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第2話

 アパートに戻ってから、広瀬に貰った名刺を改めて見た。 「ま、使う事ないだろうけど⋯⋯」  つぶやいて、名刺を財布に入れておく。  人気者なのは確かなようだが、暮羽は広瀬の事もよく知らない。  イケメンで性格も良くてお金持ちという噂くらいしか知らないのだ。  何かあった時に助けを求めるとしたらやはり最初は武田か品川だと思う。  ふと、インターホンのモニターを見た。  通知ランプが赤く点滅していて、げんなりしてしまう。  そして、昼食もろくに食べていないのを思い出し、冷蔵庫を漁るが食材は切れてしまっていたので仕方なくコンビニへ行く事にした。  財布と携帯を持って部屋を出る。  隣りの住人も部屋を出たところだった。  安いアパートなので、独身男女が多く住んでいる。 「こんちは」  隣人は暮羽を見て会釈した。  20代前半か、同じ大学生と思われる。 「どうも⋯⋯」  暮羽も会釈すると、部屋の鍵を閉めてからアパートを後にした。  コンビニで弁当とお茶を買って、アパートの前まで戻って来た。  部屋に入ってすぐに鍵をかけてチェーンもかける。  そして部屋に落ち着いた時だった。  インターホンが鳴ったのだ。  恐る恐るモニターを見に行くと、そこには高杉が映っていた。 「マジかよっ!怖すぎだろっ」  恐怖を感じた。  どこかで、自分がアパートに戻るのを見ていたのだ。 『雪村君、居るんだろ?さっき部屋に入るのが見えたよ』 「!!」  鳥肌が立った。  おそらく、高杉は暮羽が部屋に戻る所をどこか近くから見ていたのだろう。 「どうしよう⋯⋯マジ怖いんだけど」  下手なホラー映画よりも、街でヤクザみたいな男に因縁つけられるよりも怖かった。  逃げ出したいが、今高杉は部屋の前にいる。  諦めて帰るまで無視してやり過ごすしかないだろう。  再びインターホンが鳴った。  ドアには鍵もチェーンもかけてある。  急いで部屋の奥に戻り、カーテンを閉める。  入って来れないとわかってはいるが、落ち着く事はできなかった。  しばらくドアががちゃがちゃと鳴っていたが、やがてそれも聞こえなくなった。  玄関の覗き窓を覗いて高杉の姿が見えないのを確認すると、やっと少しだけ安心した。  それでもまだ恐怖で心臓がうるさい。  とりあえず武田に電話をかける。 『武田でーす』  脳天気な武田の声がする。 「あ、武田。俺だけど」 『おお、暮羽。どうした?』 「実はさっき⋯⋯」  暮羽は高杉の事を話した。 『マジかよ。そういや、広瀬さんには相談したのか?』 「一応、話はしてみた」 『そっか。とりあえず、バレバレの居留守使ったってかまわないからさ。無視続けたほうがいいと思うぜ』 「ああ。そうする」 『明日また広瀬さんに相談してみろよな』 「わかったよ」 『そうだ。明日の朝、迎えに行ってやろうか?俺のアパートから近いし』 「いいのか?頼むよ」 『オッケー。んじゃ、明日な』 「ああ、サンキュ」  通話を終了して、ほっと一息ついた。  やはり広瀬に相談するべきなんだろうか。  広瀬の顔を思い浮かべる。  確かに噂通りの優しい男だった。  穏やかで優しいのだが、優男という印象はない。  後輩に対しては面倒見が良く、相談事は小さな事でも真面目に聞いてくれる。  確かに、女でなくても憧れる存在だった。 「何か俺って情けねー⋯⋯」  つぶやいて、目を閉じた。  高杉に何かをされた訳でもないのにここまで怖がっている自分がとにかく情けなかった。  出来る事なら自分だけで何とかしたいと思う。  心配してくれる武田たちや広瀬に迷惑をかけるのは心が痛む。  しかしそれでも、高杉と2人きりで話す勇気はなかった。  それが自分自身の情けなさに拍車をかけている。  食欲も失せた暮羽は、さっさと入浴を済ませて眠りについた。  朝。  8時半過ぎに、武田が迎えに来た。 「おはよ」  武田が玄関で手を挙げる。 「悪いな」  暮羽はそれに応えて靴を履いた。 「気にすんな。あれから高杉は?」 「いや、あれからは諦めて帰ったみたいだった」 「そっか。しかしまあ、いつまでも無視してても、解決しないよなぁ」  武田は困ったように言う。 「だよな。1回高杉と話してみるべきかなって思うんだけど」  暮羽はドアの鍵を閉めながら言った。 「それはオススメできないぞ。話の通じる相手ならそれもいいけど、あいつは話の通じる相手じゃないだろ」 「それもそうだよな⋯⋯」  武田の言葉に納得する。  確かに、話して通じる相手ではないと思う。  そもそも、話して通じる相手ならストーカーになる訳がないのだ。 「だから広瀬さんに相談してだなぁ、何か対策練ってもらうんだよ」 「お前、何かやけに広瀬さんにこだわってない?」  暮羽はいぶかしげに武田を見た。 「んあ?あ、いや、別にこだわってなんかいねーぞ」  あたふたと言うあたり、図星だったようだ。 「何だかなぁ⋯⋯」  暮羽は呆れた。  アパートの前に武田のバイクが停めてあり、2人はそれで大学に向かった。  講義がない時は、暮羽は写真サークルの部室で過ごす事になった。  広瀬が言った通り、他のメンバーも暮羽を歓迎してくれた。  それはそれで少し複雑だったが、少なくともこれで高杉からは逃げられるので安心だ。  ソファでくつろいでいると、1回生のメンバーの女の子がココアをいれてくれた。 「構わなくていいよ」  人と話すのがあまり好きではない暮羽は、言葉少なに言う。 「リーダー命令ですから気にしないで下さい」  女の子はそう言って笑った。  服装は地味だが、笑うと可愛い子だ。  名前は堀内真美(ほりうちまみ)といった。 「広瀬さんが言ったの?」 「はい。なんだか、大変な事になってるみたいですね」 「まあ、ね」 「リーダーに、責任は自分にあるから丁寧に扱ってあげてくれって言われたので」  真美はそう言ってお盆を棚に置く。 「丁寧って⋯⋯」 「それと、ここの合鍵も作って渡すように言われてますので、今日作りに行きます」 「君って、雑用担当か何かなの?」  ふとした疑問を口にする。 「そんな感じです。まだ新人ですから」  そう言って真美はにっこり笑った。 「新人か⋯⋯」 「それじゃ私、この後講義ありますからもう行きますね」 「ああ、またね」  真美が出ていくのを見送って、暮羽はココアを一口飲んだ。  しかし、する事がない。  しばらくはソファでのんびりしていたが、そのうち眠り込んでしまった。  人の声が聞こえてくるようになって、暮羽は目を覚ました。  起きあがって声のするほうを見ると、メンバーが数人、暮羽のほうを興味深そうに見ているのが目に入った。 「あ、起きたね」  男の声。 「⋯⋯すみません、寝ちゃってました」  暮羽は相手に頭を下げてから壁の時計を見る。  講義の時間までまだ余裕があった。  起きてしまったら、またする事がない。 「どうしたの?退屈そうだね」  何回生かわからない男が話しかけて来た。 「⋯⋯退屈ですから」  暮羽は無愛想に言ってため息をつく。 「写真のモデルでもしてみる?」 「や、遠慮しときます」 「君ってほんとモデルにいいと思うけどな」 「人に顔を見られるの、あまり好きじゃないんで」 「なるほど。それで前髪長いんだ」  男は納得したように暮羽を見た。  暮羽は確かに、前髪を長くしている。  全体的な印象は普通のショートヘアなのだが、前髪は長めにとってあるので、ヘアスタイルによっては顔が目立たない。 「自分の顔、男らしくないからあんまり好きじゃないし」 「うわ~、それって贅沢な悩み~」  方々から似たような声があがった。 「交換できるもんなら交換したいね」  誰かが言う。 「高杉付きでもいいならいくらでも交換しますけど」  暮羽は疲れたように言うと立ち上がった。 「もう行くの?」 「次、講義あるんで」 「そっか。じゃ、またね」  暮羽はメンバー達に見送られて部屋を出る。  サークルの部室があるこの棟から、教室のある棟までは少し歩かないといけなかった。  渡り廊下を歩いて各棟の中を通るか、外に出て歩くか。  どちらが高杉と遭遇する確率が低いだろう。  考えて、暮羽は外を歩く事にした。  無事に教室に到着すると、武田と品川がやって来る。 「ずっと写真サークルの部室にいた?」 「ああ」 「そうかそうか。良かったな、避難場所ができて」  武田が嬉しそうに言った。 「広瀬さんがいるから、俺達の出番はなさそうだな」  品川が意味ありげに言う。 「なんだよそれ」  暮羽は品川を睨んだ。  しかし武田と品川はにやにや笑うだけだ。  何も言う気になれなくて、暮羽は机にうつ伏せた。 「で、広瀬さんはいたのか?」 「いや、いなかったよ。他のメンバーは何人かいたけどな」 「何だ、いなかったのか」  うつ伏せたままの暮羽の答えを聞いて、武田はがっかりしたようにつぶやく。  こいつら一体、何を考えてるんだ?  暮羽は考え込む。  もしかして⋯⋯。  ふと、頭の中で何かひらめいた。 「お前ら、俺と広瀬さんが仲良くするように仕向けてない?」  暮羽が2人を見つめると、明らかに顔色が変わった。  やっぱり、思った通りだ。  暮羽はしてやったりという感じの笑みを浮かべた。 「べ、別に仕向けてねーよ。広瀬さんが責任を感じてるのは本当だし」  武田がどもりながら言う。  横で品川もうんうんとうなずく。 「俺が金持ちの広瀬さんと親しくなっておけば色々とメリットあるとか思ってんだろ」  暮羽が言うと、今度は2人は顔を見合わせた。  そして、ぷっと吹き出す。  何時の間にか講義は始まっていたが、彼らは気付いていないようだ。 「やっぱ暮羽可愛いわ」  品川がくくっと笑いながら顔を赤くする。 「ほんと、無愛想なくせにな~」  武田も品川の意見にうなずいている。  どうやら暮羽の予想は、途中から外れていたらしい。  2人の笑いが理解できなかった。  なんとか今日は無事に終わった。  そう思いながら帰り道を歩いていた。  大学から歩いて10分ほどの所にアパートがある。  そしてアパートの傍の公園を過ぎ、アパートが見えて来た。  玄関のドアが並んでいるのが目に入る。  暮羽の部屋は2階の真ん中あたりだが、自分の部屋と思われるドアの前に人影があった。  薄暗くて誰なのかはわからない。  しかし、嫌な予感がした。  見つからないように様子をうかがう。  高杉のような気がした。  しかし、確証はない。  暮羽は携帯を取り出した。  番号を非通知に設定して、高杉の携帯にかけてみる。  高杉の番号は登録などしていないが、着信拒否に設定する前の着信履歴に残っていた。  しばらくすると、暮羽の部屋の前にいる人物がポケットを探り出した。 『はい?』  聞きたくない声が暮羽の耳に入る。  声を聞いた途端、通話を切っていた。  そしてそのまま逃げ出した。  しばらく走って、夜は歩いた事のない通りに出た。  スナックやバーが立ち並んでいる所だ。 「昼とは全然違うな、この辺⋯⋯」  キョロキョロと辺りを見回す。  昼と夜のギャップが激しいのが新鮮だった。  まだ開店していない昼間には何回か通りかかった事があるが、夜通るのは初めてだ。  昼間は閑散としている通りだが夜は店の看板も明るく点灯していて賑やかだ。 「ねえねえ」  ぶらぶらと歩いていると、後ろから声をかけられた。  振り向くと、良く日焼けした、男らしい顔があった。  にこやかな笑みを浮かべるその顔に見覚えはない。 「君、ひとり?」 「⋯⋯何?」  暮羽は訝しげに男を見た。  男はそれを気にする様子もなくにこにこしている。 「いや、ナンパしてるんだけど」 「ナンパって、俺、男なんだけど」 「わかってるよ。俺、女の子には興味ないんだ」  男はさらっとそう言った。 「はあ?」  暮羽は眉をしかめた。  つまり、この男は⋯⋯。 「あんたホモなの?」 「あのね、ホモって差別用語なの。ゲイって言ってくんない?」 「⋯⋯ゲイ、なワケ?」 「そうだよ。だから君をナンパしてんの」  男はにっこり笑う。 「⋯⋯他あたってくれ」  暮羽は疲れたように肩を落とした。 「ふーん」  男は少し感心したように暮羽を見る。 「何だよ」 「自分はゲイじゃない。とは言い切らないんだ?」 「それは⋯⋯」  確かに男の言う通りだった。  はっきり、そう言えばいい事なのだ。  だが暮羽は何故かそう言えなかった。  何故なのかは自分でもわからない。 「先の事なんてわからないから」  暮羽は視線を落とした。  今は男にも女にも恋愛的な興味はない。  だから、この先どうなるのか自分でもわからない。  わかっているのは、例えゲイになったとしても高杉だけは好きにならないだろうという事だけだ。 「じゃあさ、とりあえず今夜だけでもどお?」 「あのな⋯⋯興味ないって言っただろ」 「だから、興味が湧くかも知れないだろ?」 「あんたしつこい」  暮羽は男を睨んだ。  黒い瞳が、ネオンに照らされて潤んでいる。  そんな目で睨まれても、男がひるむ訳がなかった。 「だって、君を落としてやろうって思ってるからさ」 「落ちないからやめとけって。時間の無駄」  暮羽はそう言って手をひらひらさせる。  どうやって逃げようか考えていた時だった。 「雪村君じゃないか。どうしたんだい?」  前方から声がした。  目を向けると、広瀬が見えた。 「あ、広瀬さん?」  暮羽の顔が明るくなった。  これで逃げる事ができそうだと思ったからだ。 「ちぇっ。今日のところは諦めるけど、今度見かけたら絶対に落とすからね~」  男は残念そうに言いながらその場を去って行った。  諦めてくれたらしい。  暴力的な相手じゃなくて良かったとホッとする。 「ありがとうございます。ナンパされて困ってたんですよ」 「いえいえ」  広瀬は暮羽を見てくすくす笑う。  暮羽には何故広瀬が笑うのか理解できないでいた。 「何がおかしいんですか」 「君、ここがゲイバー通りだって事、知らないで歩いてただろ」  そう言って広瀬は声をあげて笑った。 「ゲイバー通り⋯⋯」  暮羽は納得した。  どうりで男が男に平気でナンパしてくるワケだ。  昼間は通った事がなかったので全然知らなかった。 「やっぱり知らなかったんだね。さっき丁度、君がここに入って行くのが見えてね」 「知らなかった」 「でも、どうしてこんなとこ歩いてるんだい?」 「あ、それは⋯⋯」  暮羽は途端に硬い表情になった。  高杉の事だと察した広瀬は、辺りを見まわす。 「行き付けの店があるんだけど、そこで話そうか」  高杉らしい人物がいないか確認すると、広瀬はそう言って歩き出した。  広瀬が行き付けだと言った店もゲイバーだった。  2人用のテーブルに着く。 「広瀬さん、何でゲイバーに行き付けの店があるのさ⋯⋯」  暮羽は驚いて広瀬を見た。 「ここなら女の子来ないだろ?」  広瀬はにっこり笑ってそう言う。 「⋯⋯納得」  確かに広瀬くらいの男だと、黙っていても女が寄って来るに違いない。  ここなら女はいないし、男に声をかけられても広瀬なら上手く躱すだろう。  出されたカクテルを飲みながら店内を観察する。  店員も客も男しかいなかった。 「で。さっきの続きだけど、やっぱり高杉だろう?」  店内を観察している暮羽に、広瀬が訊く。 「実は⋯⋯」  暮羽は、自分の部屋の前に高杉がいた事を話した。  広瀬の顔が険しくなる。 「なんて奴だ⋯⋯!」 「一度は話してみようと思ってたんだけど、話が通じる相手じゃないだろって武田に言われて」 「確かにあいつは、話して通じる相手じゃないね」 「武田も品川も、広瀬さんなら何とかしてくれるからってそればっかで」  暮羽は苦笑した。  つられて広瀬も微笑む。 「力になるよ」  そして広瀬は力強くそう言った。

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