25 / 30
第25話
その男が現れたのは、残暑の東京に戻ってしばらくした、音楽隊の練習後のことだ。
高原の爽やかな空気を知ってしまったからなのか、まとわりつくような夏の残滓が一層不快に感じられる昼下がりだった。
「しおんさんですね」
――こいつ、どこから。
声をかけられるまで、気配らしきものを感じなかった。音を出す都合上音楽隊の寮は周りにあまり民家のない辺りにあり、用のない者が偶然前を通りかかるということはめったにない。
一言声をかけられただけなのに、なにかこちらを不快にさせる雰囲気を男は持っていた。
取り敢えず出方をうかがう意味でしおんは押し黙る。ミステリアスとやらが自分の売りらしいから、問題ないだろう。迎えはまだだが少し歩いて振り切ろうとするしおんに、男は食い下がった。
「あなた、龍郷社長のお邸で寝起きしてるんですよね。華族の小松原様のお嬢様と社長との婚約話について、なにか聞いてないですか」
私、こういうものですと小さな紙片を差し出す。
――こいつ、記者か。
それで合点がいった。腰を低くしながらなにか卑屈に探り出そうとするような目。記者なら今までにも何人か会ったが、こいつは好意的な宣伝記事を書いてくれるわけではないだろう。下品で扇情的な記事を得意とする輩だ。
だとしたらもうなにも遠慮することはない。存分に無視してやろうと名刺を受け取らずに再び歩き始めると、男は「そうですか、ご存じないですか」と独りごちている。
いや、独り言にしてはやけにねっとりとしていた。残暑の空気のように。
「では、不憫な少年を拾い上げたことになっているが、実は愛人で、しかも元掏摸ときている……という噂は?」
「――」
まずい、と思ったときにはもう足を止めてしまっていた。さっきまで額に汗が浮かんでいたはずなのに、体中が酷く冷たい。
――だめだ。
自分の四肢がどこにどうついているのかわからない、そんな奇妙な感覚を味わいながら、しおんは無理矢理一歩踏み出した。立ち止まったのはほんの一瞬。けれど男はその違和感に気がついただろう。しおんにはよくわかっている。狡くて人を陥れることばかり考えている連中は、そういう兆候を絶対に見落としたりしないものだと。
通りの向こうから自動車がやってくるのが見える。龍郷の家のものだ。
それは記者にもすぐわかったらしく、忌々しげな舌打ちが聞こえた。龍郷は多忙で自ら迎えにくることはないから、乗っているのは野々宮だろう。それでも接触を避けようとするところに、しおんは男の確実な悪意を感じた。狡い奴は、まず一番弱い奴を攻めてくる。
「またお伺いしますよ」
かつての自分がそうしたように、ハンチングを目深に被り直して男は足早に立ち去った。
「しおんくん? ごめんね、遅くなったかな」
「いや」
路肩に停められた自動車に乗っていたのはやはり野々宮で、しおんが途中まで歩いてきていたことを訝るように声をかけてくる。さっきまで男がいたことには気がついていない様子に安堵しながら短くそれだけ応じて、しおんは中に乗り込んだ。
座席に深く背中を預けて黙り込むと、配慮に長けた野々宮はそれ以上なにも訊ねてはこない。音楽教師に怒られた程度に思っていて欲しいと願いながら、しおんはドアのほうを向き、寝たふりを決め込む。
『実は愛人で、しかも元掏摸 ときている……という噂は?』
そんな噂が本当にあるんだろうか。いや、あろうとなかろうと、面白いと思ったら書き連ねるのがああいう連中だ。
龍郷が自分を庇って怪我を負ったあの日のことは、平日のちょうど昼時でホールに人が少なかったこともあり、単純な事故としてあった。野々宮の巧みな取り計らいもあって、客の興味はすぐに失せたはずだ。記者はどこからなにを嗅ぎつけているんだろうか。しかし下手に動けばこちらから手のうちを明かすことにもなりかねない。
どうしよう。
どうなる?
いつもその日暮らしだった。いつでも最低で、その先も最低だった。幸福を保つための心配なんてしたことがなかった。
そんなもの、一度も手にしたことはなかったから。
どうしよう。
怖い。いつも死と背中合わせだったときは恐怖なんて感じたことはなかったのに。
しおんは冷え切った指をぎゅっと握りしめた。
――あいつに迷惑がかかるのが、怖い。
しおんは書斎への出入りを許されてる。ここにある本は自由に読んでいい――そんなことを言われたところで日本語の本は少ない。龍郷が好むのは経済や思想の本だ。
それでも、たまに野々宮や女中頭に教えてもらって小説をいくつか読んだ。明治の頃に出たという、猫が偉そうな主人のことをあれこれ語る話などはなかなか面白く、しおんは本を読むという楽しみを初めて知った。以来、少しずつ他の話も読み進めている。
だが今日は、頁を開いてみても一向に頭に入ってこなかった。
半分顔の焼けてしまったくまのぬいぐるみは、まだ棚の片隅に置かれていた。一見ぞんざいな扱いに思えるが、これを龍郷が捨てることはないんだろう。
龍郷の言う通りだったと、今では思う。
人はまず、瑕に目が行く。そうしてそれを、愛さずにはいられない。
どうしてそんなふうに、と思いを巡らせる。そうして、やさしい気持ちで触れずにはいられない。
なにかしてやれることはないのかと。
このぬいぐるみを買ってもらった子供時代、デパートは龍郷の心の支えだったんだろう。
誰にも平等に、美しいものを見せてくれる。対価さえ支払えば、望むものがちゃんと手に入る。いつかあれを買ってやろうと、明日への活力にもなる。
自分も龍郷も、出自という努力ではどうにも出来ないものに苦しめられてきたから、その明快さに救われるというのはわかる気がした。元正妻派の家令や従業員たちは龍郷が先代のやることをすべて塗り替えようとしていると反発しているらしいが、それだけとも限らない。
たぶん、あいつは自分が思っている以上にデパートが大事なんだ。目の前に誰がいようとも、突然思考の向こう側へ行ってしまう程度には。
あの場所には、まだ純粋な子供だった頃の龍郷の夢が詰まっている。
出会った頃、特別に灯りを落とさずに見せてくれた夜のホール。その吹き抜けを見上げたときの誇らしげな顔。
『実は愛人で、しかも元掏摸ときている……という噂は?』
記者の下卑た笑いを思い出すと、美しい記憶が汚されるような気がした。でもそれよりもっと胃の底を不快にざわつかせている感情がある――
机の上に本を広げてはいるもののまったく内容は追えない。そのとき、書斎のドアが開いた。
「ここにいたか」
龍郷だ。
「いつもより早いんだな」
しおんが起きている間に帰ってくることはまれだ。立ち上がって席を譲ると、しおんと入れ替わりで龍郷は腰掛け、足を組んだ。そうして深く息をつくさまは、いつもより早い帰宅だというのに、酷く疲れているように見えた。
「別荘で音楽家に会っただろう」
唐突な話題が訝しく思えて、しおんは目をすがめた。思い出話をするためにわざわざ早く帰ってきたのか?
――そんなわけ、ねえか。
「……ああ」
頷くと、龍郷は深く体を預けていた椅子から背を起こし、机の上で長い指を組み合わせた
「彼から連絡があった。おまえを引き取りたいと」
「え――?」
「明治の終わり頃、彼が音楽講師として招聘されたとき、入れ替わりに本国に帰ったお雇い外国人がいたそうだ。建築家で、政府の公共事業を手がけるほかに帝大でも教えた。……その男におまえはとても似ているらしい」
龍郷があの音楽家から聞いたという話はこうだ。
当時、最先端の技術を学び取るために西欧から招聘されたお雇い外国人が多数いた。生活様式のまるで違う暮らしは彼らになにかと不都合で、身の回りの世話を焼くために女中がつけられた。慣れない極東の小国の暮らしで淋しさを募らせた彼らの中には、一時の慰めとして女中と懇ろになる者もいたらしい。
任期が終わって本国へ引き揚げてから、残された女中が妊娠に気がつく例があっても不思議ではない。そうしてひとりで子供を産み、なんらかの理由で自分で育てられなくなったのだとしたら。
「おまえは何事も飲み込みが早くて頭がいい。それは父親が国に招聘されるほど優秀な人間だからじゃないか」
それはある意味、甘い誘惑に満ちた話だった。しおんは自分の正確な年齢すら知らないが、生まれたのが明治の末なら十四、五で、見た目の印象とも辻褄が合う。
「彼はおまえをひきとって、父親に引き合わせた上でちゃんと音楽の勉強をさせたいと申し入れてきた。この前彼の前で歌ってみせただろう。おまえには特別な才能があるとあのとき改めて思ったらしい。それにおまえの父も子供の頃向こうの聖歌隊に入っていて、声がよく似ていたそうだ」
「――それで、俺にどうしろって?」
声を震わせずにそう言えたのは、単に頭の中が真っ白過ぎて、なんの感情も湧いてこなかったからにすぎない。
卓上ランプの作り出す陰影は濃く、俯きがちの龍郷の表情はうまく見て取れない。ただ、やけにはっきりとした声だけが応じた。
「行くべきだと俺は思う」
「血の繋がった親だから? あんたがそれを言うの」
今度の言葉は酷く尖った。愛などきっとないに等しくて、でも血が繋がってるというだけでいいように振り回される。
あんたはそれを誰よりもわかっているはずじゃなかったのか。
龍郷は一瞬どこか痛むような顔をしたが、小さくかぶりを振った。子供じみた憤りを振り払われた、としおんは感じた。
「……子供への人権意識も、教育も、英吉利は日本よりずっと進んでる。今それを受けられることはおそろしく幸運なことだ。言葉を覚えるのも、若ければ若いほど有利になる」
「あんたはやっぱりなんでも損得で考えるんだな」
冷酷な百貨店王。一緒に寝起きして、そんな最初の印象はあてにならないと思っていた。どちらかといえば龍郷の本質は子供だ。父親の仕打ちを憎んで、自分の城を、自分の夢だけでいっぱいにしたいと望む子供。わがままで、だけど、本当は酷く傷ついてもいる子供。
自分と少し似たところがあるなんて、思ったりもしてたんだ。
そんなのは俺の勘違いだったのか。
龍郷はなにか重荷を吐き出すようにため息をついた。
「ずっと考えていた。座長に渡した額の働きとしてはもう充分だ。だから……」
なにそれ。
俺はべつにあのまま死んでも良かった。この世界になんの希望もなくて、いつか死ねるって思ってやり過ごす日々で。
おまえがそこから引っ張り上げたくせに。
やさしい人もいる。褒めてくれる人もいる。忌み嫌われたこの容姿が、役に立つこともある。全部龍郷が教えてくれたことだった。
なのにあんたがまた突き放すの。
頭の中では叫んでいる。けれど声にはならなかった。そんなことができる性分だったら、たぶん、もうとっくに余計なひとことで大人を怒らせて死んでいる。
いまや龍郷デパートは押しも押されぬ小売店のナンバーワンだ。今日は帝劇、明日は龍郷。その言葉を知らない者なんていない。少年音楽隊を真似した宣伝隊は関西にまで波及して、それに対抗して女子だけの劇団も生まれたと聞いている。
新しい文化は龍郷から発信されている。誰もが「龍郷百貨店社長」と聞けば思い浮かべるのは龍郷一真だ。先代ではなく。
龍郷の望んだものは手に入った。
自分はもうお払い箱だ。そんなときにちょうどあの音楽家から提案があったというだけで、もともと龍郷は自分を疎ましく思い始めていたんだろう。
疎ましく――
『実は愛人で、しかも元掏摸ときている……という噂は?』
あれ以来脳裏から消えない、あの記者の言葉が再び耳の中でくり返されたとき、心は決まっていた。
「いつ?」
「――?」
「だから、あのおっさんにいつくっついてったらいいの」
「彼の帰国に合わせて、来月頭には」
思いのほか日にちがない。英吉利といえば、船で数ヶ月かかると聞いている。次の機会などというものは、ない。
腹を決めたのなら早いほうがいいのかもしれない。そのほうが迷わないで済む。
「わかった」
それだけ応えて背を向ける。
その夜、龍郷は寝台に入ってこなかった。
ともだちにシェアしよう!