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まよいごは百貨の王(後)
よからぬ新聞記者に声をかけられたのは、東京に戻って経済界の会合に出た帰りのことだ。 運転手が車を回してくるわずかな時間の隙間に、ああいう輩はうまいこと近寄ってくる。始めは小松原家の令嬢のことに触れられた。店にまで夫婦揃って出向かれたら、そんな噂が立つことは想定の範囲内だ。あらかじめ用意した言葉で否定すると、記者は突然話の矛先を変えた。
『しおんは大人気ですなあ』
にやにやとしながら、直接的なことはなにも言わない。こちらがいらだってうっかりぼろを出すのを待つのがこいつらのやり口だ。そう思って無視を決め込んでいると、記者は言った。
『あなたがたがただならぬ仲だという噂はご存じで?』
『上流階級のご婦人というのは、そういう噂が存外好きだ。君たちには知りようもないだろうがね』
車がそのタイミングでやってきたのは幸いだった。後部座席に乗り込むと、頭の中を迷いが駆け巡る。
―今の対応で正しかった、か?
仕事の上でくだす決断は、こんなに心許ないことはなかった。いつでも最善だったし、人の望む半歩先を見越してことを運ぶことも得意だと思って生きてきた。そうしなければやってこれなかった。
そんな折りかかってきたのが英吉利人音楽家の電話だ。
しおんの父親を知っている。彼に引き合わせた上で、きちんとした教育を受けさせたい。
高原で出会ったときから彼はしおんの才能を褒め称えていた。その申し出は、最善の策であるように思えた。敵はカストリ紙の記者だ。日本を離れてしまえばまさか国外まで深追いはしないだろう。
しおんはなんでも飲み込みが早い。本来頭がいいのだ。しかるべき場所で、しかるべき教育を受ける。それがあいつのために一番いい。
そもそも好奇心で始まった関係だ。支払った金の代償というのなら、しおんの集客力は充分それを贖った。解放するのが当たり前の道理だ―
連日仕事で帝都を駆け回って戻ると、あいつが寝台で眠っている。
以前は眠っている間でさえときおり眉間に皺を刻んでいることもあったのに、今は安らかなものだ。直前まで龍郷の帰りを待っていたのだろう。寝椅子で眠ってしまっていることもあって、それを起こさないよう寝台に移すのもいつしか楽しみになっていた。
しおんを英吉利に送り出したなら、あんな戯れももうなくなるのだろう。
あの邸の灯りも消えたようになる。全館でストーブを焚いてもどこか冷え冷えとして。
なんのことはない。しおんが来る前に戻るだけのことだ。
―それだけのことなのに。
初めて、変わることを畏れる従業員の気持ちがわかった。
出来ることならいつまでも、寝入るしおんの顔を眺めながら自分も眠りに落ちていく、あの感覚を味わっていたかった。いつまでも。
高原で呟かれたしおんの言葉は、思いのほか深く胸に刺さったままだ。
『……いつまで続くんだ?』
やさしく彩りに満ちた日々だなんてことは、俺のエゴでしかなかった。俺の、勝手な――
『……いつまで続くんだ?』
なにかが引っかかった。魚の小骨のように微かだが、ひどくちくちくするそれ。
いつまで続くんだ?
―続けられるんだ? こんな、満たされた日々が。
「……」
もう書類の文字は目に入ってこなかった。
想像の話だ。ばかげた話だ。それは、あまりにも自分に都合のいい解釈。
あのとき、しおんも同じ気持ちだったとしたら?
「のの―」
秘書の名前を呼びながら立ち上がる。駆け出そうとして、机の角に足をしたたか打ち付けた。
「―ッ!」
自分でもわからないうちに相当慌てていたのだろう。革靴の上からでも小指に激痛が走って、思わずしゃがみこむ。なんて間抜けな。
「くそ……」
苦々しく呟いたとき、世界が、ぐらっと大きく揺れた。
しゃがんでいたおかげでそれ以上無様に転がることはなかったが、反射で閉じていた目を再び開いたとき、龍郷が目にしたのは、部屋の片隅まで押しやられ倒れる執務机だった。
上等の一枚板で作られたそれは、社長室に相応しく重みのあるものだ。あのまま座っていたら怪我をしていたかもしれない。
「龍郷!」
ドアの外から野々宮の声がする。
「俺なら、無事だ!」
叫びながらドアを押し開けて外に出る。事務室から駆け出して来たらしい野々宮と合流して売り場へ急いだ。
吹き抜けから店内を一望して、言葉を失う。
ショーケースや植木鉢はことごとく倒れ、硝子の破片が散乱している。何人かは下敷きになっているのか、あちこちから悲鳴や呻き声が聞こえた。
「―なにが起きたんだ」
まるで爆撃でも受けたかのような惨状だ。
「たぶん地震だよ。僕もこんなに大きいのは初めてだけど―ッ」
野々宮が言い終わらないうちに、再び床が大きく揺れる。英吉利からの帰国時、荒れた海峡を通った船内のようだ。
それでもかろうじて一旦揺れが収まると、野々宮がなにかに気がついた様子で顔色を変えた。
「しおんくん―すぐ車を」
「いや、お客様の安全確保が先だ」
上着を脱ぎ捨て、各階を回った。硝子の多い吹き抜けを避け、店内にいた客を物の倒れてこない場所に避難させる。贅の限りを尽くして建てた店舗は堅牢で、すぐに崩れ落ちることはなさそうなことだけが唯一救いだった。
「社長! 野々宮さん!」
メッセンジャーボーイの一人が倒れた什器を避けて駆け寄ってくる。白い制服は黒く汚れていた。
「神田方面は火が出てます。動ける人はみんな上野公園や宮城(きゅうじょう)に向かったみたいです」
「有り難う、よく戻ってきてくれた」
その上状況も見てくれるとは有り難い―感謝して思い出した。
メッセンジャーボーイは、店に戻ったら出先で見聞きしたことを報告する。
その習慣をつけたのもしおんだった。
『からてで戻って来るのもったいないだろ?』
季節の移ろい、人々の流行。あそこの家で今度学者先生が集まるから、珍しい酒があれば売れるかも―
しおんの存在によって自分はアイデアをかき立てられていたが、実際のところ、しおん自身がそれを生み出すことも多かった。本当に賢い奴だったのだ。
―ちゃんと安全な場所にいるのか。
あらためて不安がよぎった。
―どうする? ここは野々宮に任せてしおんを探しに行くか?
野々宮はきっとそれを咎めない。そして仕事もやりきるだろう。
「の―」
そのとき、従業員のひとりが駆けてきた。
「入り口に人が押し寄せてます! 中に入れろって」
「安全が確認されないうちは無理だよ」
野々宮が渋面で応じる通りだ。まず内部の状況を把握しないことには、却って危険に繋がる。そんなことは優秀な龍郷百貨店の従業員ならわかっているはずで、もちろん、そう説明はしたがおさまりがつかないから助けを求めに来たのだろう。
「俺が行く」
そう言うしかなかった。
龍郷自らが矢面に立っても、詰め寄る人々の気勢はそがれるどころか熱を増した。どうも金持ちだけは別の避難場所が用意されているという噂が出ているようだ。
「そんなことはありません。安全が確認できたらみなさん中に入っていただいて結構です。食堂を開放した炊き出しも準備しています。とにかく一旦落ちついて―」
このままでは暴徒と化してしまう。安全が保証できないどころか、騒ぎに乗じて略奪も起こりかねない。
金品なら惜しくない。そんなものまたいくらでも自ら全国飛び回って探してくる。けれどこの店が―しおんと作り上げた文化の発信地を蹂躙されるのが堪えられない。
父が死んで突然背負うことになったときには、こんな店、特大の足枷にしか思えなかったのにだ。
しおんが日々美しくなり、その賢さを発揮するのを眺めているのが楽しかった。
どんどん人気が出て行くのを、世界は簡単に変わるのだと、証明できるのを。
―だが、―そうだな。
しおんによって変えられていたのは、実は自分のほうだったのかも知れない。
どうする。初めて弱気に思った。とにかくこの熱を冷まさないと。誤解を解かないと。
だが集団になった日本人を個に戻すのはひどく難しい。今までそれを逆手に商売をしてきただけあって、身に染みている。
まさかひとりひとり横っ面を張って「正気になれ」と諭すわけにもいかない―
不意に、すうっと、光が横切った気がした。
瓦礫の中でもなお光を放つなにかが―誰かが人混みをかき分けて、銅像の上に立つ。
そして歌い始めた。
初めて出会ったあの日、しおんが歌った、アメイジンググレイス。
しおんは未だに歌詞の意味を知らないようだが、もちろん龍郷は知っている。
それは後悔の歌だ。
なにも見えていなかった。真実はつねにそこにあったのに―そう歌う歌だ。
内部の安全が確認されたと報告があった頃には、集まった群衆はすっかり静まりかえっていた。人々は野々宮の誘導に従って中へ入っていく。
すべてを見送って、龍郷はひとり銅像の上に取り残された天使に手を伸ばした。天使の割にずいぶんと傷つき汚れていたが、誰より美しい。
一瞬躊躇ったあと重ねられる細い指。それだけであふれ出した想いごと、抱き寄せずにはいられなかった。
俺が見出したのだと思っていた。
でも違う。
おまえが、俺の元へ来てくれたんだな。
ずっと胸にわだかまっていたものの名前が、やっとわかった。
しおん。
おまえを愛してる。
〈了〉
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