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第6話 Side:F

「……隊長、大丈夫かな」 「……大丈夫だよ、今はアイハがついてるから」  朝会に向かう途中、ノインは小さく漏らす。ミューを心配しているのは僕だけではない。あの日、僕と一緒にあの光景を見たからか、みんなもミューに関してはいつも気にかけるようになっていた。先ほどノインが外に出すように強く言わなかったのは、ノインもミューを外に出すことを心配しているからだった。腕を頭の上に翳されるだけで怖がって身を硬ばらせる。大きな声を聞くと肩を跳ねさせる。そんなミューを人目に出すのは不安だった。ミューのことをよく知らない誰かが何気なく接しただけで、もし嫌なことを思い出してしまったら。弱った姿を見せてしまったら。その姿を面白がるような奴が絶対にいないとは言い切れない。実際、城の中にはミューのことをよく思っていない人はたくさんいるのだから。  朝食や会議を済ませて、昼前には自室に戻る。部屋にも執務机はおいてある。城にいるときは出来るだけミューといられるようにするために運び入れた。部屋に入って見ると、ミューはもう目を覚ましていて、食べていなかった朝食をアイハと一緒に摂っていた。僕を見ると「おかえり」と微笑む。大分体は落ち着いたらしい。それに対して「ただいま」と笑い返して、ベッドに向かいミューの隣に腰を下ろす。 「冷めてない?」 「んーん、アイハがちゃんとあっためて来てくれたよ」  つまりアイハが朝食を持って来てくれたのだろう。何か盛られるのが怖いから、僕らの食事は以前からアイハが作っていた。アイハはあの日を境に減ってしまったミューの食事量と痩せた体を一番心配していた。アイハも忙しいだろうに、それでもミューにはちゃんと食べてもらいたかったのだろう。ミューは食事を残すような人ではなかったから、渡せば残すことはなかった。その分、自分から求めることはなくなった。腹が減らないのだろう。当然、動いていないから。 「隊長、晩ご飯、一緒に食べに来てもいいですか?」 「あぁ、いいぞ。一緒に食べた方が美味いしな」 「……! ありがとうございます! ノインも呼びますね」  アイハは自分の仕事のため、食事を食べ終わるとミューの分の食器も持って、部屋を後にした。食事の約束を取り付けてから。アイハとノインは同じ近衛兵といっても業務はそれぞれであった。だからいつも夕食の時間は合わなくて各々で摂り、ミューはいつも僕と一緒に食べていた。僕が遅くなるとミューも遅くなるし、僕が早くなるとミューも早くなる。仕方ないことではあったけど、昔はいつもみんなで揃って食べていたことからすると、寂しい思いをさせてしまっているだろうなと思っていた。今日は嫌な夢も見させてしまったし、気分転換にもなるだろう。  執務机に座って、机上にまとめられていた僕宛の手紙の封を開けていく。パーティの招待状、先の戦地の調査結果に異端審問官の承認状。パーティには行かないと何度も言っているのに。かさばっていく資料を眺めながら、ふと横目にミューを見てみる。ミューは枕に背中を預けて、ボーッと自分の足を眺めていた。それを見ていると、ミューをここに連れ戻した最初の日のことを思い出す。  僕の部屋のベッドで、ミューが目を覚ましたのは三日後のことだった。ベッドの上でゆっくり目を覚ましたミューを、つい大きな声で呼んでしまって。ミューは何度か瞬きをした後、僕の名前を呼び返してくれた。もしもこのまま目を覚まさなかったらなんて嫌なことを考えていた僕にとっては、久しぶりに聞いたその声が嬉しくて、言葉にならなくて、泣きそうになって。 「俺、またお前と戦える?」  その次にミューがこう続けた時、泣いてしまった。そう告げたミューの声が、震えていたから。聞いた時点でミューはもう気づいていた。自分の足がもう二度と動かないと。歩けないということは、同時にミューから軍人という生き方を奪った。二度と一緒に馬を駆って走れないということ、剣を振って前線に立てないということ。これまでの自分を、全て失ってしまった。そのとき、それまでの不安や堪えていたものが張ちきれてしまったのか、ミューも泣かせてしまった。僕はその時もミューが落ち着くまでそばにいることしか出来なくて、ミューが泣き疲れて眠ってしまうまで、傷だらけの手を握り続けていた。それから数日後、悪夢のせいで眠ることも出来ないミューはただ包帯の巻きついた両足を無感情に眺めていた。ただ静かに頰を光らせながら。自分と戦っているのだと分かった。傷を見ると思い出してしまう、自分の記憶と。感覚のないはずの足を見つめて「痛い」と言い出すこともあった。その頃と比べると今は涙も流さなくなり、少しは安定していたのだろうかと思っていた。しかし今日のような悪夢をまだ見てしまうということは、ミューの中では安定なんてしていない。あの日で時計は止まったままなのだろう。 「……ミュー」 「? なんだ?」  声をかけてみるとミューは顔をあげて首を傾げた。表情に曇りはない。いつからか、ミューはこうやって気丈に振る舞うようになっていた。足を見つめる行動になんの意味もないはずがない。  ミューは自分から外に出たいと言うことはなかった。ここにいても、暇でしかないだろうと僕でも分かる。それなのにミューがワガママどころか当然の要望すら言わないのは、それで面倒をかけると思っているからだろう。僕はいくらでもワガママを言ってもらいたいのに。弱音を吐いてもらいたいのに。ミューはいつも静かに泣いていた。怖いとも苦しいとも言わずに。それが余計にみんなを心配させているとも知らずに。 「んー……、ピクニックに行くなら、お弁当はおにぎり派? サンドイッチ派?」 「……あ?」 「どっち?」 「ピクニック、なら、サンドイッチかな?」 「だよねー」  ミューの眉間に皺が寄っている。僕もさすがに不自然だったかなとは思う。だけどアイハに聞いておいてくれと言われたんだ。何故かは僕も知らないけど。ミューはしばらく僕を訝しげに睨んでいたけど、すぐにまた視線を落とした。それからすぐまた僕を見る。 「なぁ、フィン」 「うん?」 「あれ、なんの本だ?」  ミューが指差した先には本棚がある。それはいつものことなのだけど、ミューが指しているのはその中の一冊。ミューがどれのことを言っているのか、椅子から立ち上がって本棚に向かう。ミューの視線の先にある本は最近僕が隣国から取り寄せた本だった。 「あぁ、これは……、秘密」 「え、なんだよ」 「秘密は秘密、どれか読む?」 「……いいよ、どうせ難しくてわかんないし」  ミューが拗ねてそっぽを向いてしまう。それから少し自分で腰を動かしてベッドに転がってしまった。ミューには悪いけど、この本はノインに頼まれて取り寄せた本。特にミューには言わないでと言われてある。後で渡しておかないといけない。机に戻る前にベッドに行って、転がっているミューの頬に口付ける。柔らかくて冷たい頬が触れるとむくれて不機嫌を表すのが可愛らしい。 「拗ねないでよ」 「拗ねてないですー」  首を転がして、反対を向いてしまうのに、拗ねていないことはないだろう。膨れた頬をつついてから、崩れた両足を動かしてあげて、楽に寝転がれるようにする。 「な、フィン」  机に戻ろうとした時、後ろからまた呼ばれて振り返る。ミューはこちらを見てはいなかった。その先はすぐには続かず、静かな時間が数秒だけ訪れる。 「……やっぱ何でもないや」 「……そう」  追及することは出来なかった。逸らされたミューの目が、暗いものだったから。何を告げられるか、怖くて。外に出たいと言われたら、どうすればいいか分からないから。そのまま机に戻って仕事を進めていると、ミューの静かな寝息が聞こえてきた。起こさないように立ち上がり、ベッドに回り込んで、眠るミューを覗き込む。穏やかな寝顔。それが今ここにあることが、どれだけ幸福なことか。 「……好きだよ」  小さく囁いてから、唇に触れるだけのキスをする。昨日つけたキスマークが、鎖骨の辺りに赤く残っていた。こんなことしても、ミューは僕のものになってくれるわけないとわかっている。それでも、手を離すとふっと消えてしまいそうで。怖かった。  僕のせいで失った未来。僕は代わりの未来を与えたかった。二度と君が傷つくことのない。そんな明日を与えたい。ただ、それだけなんだ。

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