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まよいごは百貨の王(前)

「……本日の予定は以上です」  開店前の執務室で野々宮が一日の予定を読み上げる。それに「ああ」とだけ応じると、野々宮は早速諸々の手配のために部屋を出て行く―それがいつもの日課。  だがいつまでも動こうとしない気配に、龍郷は面を上げた。 「なんだ?」 「本当に宜しいんですか?」 「一日の予定はおまえに任せておけば間違いないだろう?」 「〈そう〉じゃなくて!」  野々宮が、秘書ではなく友人の距離感で声を荒げる。 「車を手配したら、まだ間に合うと思う」 「なんの話だ? 無駄話ならそのくらいにしてもう行け」  仕事は山積みなんだ、と言外に告げるため、書類と万年筆を取る。それで追い払えたと思ったのに野々宮はまだそこにいて、しつこく声をかけて来た。 「社長」 「なんだ」 「失礼ですが、書類が逆さまでは」 「……ッ」  思わず面を上げると、野々宮はもう戸口にいて、出て行きざま告げるのだ。 「後悔しても知らないぞ」  厭味なほど静かにドアは閉められて――あいつはそういうところがある――龍郷はどかっと椅子に体を収めると、思い切り顔を歪めた。  今朝、しおんを英吉利に送り出した。  その役を押しつけたから、戻ってきてからずっと剣呑な空気を醸していたことには気づいていた。剣呑とはあいつのためにあるような字面だ。表向きは公家華族らしいつるんとした貌で穏やかにしているが、目の奥が笑っていない。そういうところが味方にするには頼もしくもあるのだが、ひとたび敵に回るとおそろしく厄介だった。  ――だが、他にどうしろと?  野々宮は知らない。他ならぬ野々宮の采配で避暑に行ったあの日紡がれた、しおんの言葉を。  今でも思い返すと苦いものが胸いっぱいに広がる。そんな思いは、母を亡くしたとき以来だ。 『……いつまで続くんだ?』  あの日、しおんはそう呟いた。  自分がすっかり寝入っていると思っていたのだろう。それだけに、紡がれた言葉は本心であるはずだった。  いつまで続くんだ?  金のために音楽隊に縛られる日々が。  そういう意味だろう。    しおんを拾ったのは、本当にただの好奇心だった。  父の代からの従業員の嫌がらせで仕組まれた、まったく実のない入団試験。百貨店で働けると聞いて、中流家庭の子供もやってきていた。将来的には顧客になってくれる大事な層だ。どう穏便にことを収めるか―怒りと同時に忙しなく計算する中で、突然蹴り出されて来たのがしおんだった。  これはまた。  とりわけみすぼらしいのが来たな。  それが第一印象。けれど龍郷は、我知らずのうち身を乗り出していた。  文字通りの、毛色の変わった子供。なにかが頭の中でしきりに訴えてくる。子供の頃から、なにかを思いつくときはいつもこうだった。  ただ髪の色、瞳の色だけだったなら、外国暮らしに慣れた龍郷にはなんの珍しさもない。目を引いたのは、触れたら斬れそうな空気を隠しもしないところだった。まったく人慣れしない山猫のような。邸の者も店の者も、龍郷を快く思わなかったとしてもこんなに敵意を露わにはしない。大人はそういうものだ。経済界のお歴々に至ってはなおさら。  久し振りに触れた気がした。人間のむき身の感情というものに。  そしてそれがひどく痩せこけた体に独特の色気を纏わせている。不思議な少年だ。  だから挑発してみたくなった。  首尾良くしおんが歌い出したとき、こういうとき人はありがちな表現しか思いつかないものだと龍郷は思い知った。  天使のような歌声。  英吉利の寄宿学校には聖歌隊もいて、容姿と声が自慢の者が選ばれる習わしだったが―そのどれよりも惹きつけられた。荒削りなところはある。だが、だからこそこれを完璧にしてみたいという欲が生まれる。それこそがしおんの纏う不思議な色気の正体かもしれないと思った。この不完全なものの、その先を聞きたい。そういうものをしおんの歌声は持っている。買い付けに成功した原石をどう加工し、他にない意匠に仕立てて店頭に並べるか。その感覚と似ていた。  父といっても、感情的には半分血が繋がっているだけの男から百貨店を受け継いだ当初、正直思い入れはなかった。  いっそ閉めてしまえばいいと考えていたくらいだ。あるいは見所のある番頭に任せて、自分は他の好きなことでもやればいいと。  だが店の帳簿をざっとさらってみて、古くからの上客の存在にあぐらをかき新機軸を名にも打ち出していないことに気がつくと、そうも言っていられなくなった。なにしろ従業員数は千人を超えている。人任せにして下手を打てば、それだけの数の人間を路頭に迷わせることになる。  自分も母も、父の気分一つで人生を翻弄された。……他人の都合でそんな目に遭うのは、自分たちだけで充分だ。  それを憂いて色々と断行しているというのに、父の代からの人間はこのままでいいと言って、頑なに改革を受け容れようとしない。行き着いたのがこのくだらない嫌がらせだ。  気持ちが腐っていたところに舞い降りたしおんの姿は、文字通り輝いて見えた。    龍郷は書類の山に再び手を伸ばし、努めて淡々と署名する。  見窄らしい少年を自ら抱えて帰宅したときの家令の顔を思い出すと、今でも笑みがこみあげる。  腹の探り合いならお手のもの。なんなら満面の笑みを浮かべながらでも巧みに厭味が言える家令が、見るからに嫌そうな顔をしたのだ。いうなれば化けの皮が剥がれて、狸の尻尾がのぞいている。  ――これは入隊試験のことも番頭と共謀してたな。  おおかた自分がうちひしがれて戻るのを心待ちにしていたのだろう。  天使がさっそく面白いものを見せてくれたと内心ほくそ笑みながら手配した医者が下した診察は、幸い「栄養失調と疲労」というものだった。  あの界隈をうろついている孤児、という情報だけはあった。それだけでどんな暮らしぶりかは察しがつく。日本語は話せるようだが、この容姿だ。ただの孤児以上の苦労があっただろう。  自分も経験があるからわかる。集団の中の異物を、人は始め良く思わない。  英吉利に渡って最初の日々は酷かった。なにしろ本物の貴族様がいるお国柄だ。特権階級意識は日本より酷い。加えて自分は東洋人だ。生徒たちの認知はせいぜいが「遠いどこかの未開の小国」。軽んじられるのが当たり前だった。  だが持ち前の負けん気で学業でもスポーツでも龍郷が一番になると、一転、抱かれにくる下級生が部屋の前に列をなした。比喩ではなく本当に次から次へとドアが叩かれるから、監督生が一晩見張りに立たねばならず、厳重注意されたくらいだ。  もっとも、下級生を追い払ったあと、その監督生自身が忍んできたりするのだが。    人が異物を嫌うのは、根本的なところで恐れがあるからだと龍郷は考える。  知らないもの、わからないものは怖い。だからこそ先にやりこめようとして攻撃してくる。  そして恐れは、ひっくり返れば逃れ難い魅力になるのだ。人は傷を愛さずにはいられない。  しおんというこの少年には、世界をひっくり返す要素が備わっている。あとは研磨する職人、つまり俺の腕次第だ。  医者を帰し、しおんの寝顔を見下ろす。どう売り出すかというアイデアが次から次へと沸いてきて、頭がいっぱいになった。そんなふうに心地良い興奮が体を支配するのは久し振りのことだった。  ――わくわくする。こんな感覚、長いこと忘れていたのに。  目が冴えて眠れない。せめて体だけでも休ませるかと隣りに横たわったとき、しおんが身じろいだ。  起こしたか。  別の部屋に移るかと思案を巡らせた矢先、ぎゅっと抱き寄せられた。  そのまま、ぽん、ぽん、と頭を叩くように撫でられる。  ただそれだけのことだった。  それだけなのに、古い記憶は、めいっぱい詰め込んだ旅行鞄を開けたときのようにあふれ出てくる。  英吉利に行ってすぐ自分は寄宿学校に入れられ、母は外交のため父に連れて歩かれた。会えるのはたまの休みのみ。一緒に寝起き出来るのもほんの数日だった。そもそも十代も半ばになれば、龍郷家での扱いは大人と同格だ。頭を撫でられることなどない。母にその気があったとして、父が許さなかっただろう。 『将来龍郷を背負う男を甘やかすな』  慰撫されて、初めてそこに見えない瑕瑾があることに気がつく。そういうことがあるのだと龍郷は知った。  それからの日々は、毎日が新鮮な驚きに満ちていた。   『そういうので支払う』  生い立ちを思えば、そういうことで日々の糧を得ていたとしても誰にも責められない。英吉利時代、自分だって寝る相手をとっかえひっかえした。それを悪いと思ったこともない。どうせ彼らも貴族の子弟、寄宿学校という限られた空間の中でやりたい限りを尽くしたら、何事もなかったかのように政府や大企業の要職に就く。うっかり子供が出来たりしない火遊びはお互い様というわけだ。  そう頭ではわかるのに、心はいらだった。それに任せて乱暴に奉仕させた。  下手くそなのがなぜか嬉しかった。  自ら抱き上げて、寝台の中でことに及んだ。しおんの体はまだ未開だった。  ――なんだ、慣れたふうだったのは、強がりだったのか?  そう思うと、快感は増した。  あの日、その感情はもう生まれていたのだと思う。こいつを見ていたい。こいつがうまそうに物を喰うところ、人並に笑ったりするところ。  人々が自分の思惑通りにしおんを受け容れていく度、その気持ちは育って行った。  己の欠点だと思っていた容姿を褒められ、日に日に美しさを増していくしおん。痩せた体に薄く肉が乗ると、ただ不格好に長く見えていた手足の印象が「しなやか」に変わる。頬には紅みがさし、唇は果実のように色づく。  そんなしおんに人々は熱狂した。すべては俺の計算通りだ。あの宝石を見つけ出したのはこの俺だ。  てっきり、それが心地良いのだと思っていた。    自分が彼から目を離せないのがそれだけの理由ではないと悟ったのは、しおんが階段で突き飛ばされたあの日のことだ。  小松原夫妻の相手を終えて戻ったテーブルにしおんの姿がなかったとき、自分でも予想外のいらだちに襲われた。  ――すぐ戻ると言ったのに。  探しに出て、しおんが階段の上から突き飛ばされるのを見たとき、なにかを考えるよりも先に体が動いていた。  名を呼ばれて目蓋を押し上げると、それだけで痛みが走った。けれどそんなものも、しおんが無傷だとわかったらどこかへ霧散していった。    ユウの世話を小松原嬢に頼んだのは、しおんが気にかけているだろうと思ったからだ。  その気持ちに嘘はない。だが、ふと自問が首をもたげてくる。  ――喜ばせることで、しおんを自分の手元に縛りつけたいだけじゃないのか?  誰よりも人の思惑で振り回されることを嫌っていたはずの自分が、しおんには同じことをしている。  これでは父と一緒だ。  ――しおんを解放してやるべきじゃないのか?  ふたりで濡れ鼠になって教会に駆け込んだとき、しおんが惜しげもなく晒した肢体。初めて抱いたときよりもずいぶん血色が良くなって、離れて見ていてもその弾力が訴えかけてくるようだった。内側から輝く光を。  突然のことに内心面食らったが、すぐに思い至った。  ――礼のつもりか。  しおん自身自覚がないようだが、しおんは存外根が真面目だ。してもらったことには礼をする、ということなのだろう。  ――そんなことはしなくていい。  そう言うべきだった。でもできなかった。  ――いつか手放すことになるのなら、今だけ。  味わい尽くすように、無茶苦茶に抱いた。  しおんの真面目さにつけ込んでいるとわかっていながら、湧き上がる激情を止める術はない。  神の御前であられもなくまぐわいながら、龍郷は思っていた。  神様は相当ひねくれている。  罪悪感が快感を増すよう、人間をお造りになったのだから。

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