もうとっくに戻れない。こんなとこまでくるはずじゃなかった。  構わずに道をはずれて、木立の中へずんずん分け入った。足元をとられて何度も転びそうになる。どこへ向かっているか、もちろんあてはなかった。ただこの自分でもわけのわからない感情を消化するために歩いているのだと思った。 「しおん」  都会育ちとはいえ、向こうの方が体格は大人だ。追いついた龍郷に後ろから腕を掴まれて、向き直らされた。 「なにを……怒ってるんだ?」  自分でもわかんない。幼い子供のように口をついてしまいそうになるのを、かろうじて堪える。  わからない。わからないわからない。むかついているような気もするけれど、なににむかついているのかわからない。  話したくないと思うのに、女を置き去りにして追ってきてくれたのを心のどこかで嬉しいと思っている。  ――全部、わかんねえ。あんた、やり手なのにわかんねえの。  腹の中でそう罵ったとき、不意に視界に影がかかった。ああ、十二階の影だ。湿ったにおいが鼻腔をよぎった。  と思ったとき、空がうねり始めた。  影の正体は雨雲だ。まるで呼ばれるのを待っていたかのように、雲はみるみる木立の上を覆った。 「ひと雨来るな。戻ろう、し」  龍郷がさしのべる手を掴むのが遅れた瞬間を見計らったように、強い雨がふたりを容赦なく叩いた。  ただでさえ木立に遮られて悪い視界が、ほとんどなにも見えなくなってしまう。夏用のセーラー服の生地はあっというまに水気を孕んで、肌にぺったりと貼り付いた。それ以上に不快なのは、心臓の内側にぴったりはりついたみたいな感情だった。ひっかいて剥がしてしまいたいのに、どうやったって届かない。  龍郷もびしょ濡れだった。濡れた前髪が額に落ちかかって、さっきまで愛想を振りまいていた色男が台無しだ。  ざまあみろ、と腹の中で罵るしおんの視線に気がついたのか、少しむすっと口を引き結ぶと、煩わしげにかき上げる。 「そうしてると、初めておまえを見つけたときみたいだな」  同じことを考えていた。  あのとき、ずぶ濡れの俺をこいつが見つけてから、俺の世界はすっかり変わってしまった。 「ともかくここは足場が悪い。道に戻ろう」  その提案には大人しく従ったほうが良さそうだった。湿った腐葉土は足を取られやすい。無言で差し出された腕に仕方なく掴まってしばらく行くと、木立の奥にひっそりと佇む建物があった。人が住んでいる気配はない。    しおんの疑問を感じ取ったのか、龍郷が呟く。 「教会だ。もともとは外国人用の別荘地だからな。外国人の人数が増えるに応じて増えた。よし、あそこへ行こう」  教会には個人的にあまりいい思い出がないのだが、そうも言ってはいられない。入り口のドアを押して中に入り、雨から逃れると、いい思い出がないとはいえほっとした。  とはいえ、濡れた体を拭くような気の利いたものも持ってきてはいない。  くそ、と思いながら貼り付く胸の辺りを持ち上げる。思わず「は」と漏れた苦笑を、龍郷が聞き咎める。 「どうした?」 「……これくらいのことをいっちょまえに不快に思うなんてと思ってさ。つい数ヶ月前まではいつ死んでもおかしくなかったのに」  今よりずっと不幸な暮らしだったはずなのに、あの頃のほうが良かったと思うことがある。  あのころはただその日を生きていれば良かった。不満を垂れ流していれば。やりたいことはなにもなく、行きたいところも、行ける場所もなかった。  でもこんなふうに誰かの気持ちがわからなくて、不安になることなんてなかった。 「……あんた、さっきなに話してたの」  どうせわけがわからないついでだ。半ばやけになってしおんは訊ねた。あの娘と縁談が進んでいるのなら、はっきりとそう聞きたい。さっきからずっと心臓にとりついている、もやもやとしたものが、それでなければ取り払えない。  龍郷は「さっき?」と呑気な様子だ。 「華族の娘と話してただろ。楽しそうに」  それでやっと思い当たったのか「ああ」と龍郷は険しい顔をほころばせた。  あの女のことを思い出しただけでそんな顔になるのかと思うと、もう一度頭から雨水をひっかぶった気持ちになる。そんなしおんの気持ちに気づくはずもなく、龍郷は先を続けた。 「あの男の子のことだ」  あの男の子? 誰のことだ―― 「内親王が支援している孤児院があって、小松原のお嬢様もその手伝いをしているから、便宜を図ってもらった。なにもかも充分にしてやれるわけじゃないが、以前の施設よりはずいぶんましなはずだ」  ――ユウ。  しおんを突き飛ばしたあと、持ち前のすばしこさで逃げおおせたものだと思っていた。  忘れていたわけではない。龍郷の怪我の経過に気を取られていたし、大したことがないとわかってからは、旅の準備に追われていたし、探す手立ても自分にはなかった。  いや、とそんな自分を咎める声がする。  やりようはいくらでもあった。例えば野々宮に頼むとか。彼ならきっと何もかも含んだ上で手配をしてくれただろう。  それをしなかったのは、怖かったからだ。無意識のうちに目をそらしたから。  向き合うのが怖かった。ユウがあんなことをしでかした理由の一端は、確実に自分にあるのだから。  そもそも選考会自体があの夜あそこで行われるはずのないもので、自分が龍郷の目に留まったのがまったくの偶然にすぎないのなら、ユウにもその幸運が訪れる可能性はあった。彼のそんな言い分も、その通りだと思った。  あの日「やめとけ」と彼をひきとめたのは、しおん自身の弱さだ。  どうせ自分たちはここでくすぶって生きるしかないのだと、すべてに倦んでいたのはしおんの勝手だった。  逆恨みと言えばそうだろう。だがしおんの中には、ユウの恨みは当然だという気持ちもあった。もしももう一度会うことがあって、ふたたび罵られても、甘んじて受けようと思った。だがそれは自分とユウの間の問題だ。    ―俺がひとりで背負えばいいこと、なのに。  龍郷は自分が特別なことをしたという素振りも見せず、言う。 「今ではすっかり落ちついて、他の子供たちとも仲良くやっているそうだ。帰ったら話そうと思っていた。おまえが気になっているんじゃないかと思って」   気遣われてる。  俺が、うだうだと自分の気持ちと向き合うことから逃げてる間に、こいつは、こんなに。  想像もしなかった世界を、俺に見せてくれるんだ――

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