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第1話

「では、今週の定例ミーティングをはじめます」 会議室に柴田(しばた)の声が響いて、緩んでいた空気がキンと冷えるような感覚がした。一週間に一度ある、各班のリーダーと所長の真中(まなか)と柴田が出席する定例会。その司会をやっていたのははじめの頃、所長である真中だった。ちらりと柴田が隣に座る真中に視線を移すと、今日のミーティングの資料を真剣に読んでいる横顔にぶつかる。いつだったか覚えていないが、ある日今日から柴が司会をやって、ととんでもなく適当に言われて、それに返事をしてしまってから柴田が司会をやっている。真中は単に自分の仕事を誰かに押し付けたかったのかもしれないが、その時は班のリーダーで定例会のただの出席者だった自分を敢えて指名してくれたことが嬉しくて、柴田は暫くそんなことも考えずに浮かれていたし舞い上がっていた。そうやって真中がひとつひとつ自分にくれる信用の名前が、柴田にはまるで宝物のように思えた。そんな幻想、今では抱いていたことすらおぼろげで忘却の彼方である。もっともっと現実的なことが柴田の前には山積みで、それをどうにかする毎日にただ追われているだけなのだ。それが寂しいような気もしたが、柴田は忙しい毎日を、それはそれで愛していた。 「では、次、前からお知らせしていた複合施設のラウンジの内装ですが」 言いながら真中が作ったらしい簡素な資料を捲る。余りやる気が感じられない、その文面を見ながら柴田は眉を顰める。捲ってから一番上に自分の名前が書いてあって、真中はまた仕事を自分に押し付けるつもりなのかと思ってふっと息を吐いた。ミーティングに出す前に一言声をかけてくれればいいものを。それが分かったのか、真中がちらりと此方を見たのが分かった。悪戯が見つかった子どもみたいな顔をして、もう40手前なのにそんな可愛げのない子どもみたいな顔をして、真中はぽんと柴田の肩を叩いた。 「真中さん、これ」 「堂嶋(どうじま)班中心に皆頑張ってくれ、柴お前ストッパーの役割な」 「・・・はーい」 勝手に真中が話を進めている。会議室の一番奥に座っている堂嶋を見ると、眉間に皺を寄せてあからさまに険しい顔をしている柴田と目を合わせると眉尻を下げて情けない顔をして困ったように笑っていた。会議中だったが溜め息を吐きたい気分になって、柴田はぐっと堪えた。 「あ、あとこれ、了以(りょうい)のクレジットもあるから、あいつがどこまで関わるのかよく知らんが、現場で見かけたらよろしく」 ふと真中がおまけにみたいに最後に付け足したのを聞いて、柴田ははっとした。良く見れば他の人間の名前にわざと埋もれるみたいにして、氷川(ひかわ)了以の名前が載っている。これには柴田だけでなく、会議に出ている者皆が吃驚したらしく、皆手元の資料に目を近づけて見直している。 「じゃあ定例会終わり、かいさーん」 いつものように間延びした真中の声が解散を告げ、それ以上は聞かれたくないのかそそくさと会議室を後にする。柴田は資料を掴んだまま、出ていく真中の背中を追いかけた。聞きたいことは山ほどある。真中は会議室を出たところにおり、柴田が追いかけてくるのを見ると、口元だけでにやりと笑った。分かってやっている顔をしている。柴田はそれを見て一層疲れたような気がした。 「真中さん、いいんですか」 「おう、頑張れよ、柴」 「じゃなくて、氷川さんの。相手だって真中さんが来ると思って・・・―――」 「俺はいいの、他に仕事もあるし、柴なら大丈夫、俺よりきっといいもの作れるから」 「そんな・・・」 肩をぽんぽんと叩かれて、真中はそのまま所長室に入って行った。似合わない爽やかな笑顔だった。真中はいつだって氷川を優先してきた。どんな仕事でも氷川のクレジットがあれば誰にも任さずに自分でやった。柴田がここの事務所に入ってから、変わったことは色々あったが、真中のそれだけは変わらなかった。柴田はそれ以上何も言うことが出来ずに、真中が入ってしまった所長室の扉を眺めていた。真中は変わろうとしている、何かが真中を変えようとしている、あれだけ頑なだった真中のことを。柴田はその正体を知っている気がしたし、真中が躍起になっていることも何となく分かっているつもりになっていた。誰に聞かせるわけでもなく、ひとりで溜め息を吐く。握ってぐしゃぐしゃにしてしまった手元の資料を捲っても、幾ら捲っても真中の名前がそこにないみたいなことに、自分も他の所員もきっと慣れる日が来るだろう、そのうち。 「柴さん」 「・・・堂嶋」 不意に後ろから声をかけられて、柴田は反射的に振り返った。堂嶋が困ったような顔をして、そこに立っている。堂嶋が持っている柴田と同じ資料は、何処も寄れていなくて綺麗なままだった。堂嶋の名前は柴田の次に載っていた。リーダーは彼だけであとは堂嶋の班の若い所員だった。真中がどうやって人選しているのか不明だが、そうやって抱き合わせで仕事をすることで、若い所員にも勉強させようということなのだろう、分かっている。堂嶋の班なのだから堂嶋ひとりに任せてもいいのだが、そこに柴田をわざわざ入れてくるあたり、真中はやはりどこかで氷川のことに蹴りをつけようとしながら、相変わらず心配はしている。そのための柴田なのだったが、柴田自身は真中のそんな思惑にはまだ気付けない。 「困ったことになっちゃいましたね、まさか氷川さんの案件任される日が来るなんて」 「・・・そうだな」 「名前だけ借りてて、本人は来ないってパターンだったらいいのになぁ」 氷川と仕事がしたくないわけではなかった、勿論カリスマと呼ばれた男の仕事に興味がないわけではなかった。けれどずっと真中のやっていた仕事を自分たちに急に降ろされたって困る、堂嶋が言っているのはそういうことだったし、それは全面的に柴田も同意見だと思った。それにしても一番頼りにしなければならない人間が、こうして同じ言葉で分かり合える堂嶋で良かったと柴田は思った。思ったところで気が付いた、おそらくもう自分はそれをやる気になっているのだろうということに。 「そうだな、とりあえずメンバー集めて会議できる日程組むか、後は現場に行く日とクライアントとの打ち合わせの日程決めて・・・。氷川さんがちゃんと関わっているならあの人多忙だからすごい日程絞って来るから、俺たちそれに合わせなきゃいけないし」 やると決めたらそのためにしなければならないことは山ほどある。柴田は仕事が始まる前の、このざわざわとした落ち着かない雰囲気とどんどん日程が黒で埋め尽くされている感覚が嫌いではない。自分はきっと死ぬほど仕事が好きなのだとぼんやり思う。だから真中がやや横暴に自分たちに仕事を押し付けてしまっても、半分以上文句も言わずに結局はそれに甘んじている。 「ほんと柴さんいてくれてよかった。ほんとなら俺そういうのやらなきゃなんですよねぇ・・・」 泣きそうな声で堂嶋が感心したように呟いて、柴田は思わず眉間に皺を寄せて険しい顔をしていた。するとそれに気が付いたのか、堂嶋があからさまにまずい表情を浮かべる。仮にも堂嶋は班のリーダーなのだ、基本的にはこういうことはいつもやっていることの延長に過ぎない。何も難しいことをやろうとしているわけではないのだ、おそらく氷川の対応だけ間違わなければ。 「お前がやるんだよ、何で俺がしなきゃなんないんだよ。取り敢えず俺は外的な日取りの調整するから、お前は班の連中と話合わせとけ」 「・・・はーい」 肩をすくめて堂嶋が返事をする。柴田はそれを視界の隅におさめるとくるりと堂嶋に背を向けて、自分のデスクに戻って行った。やることは山ほどある、その方が良かった、忙しい毎日に身を置いてさえいれば、煩わしい他のことを考える必要がないからだ。

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