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第2話

真中が急に可笑しなことを言い出したせいで、すっかり落ち着かない一日になったが、それもようやく終わり、柴田は帰路についていた。氷川の案件に真中は参加しないらしいということを聞きつけた所員が、皆同じような少し青い顔をして、真中さんどうしちゃったんですか、と柴田のところにいちいち聞きに来て、それに知るかと返答するというやり取りを何人と交わしたのか分からない。自分は真中の何だと思われているのか分からないが、所員は皆困った顔をして柴さんが知らないんならどうしようもないと肩を落として去って行った。ますます所員は自分を真中の何だと思っているのだろうと思って、柴田はそれを確かめたいような知りたくないような微妙な感情に、一時思考を奪われた。真実を誰にも教えてやるつもりはなかった、そんなことは働く上で邪魔な情報や感情でしかない。柴田は思う。自分だってそんなことを本当は、知りたくなどなかった。知らないでお気楽に無邪気にそしてただ純粋に、真中と仕事がしていたかった。 本当はそのことだけを考えていたかった、柴田だって。 柴田の自宅マンションは、事務所から少し離れた閑静な住宅地にあった。とにかく静かな場所が良いと思って探して住みはじめて3年目になる。近くにコンビニが一軒しかないことを除いては、特に不自由はしていない。地下の駐車場に車を止めると、柴田はエレベーターに乗り込んで腕時計に目をやった。ブランド物のそれを、いつ買ったのか覚えていないが、時計くらいいいものをと奮発した記憶はある。しかし柴田のそれは実はレディースだった。並べて見ない限り見た目には余り分からないが、同じブランドのメンズ物はもう少し骨太な印象のある時計だった。柴田も勿論それを買うために出向いたのだが、接客してくれた男性店員が、レディースの方がお似合いですよと言ったのと2,3万レディースの方が安かったので余り考えずにそれを買った。買ってから、背は決して低くはないが、ひょろひょろとして薄っぺらい体をしているのを、若干馬鹿にされたのかもしれないと思った。けれど重たいメンズの時計よりも、軽い付け心地がしてそれはそれでやはり店員の言う通りなのかもしれないとも思うのだった。ともかくその時その時計は12時手前を指していて、柴田は一応今日中に帰宅できたことに安堵していた。エレベーターを降りて部屋まで向かう廊下、自分の部屋の扉の前に誰かが座っているのが見えた。 「・・・(しずか)」 反射的に名前を呼ぶと、逢坂(おうさか)はまるで今気が付いたみたいな顔をして立ち上がった。さらさらと目にちかちかする金色の髪が揺れている。余りにも分かりやすい若さだと柴田はそれを目にするたびに思う。そして耳についているイヤホンを、まるで引き抜くみたいな乱暴な所作で取る。そこから流れているのは柴田にはきっと理解が出来ない音楽なのだろう。じゃがじゃがと煩いくらい音漏れがしている。柴田は溜め息を吐きながら、自分の部屋にひいては逢坂の方に近づいて行った。逢坂はにこにことして柴田のことを見ている。まるで幼稚園児が迎えに来てくれた母親を見るみたいな目線に、背筋が寒くなる。逢坂は柴田のマンションの近くにあるコンビニでアルバイトをしている大学生だ。ただのコンビニ店員だった彼が、どうして柴田の部屋の前に座り込んでいるのか、それを思い出そうとして考えた頭が痛い。 「侑史(ゆうし)くん、おかえり」 「・・・ただいま」 他に言うことがありそうだったが、何だかにこにこしている逢坂の顔を見ていると言う気が失せて、柴田はそれに簡単な言葉で返事をした。侑史というのは柴田の名前で、何故か逢坂は馴れ馴れしく柴田のことをそうやって名前で呼んだりする。何の因果でそうなったのか、柴田は思い出すことを放棄している。扉の前に立っている逢坂を無言で退けて、柴田は部屋の鍵を開けて部屋の電気を点けた。もう一度時計を見る。ぴったり12時だった。これはセーフと思って良いのか、アウトなのだろうか、一瞬迷う。 「侑史くん今日遅かったね、すっごい待ってたよ」 「あー・・・うん。最近仕事が」 「そればっかだね」 「っていうか、閑。お前いい加減部屋の前で・・・―――」 靴を脱いだところで言わなければならないことを思い出して、柴田は振り返った。部屋の前で座っている影を見た時、何故かゾッとした。自分が一人暮らしの女の子でないことくらい分かっているが、それでも余り良い気分がするものでもない。思った時にちゃんと口に出しておかないと、きっと自分は忘れるし、逢坂はまた同じように部屋の前に蹲っているに違いないと思った。しかし振り返った時に、逢坂が余りにも近くにいたので、驚いて柴田は思わず言葉を切ってしまった。柴田の時計が巻かれている手首を逢坂がすっと掴んで、背筋にまた悪寒が走る。 「んっ・・・ぁ」 やや強引に壁に追いつめられて、そのまま唇が塞がれた。眼鏡のフレームが顔に食い込んで痛い。 「おかえり、侑史くん、ずっと待ってた、よ」 耳元で逢坂が低く囁いてぎゅっと体が強い力で抱き締められる。柴田はそれをぼんやりと聞いていた。体は連日の労働で疲れ切っている、頭も今日は沢山使ったから動くのがどんどん鈍くなっている。眠い、逢坂の腕にがっちり抱き締められながら、柴田は黙って考えた。 「声が聴きたい、抱きしめたい、キスしたい、セックスしたい」 「・・・うち何個か勝手にやってるだろ・・・」 唇の端から嘲笑が漏れるみたいに零れる。きつく抱かれていた腕が解かれて、逢坂がまた顔を覗き込んでくる。そのままキスをされて、柴田はぼんやり眼を開けたままそれに応えた。彼は此処で何時間くらい待っていたのだろう、コンビニのバイトが終わるのがいつも大体10時くらいで、それからだったら2時間くらいだろう。けれど今日バイトに入っていたのか分からない、大学の後、何もなかったかもしれない。だとしたら一体何なのだと、柴田の頭の中の冷静な部分が問う。だとしたら一体何なのだろう、そんなことを考えてどうするつもりなのかよく分からない。逢坂がキスをする角度を変えて、後頭部が壁に当たった。痛い、柴田は何も言わずに、無論言えるような状態ではなかったが、眉間に皺を寄せた。ややあって唇が離れる。 「・・・閑、俺ホント今日疲れてて」 「侑史くん仕事しすぎなんだよ、もっと早く帰ってきて。そんで俺とセックスしよう」 「あー・・・とにかく今日もう無理、早く寝たい。明日も朝はやいし」 「でも疲れてる侑史くん俺好き。目がとろんとしててえろいから」 「なぁ話、聞いてんの?」 逢坂の腕を掴んでそこに爪を立てるようにすると、逢坂は嫌がるばかりか少し嬉しそうな顔をして柴田を見下ろしたので、いろいろ逆効果だったと思って柴田はすぐさま手を離した。逢坂は俯くようにしてくくっと笑いを漏らして、柴田の首筋に唇を寄せた。そしてきつく吸われる。いつになったら部屋の中に入れるのか、柴田は半分くらい絶望しながら考えた。 「・・・なぁ、閑、ほんと今日は」 「そんなこと言ってたら、侑史くん全然させてくれないじゃん」 「他の奴としろよ」 「嫌だ、俺は侑史くんが良いの、侑史くんが好きだから」 「・・・なにそれ」 一応これでも会話はさっきより噛み合っているのだろうか、柴田は考えてみたがよく分からない。逢坂はまだ二十歳を少し過ぎたばかりで、余りにも若い、若すぎて時々その若さに目眩がするほどだ。一回り近くも歳の離れた男と、一体自分は何をしているのだろうと思うことがないわけではない。10回に1回くらいは冷めた頭で柴田だって考えている。けれど仕事にならないとうまく働いてくれない頭も、面倒臭いことは後でいいかと思ってしまう癖も、この歳まで引きずってしまったらおそらくもうなおらない。 「なにそれってそのままの意味だよ」 「・・・あ、そ」 自分の声が酷く冷たく響いた気がした。

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