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前篇

傾き始めた初夏の日が、川面に帆柱の長い影を落とす。 偉遼の愛咬を受けてから、半月余りが過ぎていた。 俺と偉遼は、王都の南西から西へ流れる大河、漓江の水上にいた。 偉遼が用意した中型の軍船は、王の御座船としては簡素極まるものの、船足は早い。 白く四角い帆に風をはらみ、流れを遡る満ち潮を利用して、船は広い川面を遡上していく。 俺は船尾楼に上って、水面に沈む夕日を眺めていた。 事の始まりは、ほんの半日前のこと。 「悪い、待たせたな」 俺が執務室に入ったとき、偉遼は机にゆったりと掛け、手元の書面に目を落としていた。  偉遼の愛咬を受けたことで、お互いを惑乱させた淫香は、今のところ落ち着いている。 だというのに、俯いて頬に落ちた暗色の髪を形の良い耳にかけ直す、ただその仕草の優美さに、思わず目を奪われた。 偉遼は顔を上げるとふわりと微笑を浮かべ、立ちすくむ俺を手招きした。 「桓將、知っていたか」 部屋の壁には、国内の地勢を描いた細密な図絵が掲げられていた。 皇帝の執務室なのだから、豪勢に金泥画でも飾ればいいものを、つくづく実用主義を極めている。 偉遼はそこに描かれた都を指すと、大河を表す青い線に沿って、するりと指を滑らせた。 「漓江を半日ばかり遡った上流に、王家の離宮があるのを知っていたか」 俺は突然の言葉に目を丸くした。 「なんだそりゃ、初耳だぞ」 「王室の保養のために普請された小さな宮だ。父上が病床につかれて以来、忘れられていた。  お前とともに、そこへ行こうと思う」  以前からもって仕事中毒だが、即位していよいよ偉遼の裁可を待つ仕事は山積している。  正寝に帰ってくる暇もなく、おかげで俺の夜の平安も、この半月つつがなく保たれていた。  時折、壊れかけたからくりのようにふらつきながら寝所に倒れこんできたものの、長い付き合いのおかげで、偉遼を寝かしつけるのはお手の物だ。 寝台の中で腕に抱き込んで、背中をゆっくりさすって温めてやれば、ふつっと糸が切れたように寝入ってしまう。 「保養はいいが、そんな暇があるのか?」  と尋ねると、偉遼は小さく首を振り、苦く眉根を寄せた。 「もとはといえば、お前のせいなのだぞ」 「俺のだと?」  偉遼は頷き、椅子に深く掛けなおすと、ぽん、と膝を叩いた。 「桓將」 「なんだよ」 「座れ」  俺は視線を彷徨わせ、 「…………断る」 低く答える。ほんの半月前、まさしくこの執務室の椅子の上で、俺は偉遼の愛咬を受けた。  懺悔のような苦い告白と、荒れ狂うような熱情は、忘れようにも忘れられない。  俺は一歩後ずさり、偉遼から距離を置いた。 「それだ」  偉遼は不機嫌に唸り、指先で机を叩く。 「この半月、お前を待ってきたが……」 「おう……」  鋭利な輝きを宿す黒曜の目が、いっそう鋭くなる。 「結ばれたばかりというのにご不仲でいらっしゃる、とまで言われて、黙っていられるか」 「そりゃ……」  俺は唇をへの字にして、がしがしと髪を掻き回した。  不仲ではない。 ただ、主従を超えた友として長く付き合ってきた偉遼と、面と向かって行為に至るには言葉では言いがたい羞恥があり、しかし発情に任せて否が応にも昂ぶらされ、弄ばれるのもまたたまらなく恥ずかしい。  いざとなればいくらでも言うことを聞かせられるという特質は、公正を重んじる偉遼にとっては引け目でしかない。 俺の矜持のために、偉遼が折れて、引いてくれているのだ。  偉遼はひとつ息をつき、苦笑を浮かべて立ち上がると、歩み寄って俺の手を取った。 「一朝一夕に変えられるものではないと分かっている」  俺と偉遼の左手には、硬玉を細工した揃いの指環が嵌っている。  王の花である牡丹を刻んだ白い石が、光を浴びて内側から淡く輝いた。 「だからこその離宮だ。人目の少ない場所なら落ち着くだろう。少しずつでいい、俺の后であることに慣れてくれ」  偉遼は静かに言葉を継ぎ、俺に語りかけた。 「これから先、ふたり共に過ごすために、必要なことだ」  顔を上げ、目を合わせると、偉遼はふわりと目尻を緩めて笑みを浮かべる。 「…………分かった」  固いつぼみのほころぶような不器用な微笑に、俺はあえなく陥落し、頷いた。 そのまま、周到に手配を済ませていた偉遼に攫われるようにして、船上の人となったのだった……。

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