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第1話
5月の上旬。
今年2回生になった雪村暮羽(ゆきむらくれは)は、いつも通り大学へ行った。
午前の講義は居眠りに費やそうと、教壇からは目立たない席に着く。
うつ伏せていると、隣りに誰か座る気配がした。
「よ、暮羽」
その人物が声をかけてくる。
「おう」
暮羽はだるそうにしながらも顔を上げた。
声をかけてきたのは暮羽の高校時代からの親友、武田だ。
どこにでもいそうな軽い雰囲気の青年で、髪の毛こそライトブラウン程度だが、耳にはいくつもピアスをつけている。
「眠そうだな」
片腕で頬杖をついて、武田は暮羽を見た。
「⋯⋯眠いよ」
暮羽は相変わらずだるそうにする。
「後悔してる?」
「うーん、後悔っていうか、複雑な心境だな⋯⋯」
「しかしまあ、運が悪いよなぁ」
武田は呆れたように笑う。
暮羽が眠そうにしているのは何故なのか。
もちろん単なる寝不足なのだが、その寝不足の原因が問題だった。
その原因は、3月に市内で行われた写真展に遡る。
写真サークルにモデルを頼まれた暮羽は、断る理由もなかったので引き受けた。
目立つのは嫌いだったが、写真展には数多くの写真が集まる。
自分の写真も、その多くの中の1枚だ。
それほど目立たないだろうと思っていた。
しかし、その写真を見て心を狂わせた輩がいたのである。
暮羽はれっきとした男なのだが、顔は中性的で女顔に近く、女装したら間違いなく美女だろう。
写真は光の加減が絶妙で、女装していなくても暮羽の顔は美女そのものだった。
「って言うかさぁ」
暮羽は顔を武田に向けた。
「ん?」
「あいつが異常なだけだと思うんだよな」
「高杉の事か?」
「もちろん」
高杉とは、写真を見て心を狂わせた男の事である。
どこでどう暮羽の事を調べたのか、毎日のように付きまとってくる。
そして、行きつけの店にも顔を出してくる。
アルバイト先にまで顔を出してくる。
それが原因で、アルバイトは単発のものを選んで転々としていた。
なかなか落ち着く事ができない。
「まあ確かに異常だよな。俺だって暮羽の事は美人だと思うけど、さすがに男相手にそういう気は起きないからなあ」
「誰が美人だ誰が」
暮羽は武田を睨んだ。
武田はわざと目をそらしてそれをかわす。
暮羽の顔は確かに美人と言ってもいい。
ひ弱ではないが体は細身で、とにかく繊細な感じが漂っている。
繊細なのは見た目だけで、中身は少しも繊細ではないのだが。
そういった事で、黙っていれば本当に男か女かわからないくらいだった。
しかしそれは転じて「男らしくない」という事であって、幼い頃から男らしい外見に憧れる暮羽は美人と言われるのは嫌だった。
相手が親友の武田でも、あまり良い気はしない。
「仕方ないよな~。そういう顔なんだからさ」
武田は軽く言ってのける。
「お前の顔が羨ましいよ⋯⋯」
暮羽はつぶやいて武田を睨んだ。
「あのなぁ。それはこっちのセリフだっての」
武田が呆れる。
やがて教室に講師が入って来て、講義が始まった。
高杉とはどんな男なのか。
誰に訊いても答えは同じだ。
“気持ち悪い”
暮羽の高杉に対する第一印象は“面白みのない男”だった。
外見は特にこれといった特徴はなく、普通の男に見えた。
写真を見て以来、ずっと暮羽につきまとってくるおかげで“気持ち悪い”と言われる理由を理解する事ができたのだが。
そんな暮羽には、安心して過ごせる場所がなくなっていた。
どこにいようが高杉はやって来る。
アパートにいると必ず部屋のインターホンを連打してくる。
無視していれば1時間程で帰って行くが、その1時間がとてつもなく苦痛だった。
今の暮羽の望みは「安心できる場所でゆっくり眠りたい」である。
高杉がつきまとって来る心労から、夜もろくに眠れないのだ。
アパートに帰ると、インターホンが留守中の通知を告げてランプを点滅させている。
おそらく高杉だが、確認しない訳にもいかない。
暮羽は大きなため息をついた。
携帯は着信拒否設定にしているが、アパートのインターホンには当然そんな機能はない。
もっとセキュリティのしっかりした所へ引っ越せば良いのだろうが、そんなお金はない。
何とかならないものかと考えるが、良い考えは浮かばなかった。
そんなある日。
暮羽は武田と共に学食にいた。
武田の他にもうひとりいる。
こちらも高校時代からの親友、品川だ。
武田以上にピアスをつけている上、髪の毛はピンクに染めている。
しかし意外にも彼は美術サークルに入っていて、油絵を描くのが好きだったりする。
人は見かけに寄らないものである。
そんな3人でコーヒーを飲みながら話をしていた。
「しかし暮羽も大変だなぁ。同情するわ」
同情というよりは面白そうに品川が言った。
「しかしまあ、悪い事ばかりじゃないさ」
武田が言う。
暮羽は首をかしげて武田を見た。
「どういう事だよ?」
「写真サークルのリーダーの広瀬さんいるじゃん?」
「ああ」
暮羽は眉を動かした。
広瀬快都(ひろせかいと)。
顔良し性格良しでお金持ちとくれば、女でなくても憧れる存在だ。
この広瀬が、暮羽をモデルに勧誘した人物なのだ。
武田が入っているバスケットサークルのリーダーと親しいらしく、そのリーダーから武田を通してモデルの依頼が来たのである。
「広瀬さんがどうかした?」
「高杉の事知ってずっとお前の事気にしてるらしいぜ」
「へえ、そうなんだ⋯⋯」
暮羽は広瀬の顔を思い浮かべた。
とにかくイケメンで、憎らしいくらい爽やかで穏やかな笑顔を見せる男だ。
暮羽は人見知りが激しく初対面の相手には無愛想になってしまうのだが、広瀬とはわりとすぐに打ち解けた。
広瀬は、初対面で無愛想な暮羽に対しても不快な顔をする事なく優しい態度で接してくれた。
誰に対しても優しいのだろう。
「だからさ、相談してみろって。色々と頼りになると思うぞ」
「うんうん。それがいいよ。広瀬さんに頼れ」
「でもなぁ⋯⋯」
暮羽は考え込んだ。
広瀬にはもう一度会ってみたい気はする。
しかし、学部も学科も違うため、写真撮影の時以来ほとんど顔も見ていない。
「ま、話すだけ話してみろって」
武田が暮羽の肩を叩いた。
「俺もそう思うぞ。んじゃ、俺そろそろ行くわ」
品川も武田の意見にうなずく。
そして席を立った。
「どこ行くんだ?」
武田が訊く。
「この後もう講義ないから街に出てナンパでもするさ」
そう言って品川は学食を出て行った。
「俺、あいつも羨ましい⋯⋯」
暮羽はそうつぶやいてうつ伏せる。
が、嫌な視線を感じて鳥肌が立った。
「げっ、高杉だぜ」
武田が肩をつついた。
言われなくてもわかる。
霊感も何もない暮羽だが、高杉の視線だけは何故だか嫌なくらいにわかるようになってしまったのだ。
暮羽は素早く席を立った。
高杉が近付いて来る前に急いで学食を出る。
武田もすぐについて来た。
「おい、どうする?ついて来るぞ」
「もちろん逃げるに決まってるだろ」
ついつい早足になる。
そしてほとんど駆け足で、学食のある棟を出ていた。
諦めたのか、高杉がついて来る気配はなかった。
「お前も毎日大変だなホント」
一緒に逃げて来た武田は半ば感心したように言う。
「もうあいつマジ最悪⋯⋯」
走るのをやめて歩き出しながら、暮羽は肩を落とした。
「だから広瀬さんに相談してみろよ、な?」
「そうだな⋯⋯迷惑に思われなきゃいいけど」
「大丈夫だって。広瀬さん、自分が原因だって思ってるから絶対に相談に乗ってくれるさ」
「ああ」
「んじゃ、俺も品川をとっ捕まえて一緒にナンパでもするわ」
武田は笑いながら言うと、行ってしまった。
また高杉に見つかるのを恐れた暮羽は、写真サークルに行ってみる事にした。
サークルの部室のある棟に向かって歩き出す。
棟の2階の1室に写真サークルの部室があった。
高杉がついて来ていないかと見回すが、幸い姿は見えない。
「写真サークルに何か用かい?」
部室の前まで来て、ノックしようかためらっているところに背後から声をかけられた。
びくっとして振り向くと、そこには見覚えのある顔があった。
広瀬だ。
声をかけた当の広瀬も、振り向いたのが暮羽だったので驚いたようだ。
「雪村君じゃないか」
「広瀬さん」
「もしかして僕に用?」
「⋯⋯はい」
「高杉の事だね」
広瀬は忌々しそうにその名を呼んだ。
高杉の異常な目つきを思い出して、暮羽は鳥肌が立ちそうになる。
「ここじゃなんだし、中に入って話そう」
広瀬はそう言って部室のドアを開けた。
人気はなく、静まり返っている。
「機材が多くてちらかってるけど、適当に座ってくれ」
広瀬は部屋の隅のソファを指差した。
暮羽は言われた通り、ソファに座る。
「コーヒーでも入れるよ。あ、ココアの方がいいかな?」
ソファの脇の棚に、電気ポットやらマグカップ、インスタントコーヒーの瓶などが並べて置いてあった。
広瀬が手早くココアを作り、暮羽の前にカップを置いた。
初めて顔を合わせた時に、待ち合わせ場所の喫茶店で暮羽がココアを飲んでいたのを憶えてくれていたらしい。
「それで、早速だけど、高杉は君に何を?」
「構内でしつこくつきまとってくるとか、行き付けの店とかバイト先に来るとか、家に来るとか、まあその程度なんだけど⋯⋯友達が広瀬さんに相談してみたらどうかって言うから」
暮羽はそう言いながらココアをひと口飲む。
「そうか⋯⋯」
広瀬はブラックでそのまま飲みながら、何やら真剣に考え込んでいる。
「やっぱりこんな事相談しても迷惑なだけですよね」
「いや、気にしなくていいよ。こうなったのも僕のせいだしね」
「モデルを引き受けたのは俺の意思だから別に広瀬さんのせいだなんて思ってないけど、マジあの人勘弁して欲しいです⋯⋯」
「何かいい考えはないかな」
「高杉さんて、一体どんな人なんですか?」
「あの通りの男だよ。入学した当時はあいつも写真サークルに入っててね」
「辞めたんですか」
「トラブル起こしたから辞めてもらったんだよ」
広瀬はいつもの爽やかな笑顔などかけらも見せず、真面目な顔で暮羽を見つめる。
「何かあったんですか?」
「以前も、モデルをしてくれた女の子に対してストーカーみたいな事をしてね。その子には彼氏がいて、彼氏にぼこぼこに殴られてからやっとやめたんだけど」
「ストーカー⋯⋯」
ニュースでよく聞く言葉だ。
「今のあいつの行動は、あの時とそっくりなんだ。しつこくつきまとったり、電話をかけたり」
「でも俺、男ですよ?男が男にストーカーなんて」
「⋯⋯好きになったら男も女も関係なくなるんじゃないかな」
広瀬は苦しそうに顔を歪めて言う。
何故そんな顔をするのか、暮羽にはわからなかったが。
暮羽はココアを一口すすった。
「どうすればいいのかわかんなくて。今はまだ実害はないけど、逆に実害ないから警察にも相談できそうになくて」
「そうだね⋯⋯とりあえず絶対に相手にしないで、ひたすら無視したほうがいい」
「そうしてます」
「そうだ、暇な時はここにおいで」
「え?」
「あいつは前の事で僕を嫌っているし、ここにも出入りできないから、簡単には近寄って来ないと思うんだ。避難場所としてここを使ってくれたらいいよ」
「いいんですか?」
「もちろん」
広瀬はようやく笑顔を見せた。
その笑顔を見て、暮羽は何故かほっとした。
広瀬の笑顔を見ていると、不思議と安心できて心が和むのだ。
そしてつられて暮羽も笑顔を見せる。
「俺は助かるけど、他のメンバーの迷惑になりませんか?」
「君ならみんな大歓迎だよ」
広瀬は嬉しそうににっこり笑う。
「あぅ、それは⋯⋯」
それはそれで少し複雑だった。
しかし、ここにいれば高杉の視線からは逃れられる。
高杉が来る心配もない。
そう思うと少し安心できた。
「それじゃ、お言葉に甘えてまた来ますね。今日はもう帰ります」
「あ、それからこれ。僕の連絡先だよ。何かあればすぐに連絡くれ」
広瀬は、立ち上がる暮羽に名刺を渡す。
パソコンを使って作った物のようで、名前と携帯電話の番号にメールアドレス、メッセージアプリのIDが印刷されていた。
「ありがとうございます」
暮羽はそれを受け取って、部室を後にした。
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