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第5話 Side:F

 それは酷い雨の日のことだった。僕らは国の砦の視察に向かっていた。急に天気が悪くなって、それで視界も悪く偵察兵が近づいてくる敵軍を見落としてしまったことが始まりだった。僕と近衛のみんなは先に逃がされ、馬を駆っていたが、足場の悪さが影響して馬が一匹足を滑らせてしまった。本来なら、僕が一兵を気にして立ち止まるわけにはいかない。だけど、落馬したのがアイハだったから。つい足を止めてしまった。僕が止まれば当然みんな止まってしまう。素早くノインが馬を降りて駆け寄っていく。それを確認してすぐに走り出せば良かったのだが、ミューがそれを止めた。その時に言い出したのだった。自分が囮になると。その時は、ミューなら大丈夫だろうと思ってしまったから。言われるがままに馬を乗り換えて、羽織っていたローブを交換した。アイハとノインが乗っていた馬を置いて、僕はノインになりすまし、ノインはミューになりすまし、ミューが僕になりすますという複雑な交換をすることで逃げ切るつもりだった。アイハと一緒に森に身を隠し、走り去っていく近衛たちを見届けた時は、城に戻ればすぐに合流できると思っていた。しかし、城に戻った僕に届いた報せは、一人敵国に捕らえられたというものだった。出迎えた近衛の中で欠けた一人、ミューはそれから一週間、敵国に捕虜として捕らえられていた。その一週間の間に、ミューは多くのものを失ってしまった。  僕が最も信頼を寄せている兵がミューであることは、国外にもよく知られていた。だから敵兵はミューから僕についての情報を聞き出そうとした。しかし、ミューは何一つ話さなかったという。重要なことから、何でもないことまで。何一つ。誰もその場にいたわけじゃないから、ミューが何をされたのかは詳しくは分からない。ミューも話したがらなかったから、ほとんどは闇の中である。しかし助け出した時のミューの状態から、身体に与えられた拷問がどの程度のものであったか想像するのは容易かった。  よく覚えている。ミューを助け出すために、敵国の収容所を探して、見つけてすぐに兵を連れて押し入った。ミューは冷たい牢の中に力無く倒れ込んでいて。最初に見た時は、すでに息を引き取っているのではないかと生きた心地がしなかった。何度名前を叫んでも、ピクリとも動かなくて。ただ最後に見た時よりも痩せて細くなった体と、赤黒いもので塗れていたことだけしか分からなくて。牢の鍵を開けて中に飛び込んでもミューは動く気配が微塵もなくて。ただそれでも微かに浅い呼吸をしていた。衛生兵に早く診せないとと思って抱えようとした時に、引き裂かれた両足がやっと目に入った。一緒にミューを助けるためについてきていたみんなの青ざめた顔が同時に思い出される。  ミューの両足の腱は、乱雑に切り落とされていた。  ミューの傷はそれだけではなかったが、その赤黒さが強く目に焼き付いてしまった。その有様が信じ難くて、そこからしばらく動けなかった。傷跡は腱を切り落とすだけでなく、全身に渡っていた。鞭の痕、火傷の痕、刃を立てられた切り傷、単純な暴力の痕。虚ろな目の端の涙の線。そのどれもが鮮明に残っていた。これらがどれほどの痛みになるか、想像することも出来なかった。  ミューの足は腱を切り落とされてもすぐに処置をしていたら歩けなくなるほど酷くはならなかっただろう。ミューの手当てをしてくれた医者は、すぐさま接合手術をしていたら、障害は残っただろうがそれでも恐らく、歩いていたと、そう悲しそうに告げた。そうなれなかったのは腱を切り落とした後、適切な処置がなされなかったから。傷を得て数日、ミューの足は止血さえされず、放置され続けた。そのため、ミューの足は痛覚から逃げるために感覚を遮断してしまった。それから、ミューは歩けなくなった。感覚も戻らなかった。傷跡も、消えなかった。  あの一週間の拷問の記憶は、ミューの情緒を不安定にさせるにはあまりにも十分すぎた。ミューは、それだけのことをされていながら僕のことを何一つ話さなかった。何か一つでも口を開いていたら、もう少し楽だったかもしれないのに。ミューが狙われ、あんな目に遭わされたのは、僕のせいだ。ミューはそんなこと言わないけど、それでも自分を責めずにはいられなかった。  だからミューを助けたあの日、誓った。二度と危険な目には遭わせないと。  ああやって震えているところを見ると、どうしても思い出してしまう。あの日、牢の中でミューを抱き締めた時、ミューが震える唇で紡いだたった一言を。「ころして」と告げた、あの声を。  ……僕が君を守るから。例え君に憎まれても、部屋の中で縛りつけることで君にとっての悪役となっても、それでも。ただ、僕はミューを守りたい。それが僕がミューを外に出さない理由だった。

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