3 / 15

第3話

 その後しばらく広瀬と飲んでからアパートへ帰った。  高杉はもういなかったが、やはり怖くて様子をうかがってしまった。  さすがにこの時間までは待ち伏せしなかったらしい。  部屋に戻ると、どっと疲れが出た。  毎日がこういう事の繰り返し。  だからといって実害はないのでこちらからは手出しできない。  警察に相談したとしても、実害がない限り動いてくれないだろう。  精神的疲労のせいで食欲もなく、ここ数日まともに食べていない。  いつか倒れるかも知れない。  そのくらい、精神的に参ってきている。  その反動が倦怠感として確実に現れていた。  翌日。  暮羽は朝食をココア1杯で済ませると、のろのろとアパートを出た。  大学へ向かう足取りも重い。  広瀬なら何とかしてくれるだろうか。  誰にでも優しいというのは本当だったし、無愛想な暮羽にも嫌な顔は見せない。  いつも穏やかな広瀬の側は何故か安心できて居心地が良かった。  人目を避けるようにしてキャンパス内を歩く。  何故そこまで高杉が怖いのか、自分でもよくわからなかった。  しかしもう6月だ。  2ヵ月乗りきれば8月からは夏休みなのでどうにでも逃げられる。  講義のない期間は実家に帰る事だってできる。  最近は電話の回数も減ってきていた。  ただそれが何かを企んでいるような感じがして嫌なのだが。  武田に言わせると「押してダメなら引いてみろとでも思ってんじゃねーの?」である。  ずっと引いててくれていいのに、と思ってしまった。  とりあえず暮羽は、写真サークルの部室に向かった。  講義が始まるまでまだ時間がある。  部室を覗くと、真美の姿があった。 「あ、雪村さん。おはようございます」 「おはよう」 「合鍵できましたよ。これでいつでも入れますから」  真美はそう言ってにっこり笑うと、鍵を手渡した。  暮羽は黙ってそれを受け取る。 「⋯⋯ほんとにいいの?俺、部外者なのに」 「いいんですよ。それに私も個人的に高杉さんは嫌いですし」 「そっか」 「それじゃ私失礼しますね」 「もしかして俺が来るの待っててくれた?」 「ええ。暇でしたから」 「何だか悪かったな。ありがとう」  暮羽はふんわりと微笑んだ。  真美が一瞬驚いた顔をして、すぐに笑顔になる。 「雪村さんは笑ってたほうが素敵ですよ。それじゃ」  そしてそう言い残すと部室を出て行った。  これでも人見知りが激しい暮羽は、初対面の人間に笑顔を見せる事はまずない。  しかし真美とはもう初対面ではないし、彼女が優しい人間だという事は何となくわかったので、暮羽も真美には人見知りしなくなっていた。 「笑顔、ねぇ⋯⋯」  つぶやいてソファに座る。  自分のほっぺたをむにむにしていると、ローテーブルの上に封筒が置いてあるのが目に入った。  よく見ると「雪村様」と書かれている。  何だろう。  そう思いながらそっと取って中を見ると、写真が入っていた。  例の写真展の時に撮ったものだ。  出展したのは1枚だが、撮ったのは数十枚ある。  中身を出して見てみた。  モデルはもちろん暮羽で、色んな角度、色んなポーズで写っている。  もちろん、カメラマンである広瀬の指示通りに取ったポーズだが。  改めて見ても恥ずかしいものだったので、すぐに封筒に戻しテーブルに放った。  そして部屋を出ると、鍵を閉めて教室に向かう。 「暮羽、最近痩せたんじゃねーか?」  武田が暮羽に訊いた。 「あ~、最近ちょっと食欲なくてさ。体重は計ってないけど痩せたかもな」  暮羽はいつものようにうつ伏せている。  講義をする教授は話に夢中で、暮羽たちの事は見えていないようだ。 「う~ん。ぶっ倒れる前にさっさと決着つけたほうがいいような気するぜ」 「どうやって決着つけるんだよ」 「呼び出してぼっこぼこにするとか?」 「あのなぁ。実害ないんだからそんな事したらこっちの立場悪くなるだろ。傷害で訴えられたらどうすんだよ」 「それもそうだな」  武田は考え込む。  暮羽も黙り込んだ。 「まあそれがストーカー行為の嫌なとこなんだよな。実害がないと警察にもどうにもできない。でも何か被害に遭ってからでも遅いしなぁ」  やがて武田がそうつぶやいた。  武田も品川も、もちろん暮羽も、そして広瀬もそれで悩んでいる。  高杉は口で言って聞くような男ではない。  しかし実害がない以上、こちらが実力行使に出る事はできない。  そんな悩みを抱えたまま6月も下旬に入った。  梅雨の時期でじめじめした日が続く。  高杉は最近、前ほどつきまとっては来なくなった。  武田も品川も、広瀬も安心していた。  暮羽だけが、嫌な予感を感じていたのだが。  相変わらず講義がない時間は写真サークルの部室に入り浸っている暮羽だが、最近はサークルも何かと忙しいようだ。  秋の大学祭に展示する写真の撮影準備に追われていた。  モデルを使うにしてもどこかの風景を撮るにしても、お金も時間もかかる。  ロケ地を決定するための下調べをしたり、モデル探しなどでメンバーは慌しかった。  モデルに関しては暮羽が引き受ければ探さなくて済むのだが、高杉の事もあって暮羽にモデルを頼もうと言うメンバーはいないようだ。  たかがサークル、と思っていた暮羽だがメンバーの真剣な顔を見るにつれて、自分も何か協力したいと思うようになっていた。  しかし、モデルを買って出る勇気はなかった。  第二の高杉が現れないとも限らない。  広瀬は副リーダーと共にロケハンと称して伊豆やら熱海やらを渡り歩いているらしい。  金持ちだというのは本当のようで、広瀬は伊豆にも熱海にも別荘があるらしい。  別荘の周辺で撮影に最適な場所を見つけるという事だった。  広瀬は1週間ほどでロケハンを終えて帰って来たが、忙しいのは変わらない。  暮羽が部室にいる時に顔を見せる事はなかった。  アパートに戻るたび、広瀬に電話をしようかと名刺を取り出していた。  広瀬の姿を見ないと、声を聞かないと何故か落ちつかない。  それが何故なのか全くわからなかったが、自分には兄がいないので広瀬は自分にとって兄のような存在なのだろうと思うようになっていた。  かけようとしてはやめる日が続き、いつの間にか携帯のナンバーを覚えてしまっていた。  とりあえずいつでも掛けられるようにと、電話番号やメールアドレス、メッセージアプリのIDを登録だけしておく。  ため息をついて、風呂に入ろうかと立った時だ。  インターホンが鳴った。  警戒する事も忘れ、暮羽は思わず玄関を開けてしまっていた。  訪問者は高杉だったのだ。 「な、何だよ⋯⋯」  怒りよりも恐怖で体が震える。  気持ち悪いという表現がぴったりな高杉は、嫌らしい笑いを浮かべた。 「今日はすんなり開けてくれたね」 「あんたに用はないよ。帰ってくれ」 「話くらいいいだろう?」 「あんたと話す事なんてないんだよ。帰れよっ」  暮羽は高杉を睨みつける。 「怒った顔も魅力的だね。もっと色んな顔を見てみたいよ」  高杉は嬉しそうに笑うと、暮羽に迫った。 「は、入って来るなよ!不法侵入で警察呼ぶからな!」  殴ってぼこぼこにしてやればいいのだろうが、殴り合いの喧嘩などした事のない暮羽に高杉を殴り飛ばす勇気はなかった。  防衛本能よりも恐怖の方が勝っている。  何とかして押し戻そうとするが、細身の暮羽が適う訳がない。  あっさりと踏み込まれてしまった。 「話って何だよ」  暮羽は警戒の眼差しを向けながら後ずさる。 「僕が君をどれくらい好きかわかってもらいたくてね」 「わかりたくねーよ。諦めて帰ってくれ」 「どうしてわかってくれないんだい。こんなに好きなのに」 「わかりたくもないんだよ!あんたの事なんか!」 「そうか。それじゃ仕方ないね」  高杉はため息をつく。  暮羽は少しほっとした。  高杉が諦めてくれたと思ったのだ。  しかしそうではなかった。  高杉がポケットから取り出したのは細いワイヤーのようなものだった。 「何だよそれっ」  暮羽は再び警戒心を強める。 「拘束用のワイヤーだよ」 「は!?」  目を見開く暮羽を見て高杉はにやりと笑った。  何をされるのか察した暮羽は、高杉を突き飛ばし玄関に走る。  とっさに携帯電話を掴んでいた。  追ってくる高杉に捕まるまいと、暮羽は全力で走った。  どのくらい走っただろうか。  心臓が破裂しそうなくらい激しく打っている。  息が苦しかった。  走り疲れて途中で歩くものの、追いつかれて捕まるかも知れないという恐怖に駆られ再び走り出す。  気が付くと大学の前まで来ていた。  しかし部室の鍵は持って来ていない。  武田に電話する事にした。 『武田でっす』 「たけだっ、お、俺だけどっ」  暮羽は息を切らしながらやっと声を出した。  それで武田は異常に気付いたようだ。 『暮羽か?何があったんだ!?』 「さっき⋯⋯」  暮羽は高杉の事を話した。  話し終わる頃には呼吸も落ち着いていた。 『ついに行動に出やがったな。今ちょっと立て込んでて、行けそうにないんだ。品川も今日は予定あったハズだし、広瀬さんに電話してみろよ』  武田はそう言って、暮羽の返事を待った。 「広瀬さんに?」 『ああ。あの人なら絶対に何とかしてくれるって』 「そうだな⋯⋯電話してみようかな」 『そうしろ。また何かあったら連絡くれよな』 「ああ」  暮羽は武田に感謝の言葉を言って電話を終了した。  すぐに広瀬の携帯にかける。  広瀬はすぐに出た。 『はい、広瀬です』 「あ、俺です。雪村です。今ちょっと時間ありますか?」 『雪村君?どうしたんだい?』 「実は今⋯⋯」  暮羽はさっきの事を話す。 『すぐにそっちに向かうよ。いつだかのゲイバー覚えてるかい?』 「はい」 『じゃ、そこで待ってて』  電話はすぐに切れた。  暮羽は周囲を警戒しながらいつぞやのゲイバーへ向かった。  前に広瀬と飲んだバーの前に来た。  しかし財布は持って来ていない。  入ろうかどうしようか迷っていると、広瀬が息を切らして走って来た。 「雪村君!」 「広瀬さん」  暮羽は広瀬の姿を見て、妙に安心した。  恐怖が消えるのが自分でもわかる。  何故広瀬を見ただけで安心できるのか、それは自分でもわからなかった。 「高杉は追って来てないかい?」 「多分、大丈夫だと思うけど⋯⋯」 「部屋を飛び出して来たんだろう?付き添うから戻ってみよう」 「⋯⋯はい」  怖くないと言えば嘘になるが、広瀬がいるなら安心だと思った。  広瀬と一緒に歩き出す。 「⋯⋯少し痩せたね」  道中、ぽつりと広瀬が言った。  暮羽は少し驚いたが、黙ってうなずいた。 「高杉のせいで食欲なくて、まともに食べてないから」 「僕のせいだ。済まない」  暮羽の薄い肩を気にしながら、広瀬は唇を噛む。 「広瀬さんは悪くないよ。俺がモデルをして、その写真をあいつがたまたま見ただけの話だから」  自分を責めている様子の広瀬に、暮羽はきっぱりと言った。  広瀬を責めるつもりなどみじんもない。  逆に、申し訳ないと思っていた。  そんな暮羽を見て、広瀬は力なく微笑んだ。  やがて暮羽のアパートに着いた。 「あいつの事だから、盗聴機か何か仕掛けてるかも知れない」 「何も持ってない感じだったけど⋯⋯」  暮羽は玄関を覗いた。  人の気配はない。  高杉から逃げて飛び出した時と変わらなかった。 「一応、チェックしてみたほうがいいよ。見覚えのない物はないかい?」  暮羽の後について来ながら広瀬が訊いた。  言われて、暮羽はコンセントやテレビ裏などをチェックする。  見た所、不審な個所はないようだった。  幸い、部室の鍵も無事だった。 「大丈夫みたい」 「そうか。それならいいけど、誰か来てもすぐに玄関開けないようにね」 「はい。今日はちょっと気が抜けてて。次から気をつけます」 「また何かあったらすぐに連絡してくれ。できるだけ君の力になりたいから」 「⋯⋯」 「どうかしたかい?」 「⋯⋯何でもないです。ありがとう、広瀬さん」 「また何かあったらすぐに電話してくれ」 「はい」 「じゃあ、また明日」  広瀬はにっこり笑うと、部屋を出て行った。  それを見送ってからドアに鍵をかけ、チェーンもかける。  それでもまだ、高杉に対する恐怖は消えない。  高杉はもうここを知っている。  今すぐにでも引越してしまいたかった。  そして、心身共に疲れてぐったりとベッドに倒れ込んだ。  その後、高杉は再び接触して来なくなった。  今回は武田も品川も警戒している。  品川は暮羽とアパートの方向が同じなので、行き帰りはできるだけ付き添ってくれるようになっていた。  広瀬は相変わらず忙しいようだが。  昼の学食。  暮羽、武田、品川の3人は昼食を摂っていた。 「それにしても高杉の奴、何考えてんだろうな?」  品川がぶつぶつ言う。 「そりゃやっぱ、暮羽を拉致って監禁するつもりなんじゃねーの?」  武田は恐ろしい事を平気で言う。 「マジかよ。こえーな」  品川は目を丸くした。  暮羽は何も言わず青褪めている。 「だってこの前、暮羽んとこに押しかけて来てさ。暮羽が自分の思い通りにならないってわかったら変なワイヤーを出して来たんだろ?」 「ああ、何か、拘束用とか言ってた」 「一体どこでそんなもん入手してんだろうな」  武田が考え込む。 「インターネットとかじゃねぇ?結構何でも手に入るだろ」  品川が答えた。  暮羽は相変わらず青褪めた顔で、のろのろとご飯を口に運んでいる。 「まあとにかく、警戒しといたほうがいいよな」 「もしアパート帰るのが嫌なら、俺らんとこに交互に泊まってもいいぜ。俺も武田もアパート暮らしだし、連れ込んでいちゃつく彼女もいねーし」 「ああ、それいいな。俺らの都合が悪かったら、広瀬さんのとこに泊めてもらうって手もあるぞ」  品川の提案に頷きながら、武田はまた広瀬の名前を出す。  こいつら絶対何か企んでるよな、と思いながらも品川の提案には助かった。 「お前らが泊めてくれるなら頼むよ」  暮羽が言うと、武田と品川は力強く頷いた。

ともだちにシェアしよう!