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第26話
「じゃあ、気をつけて。着いたらすぐ手紙を書くんだよ」
端正な眉尻を心配そうに下げ、野々宮が自動車の窓を覗き込んでくる。
「すまない。龍郷はどうしてもはずせない仕事があって……」
そう本人が言ったのだろうが、納得していない様子はありありと見て取れた。あっちにもこっちにも気を揉んで、野々宮も損をする性分だ。
出発当日、東京はまだ残暑のさなかだった。
音楽家の雇った自動車でまず新橋へ向かう。そこからは列車で横浜へ。港から船に乗り、英吉利までは五十日から六十日だという。
それは龍郷と過ごした日々と一ヶ月程度しか変わらない。同じだけの月日をかけて、今度は離れていくことになる。
龍郷と出会って自分の世界は一変した。だったらまた、同じようになにかが大きく変わってしまうに違いない。
それならそのほうがいいか、とも思った。
いっそ、なにもかも思い出さないほど変わってしまえばいい。
――俺があいつのために出来ることなんて、それしかないし。
記者も英吉利までは追っては来られないだろう。噂は消え、龍郷は結婚し、百貨店はさらに繁盛する。
――俺が、いなくなりさえすれば。
「さあ、もう行きましょう。列車の時間に遅れてしまいます」
いつまでも名残惜しそうな野々宮をさえぎるように音楽家が急かして、車は走り出した。男は酷く上機嫌だった。父親だという建築家とよっぽど懇意だったのだろうか。
自動車は、一丁倫敦 と呼ばれる、両側に煉瓦造りのビルが建ち並ぶ通りを抜けて、新橋へと向かう。倫敦、というのは今から行く英吉利の街の名前らしい。最先端の技術を持ったその街にあやかってつけられた通りを、自動車は軽やかに抜ける。自身が子供時代を過ごしたその街に、しおんのお気に入りの猫の話の作者も留学していたといつか教えてくれたのは龍郷だった。
――なんだよ。
不意に心臓を貫かれるように悟って、しおんは俯いた。
あいつの元を離れれば、少しは楽になるのかと思ったのに。
もうこんなにあいつのことばっかり考えてる。
英吉利に着いたって、きっと、この辺りによく似ているという街並みの中で、あいつの姿を探してしまうだろう。
しおんは俯いたまま、半ズボンのポケットを探った。小さな銀のボンボニエールを取り出して、手の中に握り込む。
まだ龍郷と知り合ったばかりの頃、部屋からくすねたそれ。返す機会を失ったまま持ってきてしまった。こんなものひとつでも手元にあったほうがいいのか、ない方がすべて吹っ切ることが出来るのか、今はまだわからない。
「それは」
ぎゅっと握りしめていたから、目に留まってしまったのだろう。音楽家が訊ねてくる。
「えと、これは」
盗品だと気づかれただろうか。しどろもどろになるしおんに、彼は言った。
「それ、あなたのお父さんも同じもの持ってました! やっぱりあなた、彼の子供です」
目尻を下げた笑顔でそう告げる。しおんはその顔を見つめたまま、目をそらせなかった。
――違う。
だってこれは、俺があいつの部屋から盗んだものだ。
中には龍郷百貨店の龍の意匠が彫り込まれているのだ。おそらくはごく内輪に配られたもので、持っている人間は限られている。表からはなんの飾りもない銀の器に見えるから、ありふれたものと思ったのだろう。
――こいつ、嘘、ついた。
しおんが緊張しているとでも思ったのだろうか。音楽家が「もうすぐ新橋に着きますよ」と手を握った。子供のような扱いが癪に障って、振り払う。
――つもりだったのに、思いがけず強く握り替えされて、しおんは面を上げた。すぐ眼前にある男の顔は笑顔だ。好々爺然とした。なのに瞬間、ぞくりと寒気を感じる。
男はしおんの怯えを見て取って、さらに指をきつく絡めてきた。
「い……ッ」
小さく声を上げると、咎めるように「シーッ」と囁かれた。自分で酷くしたくせに、さするようになで回してくる。その触れ方には、覚えがあった。
――孤児院の神父たちと一緒だ。
「はな―」
大声を出して振り払ってやろうとした瞬間、自動車が、大きく跳ねた。
一瞬、事故かと思った。だが揺れたのは自動車だけではない。道行く人々や建物―いや、道そのものが揺れているのだと理解したとき、ごう、という響きと共に再び大きく地面が波打った。
自動車はまるで水面に浮かぶ枯れ葉のように翻弄される。
「な、なにごとですか」
しおんの手を放し、男が青ざめた顔で運転手に訊ねている。おそらくは地震だろうが、かつて経験したものと比べてあまりに揺れが大きい。
つい先刻まで整然と佇んでいた煉瓦の壁が、何ヶ所も崩壊しているのが見える。
絵に描いたような景色が突然乱暴に引き裂かれたようで呆然としているうちに、火の手が上がるのが見えた。時刻はちょうど昼時―多くの市民が昼食の準備をしていたのだろう。
地面に伏せていた人々が、次第に起き上がり、覚束ない足取りで駆け出し始める。その足下をまた揺れが掬う。建物が、人々がぶつかり合い、さらなる混乱を生んだ。
「と、とにかくなんとか横浜まで――」
「いやあ、旦那、こりゃあ新橋までも難しいでしょう。うわッ」
損傷を受けていないように見えたすぐ道路脇の建物の壁が突然崩れ落ち、運転手が声を上げる。
しおんが思わずドアを開けると、瞬間、すぐ目の前をさっと炎が走った。
「な、なんだ今のは」
「木煉瓦に火が移ったみたいだなあ」
異常事態に、運転手の言葉も地が出てしまっている。そんな彼の言葉通り、路面電車のレールに沿って敷かれた木煉瓦が燃え上がって炎の道を作り、汚水のような異臭を放っていた。そういえば路面電車の木煉瓦には防腐剤としてタールが塗られていると聞いたことがある。
それがあだになったのか。
呆然と炎の行方を見やって気がついた。路面電車は主要な繁華街を結んでいる。
――あいつの店の前もだ。
考えたときにはもう、車から飛び降りていた。
「ど、どこへ行くんですか。大丈夫、横浜まで行けばどこか安全なホテルあります。ひとまずそこへ」
「あんたとは行かない」
振り返りもせずにきっぱりと告げた。
「ここにいたら危険です。それに、本当の父親に会いたくはないのですか」
なおも食い下がる男に、冷笑しか浮かばない。もう、なにも取り繕おうとは思わなかった。
「最初からそんなもんどうでも良かったんだよ」
俺はただ、あいつの迷惑になりたくなかっただけで。
「つうかあんた、俺を親に引き合わせる気なんてはなからないだろ。べたべたべたべた気持ち悪ィんだよ」
言い放つと、男は憤るよりも先に目を見開いて驚いている。そう言えばこいつの前で素を出すのは初めてだった。
そして最後だ。
踵を返すと、我に返った男の声が背中に響いた。
「ど、どこへ行く」
「帰る」
「帰るって、どこへ……」
いつか誰かにも訊かれたような気がする言葉だ。しおんは炎に呑まれていく街を見据えた。やりたいことはない。行きたいところもない。だけど今はなにも考えなくてもわかっていた。
駆け出しながら、振り返りもせずに叫ぶ。
「あいつのとこ!」
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