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第1話 Side:M

 両腕に力を籠めて、体を浮かす。それからベッドの縁から先に手を下ろして、少しずつ体を端へ端へと動かしていく。そうして時間をかけてやっと膝がベッドの縁まで進む。これで、まずは爪先を床につける。そろそろと足を動かした、つもりだった。 「んぶっ……、痛ってぇ……」  足は少しどころか一気にベッドから落ちて、咄嗟に手でベッドの縁を掴むも間に合わず、あえなくクルッと体は回って右半身を床に叩きつける。今日も変わらず足は動いてはくれないらしい。足、というか、俺の下半身のほとんどはどう頑張っても動いてくれなかった。その理由は分かっている。だから、どんなリハビリをしても二度と立てないことなんて分かっている。するだけ無駄だと、分かっている。  それでも毎日毎日ベッドの上で寝ている日々はどうにも性に合わなかった。動く両手でどうにか体を起こして、薄暗い部屋の中を見渡す。あの日からフィンはこの部屋から俺を出してくれなくなった。部屋にあるのは天蓋のついた大きなキングサイズのベッドと、高い本棚が二つ。それとテーブルと椅子と暖炉、フィンの公務机。それからフィンの衣装箪笥くらい。そんな王族の部屋にしては簡素な部屋。這って部屋から出ようとしても、速攻で見つかって部屋に連れ戻される。これだけ足が動かないと匍匐前進もままならないのだから、仕方ない。  あの日まで俺はこの国の兵の一人だった。フィンの、この国の王子の近衛兵の兵団隊長という立場を任されていた。たくさん部下もいて、いつも前線に立っていた。でもある日、立てなくなった。それは隊長という意味でも、物理的な意味でも変わらない。歩けない兵が出来ることは何もない。でも元来体を動かすことが趣味みたいなところがあった俺に、何もしないで寝ていろなんて無理があった。だからこうやって無理矢理体を動かして、部屋の中を這いずり回って、様子を見に来た世話人に怒られる。それが今の日常。  ここは王子であるフィンの部屋。だからフィンの私物がたくさん置いてあった。少し前までは暇をもて余して高い本棚に這って行って、下の段にある本を読んでみたりもした。しかし、フィンの部屋にある本はほとんど難しい本ばかりで、戦術以外のことで頭を使うことが苦手な俺では早々に飽きてしまった。かといって他に漁れるものはフィンの執務机くらいだが、そこを勝手に触るわけにはいかない。だから、最近はベッドから少し遠い窓のところまで行って、窓のすぐ側にある椅子によじ登って、そこから城や城下を見下ろすことで暇を潰していた。  王子様の部屋なだけあってフィンの部屋は城の中でもかなり高いところにあったから、展望は良くて、町の外まで良く見えた。でもその分、この部屋から抜け出すことは出来ないのだろうなって、強く思った。  ……フィンはそのつもりはないのかもしれないけれど、俺にとっては軟禁されているのとそう変わらない日常だった。自分で移動することもままならない。足掻きに足掻いて部屋を出ても、一分と持たず連れ戻される。このたった一部屋の景色だけが、今の俺の世界の全てだった。箱庭の中にでも落とされたような感覚だ。  見下ろした窓の外で、偵察兵が馬を駆って城を出ていく姿が羨ましかった。俺もああやって馬の背中に乗って野を駆っていたのに。振り返った先で近衛兵の仲間が着いてきて、一番後ろからフィンが来るのを見るのが好きだった。でも、もうそんなことは出来ない。そんな景色を見ることは二度と叶わない。あれからしばらく会えていないけれど、イオは、俺の愛馬は元気にしているだろうか。  ちょうどこの部屋の下の中庭の辺りで、俺と一緒に近衛を担当していた仲間が兵士に指示を飛ばしている姿が見えた。俺がいなくなって、仕事を増やしてしまったろうなと思う。俺に代わる隊長はまだ決まっていないと聞く。それは護られる側のフィンが決めていないからというのと、候補にあがる兵がまだそんな力量はないからと断るからという二つの理由があるらしい。そんな謙遜しなくても、みんな十分その力は備わっているのに。分かっている。本当は空席になってしまった隊長という立場に、まだ虚像を見ていたいのだと。そこに俺の居場所を残して、俺がいたという証が欲しいからだと、分かっている。俺だって、またその立場に戻りたい。あの頃に帰りたい。でも、それは叶わない。  訓練をしていた近衛兵の一人が、ふと城の時計を見てから仲間に声をかけてからその場を離脱するのが見えた。それに合わせて俺も部屋の時計を見てみると、時計は三時になろうとしていた。それはいつもの時間だった。彼はこれからこの部屋に来るのだろう。見つかったら、また勝手に移動してと怒られるだろうな。ベッドに連れ戻されたら昼寝でもしようかな。いなくなってからまた窓まで移動するのは、疲れるから。彼が来るまでの間、窓から外を眺めて時間を潰す。数分後、その足音は部屋の外から聞こえ始めた。 「失礼します……って、隊長? またベッドから降りて、風邪引きますよ?」 「これくらいで引かないよ」  予想通り、やっぱり怒られた。部屋に来たアイハの手にはお湯とタオルがあった。アイハは近衛兵だった頃の直属の部下の一人だ。物腰が柔らかで穏やかな雰囲気を持ったアイハは、兵の中でも特に民からの信頼が厚い。その優しさがある上に意志が強く危ういほどに真っ直ぐな性格をしていた。俺の世話役も、自分からかって出てくれたらしい。  この体では風呂まで行くのも一苦労だし、入るのもそれはそれで忙しいみんなに苦労をかけてしまうから。俺は風呂の代わりにこうやって決まった時間に体を拭いてもらっていた。部屋からほとんど出ないから汗をかくこともないし、汚れることもないからそれで十分ではあった。  窓の隣の椅子から降りてベッドまで這って行こうとするとアイハが体を起こして肩に軽く担いで半ば引き摺りながらベッドまで運んでくれた。自分で持ち上がらない足はアイハが持ち上げてベッドに優しく乗せてくれる。最初は、アイハの力ではこんなに持ち上がらなかったのに。ここでずっと寝てばかりいるから痩せているのだろうなということは自分でも分かっていた。体の筋肉量が減った感覚は確かにある。  アイハと同じ時期に入隊して同じく俺の部下だったもう一人の世話役、ノインもまだ少しだけ支えは必要としているが、ノインもほとんど俺を抱えあげるようになってきた。以前はまさかノインに抱えられる日が来るとは思っていなかったので少しだけショックではあったけど、逞しくなったなと嬉しさもあった。  首や肩から全身を隈無くアイハが拭きあげてくれているのを感じながら手渡された小さめのタオルで顔を拭く。時間はかかるが、時々風呂まで運んでくれてゆっくり湯に浸からせてくれていた。手間をかけているのが悪い気がするけれど、それでもその時はみんな一緒に入ってくれるから楽しい時間でもあった。以前一度腰掛けていた段差から滑って溺れかけたこともあるけれど、それもそれで楽しい出来事である。その時だけは部屋から出してもらえるから、日々の中の一つの小さな楽しみだった。  次はいつ連れていってくれるかな、とぼんやり考えているうちに上半身を拭いてくれたアイハが別の綺麗な布を広げて、足の下に滑り込ませてくる。腫れ物に触るように、大切に大切に触れられるこの両足には、まだ包帯が巻かれていた。一日一回、この包帯の交換も一緒に行っていた。アイハが結び目を解いて包帯を外していく。大腿から下の感覚はほとんど無くなっているから、その光景を目の前にしているのに時々それが本当に自分の足なのかどうか曖昧になる。でも、包帯の下にある傷だらけの足は間違いなく自分のものだった。  アイハは取った包帯は別にして、濡れたタオルで傷のついた足をそっと拭いてくれる。医師によると深く刻まれたこの傷は、一生消えないらしい。それでも感覚はないのだから、当然そこには痛覚もない。優しくしようと乱暴にしようと感じるものに変わりはないのだからそんなに丁寧にしなくてもいいのに。アイハだけでなくて、みんなそこに触れる時はいつも優しく触れていた。まるで、割れたガラスの破片にでも触るように。そうやって丁寧に足を拭いた後に、また新しい包帯を足に巻いていく。俺はいつも何も言わないでそれを見ていた。 「よし、これで大丈夫ですか?」 「あぁ、大丈夫だよ。ありがとな、アイハ」  笑顔を向けると、アイハもまた笑い返してくれる。それからアイハは体を起こしていた俺の体を少し動かして、ベッドに横たえてくれる。それから足の下に敷いていた布を取り、使った水や解いた包帯を抱えて、アイハは部屋を去っていってしまう。そうしたら、また部屋の中には一人になる。眠気は特にないけれど、他にすることもない。ただ黙って目を閉じる。夜飯になったらまた誰か来て起こしてくれるだろう。それまで少し眠ろう。眠気はなかったはずなのに、体は簡単に微睡みに落ちていった。

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