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第28話

 良く晴れた空に紅白のアドバルーンが浮かんでいる。その合間を縫うように開店を知らせるための花火も上がり、ぽん、ぽんと軽やかな音を帝都に響かせた。  震災から一年、今日は龍郷デパート新装開店記念式典当日だ。  被災した市民の一時避難場所として提供された龍郷デパートだったが、その数日後に出た火事で、内部はすっかり焼け落ちてしまった。  まる二日燃え続けたあとようやく鎮火したがらんどうのホールに立って、龍郷はじっと中空を睨みつけていた。  ――こんなとき、俺は、気の利いた言葉のひとつも浮かばない。  震災直後は難を逃れたのに、後から出た火事でというのが一層無念だ。なにしろ未曾有の災害で、思いがけないところに火種が残って類焼する火事は、しばらく収まることはなかった。  ここは龍郷の城だ。出会ったばかりの頃、わざわざ見せてくれた。こいつがどんな思いでここを作ってきたか知っている。 「けが人が出なくて良かった」と(まっとうな)新聞に対しては語っていたが、本当は哀しんでいるに違いない。  せめてとそっと寄り添っていると、気配を察したのか龍郷はそんなしおんの肩を抱き寄せてひとこと「よし」と口にした。 「親父の手がけた部分がなくなって、いっそせいせいした。一からすっかり作り替えよう」  震災の影響を受けなかった関西から材料を取り寄せるのには、野々宮の家が本来そちらが地盤なのも大いに役立った。職人は家を焼け出された者から積極的に雇い入れ、震災から数日後には日本橋は職人たちで賑わった。孤児院の件で繋がりが出来た小松原の娘から華族会館でのチャリティーコンサートの打診があって、もちろんしおんは参加した。慰問も、呼ばれればどこにでも行く。  そうやって迎えた今日この日だった。まだ爪痕が完全に消えたわけでではない街で、派手に式典をするのはいかがなものかという意見もあったらしい。だが龍郷は「こんなときこそ市民を萎縮させ、経済を冷え込ませてはならない」と強く主張して、経済界のお歴々を黙らせた。    吹き抜けのホールは、以前よりさらに豪奢に整えられた。中でも目を引くのは、大階段の脇に備え付けられた二基のエスカレーターだ。  紐育(ニューヨーク)で発明されたというそれは、自動で動く階段だった。もちろん日本で導入したのは龍郷が初めてだ。予算が嵩んだと野々宮は苦い顔をしていたが、龍郷が「これに乗ってみたいと人は出てくる。おまえはみんないつまでも家でめそめそしていろと言うのか?」と言うから、それ以上なにも言えなくなっていた。かろうじて「ずるいんだよ、おまえは」と口にした以外は。    式典は滞りなく進む。エスカレーターのお披露目が終わり、少年音楽隊の演目も終わって、次はやはり龍郷の発案で、生演奏によるダンスが行われる予定だ。  新しく、より豪華になった吹き抜けのホールでダンスを踊る。ふと上を見上げたとき感じる開放感と高揚感は素晴らしい物だろう。しかも美しく着飾った少年たちの演奏付きだ。  だが招かれているのは上流階級の者ばかりではない。当然みな尻込みして、なかなか中央へ出てくる者などいなかった。  ――あなた、  ――いや、私は  ――奥様、どうぞ  ――いえ、あなたからどうぞ     探りを入れ合う囁きを耳にしながら、しおんは少年音楽隊のしおんの仮面を保つ。内心では「どーすんだ」と思いながら。  確かに、長い復興作業の間にたまった鬱屈を晴れがましい場所で発散できたなら、それは素晴らしいことだろう。  ――だけどこういうのの一番手っていうのはさすがに。  なかなか誰も買って出ようとはしないものだ。人は誰も、見世物になりたくはない。とはいえ、放っておいたら照れや遠慮が「なぜこんなことをさせる」という不満に変わるのも時間の問題だろう。  ――しょうがない。もう一曲歌でも歌って場をつなぐか。  歩み出て音楽隊に合図をしようとしたとき、かつかつと小気味よく大理石を鳴らしてホールの真ん中に出る者がいた。  龍郷だ。  フロックコートの腕をすうっと伸ばす。 「しおん」  初めて会ったあの日と同じ、「踊るんだろう?」と微塵の言い訳も許さない様子で。  ――あいつ。  しおんは素早く視線を走らせた。龍郷デパートの華々しい復活だ。もちろん記者だって沢山いる。龍郷の意向で有名新聞社からカストリまで、取材を一件も断らなかったからだ。  見られるのがずっと嫌だった。辺りが暗くなってから動き出すくらい、隠れるようにして生きてきたのに。  こいつのせいで、ひっかき回されてばっかりだ。  苦々しく思いながら、差し出された腕に引き寄せられていた。  龍郷があらためて胸に手を当て、うやうやしく礼をする。ホールがどよめいた。 「さあ、皆さんも、隣の方と。さあ、どなたでも」  野々宮がすかさず声を上げ、隣にいた老人の手を取る。たしか大銀行の頭取だったような気もするが、そんな扱いをして大丈夫なんだろうか。     が、さすがに歴戦の経済人だ。ここは取引先の顔を潰すよりは乗った方が得策だと思ったのか、そのまま野々宮の手を握り返した。 「若い頃は鹿鳴館にかり出されたものですよ」  粋な返しに興が乗った数人が踊り出すと、すぐにフロアはいっぱいになった。  難しい顔をしていた男たちも、ご婦人に誘われて及び腰ながら前に出てくる。曲が進むにつれ、徐々にその表情も柔らかく解けていった。  最も満足げで楽しそうな男の顔はすぐ目の前にある。ことが思惑通りに運んでご満悦、といったところか。龍郷の腕の中で二重の意味で踊らされながら、しおんはため息をついた。 「記者だって来てるのに」  文句をぶつけてやっても、当の本人は眉を微かに持ち上げて見せるだけで、けろりとしたものだ。  震災の後始末でそれどころではなくなったから、龍郷と自分の記事が紙面に載ることは結局なかった。舞い込む縁談話も断っているらしい。だが復興が進んだ今、再び蒸し返されても不思議ではない。  龍郷が男妾を囲っている、という噂は完全には消えていないだろう。  こうして目立てば、またあれこれ嗅ぎ回る連中だって出てこないとも限らない。 「俺、あんたに迷惑がかかるのは、ほんとに――」 「しおん、」  からませた指がさらに深くなった。  促されるように顔を上げる。龍郷の横顔から悪戯を楽しむ子供のような色がいつの間にか消えていた。なぜか咎められているように感じ、しおんは息を詰まらせた。 「しおんという名は、西欧の言葉で〈心の清い者〉という意味だ。そういう名をつける親は、おまえを愛していたと思う。その後どんな事情があったにせよ、それは確かなことだ。おまえはそれを誇りに生きるべきだ。自分を卑下するな」  結局あの音楽家は少年性愛者で、父親の話は嘘っぱちだった。たまたま見かけたしおんをいたく気に入って、身寄りがないことと自分の立場とを利用して連れ去ることを思いついたらしい。  だから今もしおんは、親のことをなにひとつ知らない。この悪目立ちする名前も、長年しおんにとっては邪魔でしかなかったものだ。てっきり孤児院に拾われたとき、どこにでも生えている小さな花の名前を適当につけられたのだとばかり思っていた。  もちろん龍郷だって、そうだろうという憶測を話しているだけだ。本当のことはなにもわからない。  龍郷の腕が背に周り、くるりとターンさせられる。その度、以前よりさらに豪奢になったステンドグラスから射し込む色とりどりの光が、くるくると回る。  ――でも、いいんだ。  俺はやさしい言葉を信じるし、ここにいることを自分で選ぶ。  こうなればもう、腹をくくってずっと一緒にいてやる――絡み合わせた指に力を込めれば、龍郷が同じように握り返す。憎たらしいけれども酷く似合う、不敵な笑みでしおんの体をリードする。くるくる回る今日のダンスは、ワルツというらしい。  タンゴは支配する曲で、ワルツは――なんだっけ。  思い出せない。だが誰もが楽しそうな様子に、そんなことはすぐどうでも良くなった。  ――ダンスが終わったら、またあの歌を歌おう。  今はもう、どんな意味なのか、ちゃんと知ってる。          Amazing grace,how sweet the sound          ああ、神の恵みの響きよ、なんてやさしい             That saved a wreck like me           それは私のような疲れ果てた者も救う           I once was lost but now I'm found          すべて見失い、さまよったけれど、今は違う             Was blind but now I see           見えなかったものが、今は見えるんだ                                              〈了〉

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