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沈めておくれ群青と Ⅲ

「あのね、侑史くん、俺ね、俺今凄い幸せなの。侑史くんが俺の恋人になってくれて。扉をちゃんと開けて迎えてくれて、抱き締めてもキスしても怒られなくて。引っ付いても嫌がられなくて。だから今は、それでいいんだ」 「・・・なんだよそれ」 「ごめんね。俺の独りよがりなの分かってるんだけど。でもこれ以上侑史くんのことを欲しがったら罰が当たりそうなんだもん。今はこうやって侑史くんと一緒に居られるだけで、俺は凄い幸せなんだよ」 「・・・―――」 そうやって笑う逢坂のことを見るたびに、どうして胸の奥が痛くて堪らないのだろう。逢坂の手が懲りずにまた伸びてくる。一回や二回振り払われたくらいで、この男が諦めないことは良く知っていた。また正面からぎゅっと抱きしめられて、どんな表情をしているのか見えない分、まだマシなのかもしれないと考える。逢坂が一緒に居るだけで良いと思うように、そう思うのと同じように、どうして自分は思えないのだろう。そしてまたちりちりと罪悪の気持ちが柴田の心臓の裏で燃えるように広がる。すると逢坂が急に腕を解いて、柴田の肩を掴んで顔を下から覗き込むようにした。目はいつになく真剣だった。 「でもどうしてもって言うなら・・・侑史くんがどうしてもしたいんなら俺も・・・考えるけど」 「・・・はぁ」 「あー・・・でも、ローションもゴムも持ってきたかな・・・今日」 「・・・いいよ、もう寝よう」 首を捻って真剣に悩み出した逢坂の頭をぽんぽんと撫でて、柴田は布団を捲ってベッドに入った。セフレだった頃の逢坂は、一体何処にどう隠し持っているのかと柴田が不審に思うほど、いつだって準備万端だった。やっぱり逢坂は変わったのだと柴田は改めて痛感した。逢坂が本気でそんなことを言っているのだと思うと、何だか柴田はとてつもなくどうでもいいことを自分が悩んでいたような気がして、やはり少しだけ恥ずかしくなった。ややあって逢坂もベッドに入ってくる。ふたりでこんなふうに並んでただ眠るだけの日が来るなんて、あの頃の自分はきっと考えたことがなかったのだろうと、薄闇に目を細めて思う。 「あのね、侑史くん」 「んー・・・なに」 「もしかして何かあったの?まなかさん・・・と」 「真中さん?なんで」 くるりと首を回して逢坂のほうを見やると、思ったより近くで逢坂は柴田のことを見ていた。暗闇に目の表面だけが濡れて光っているように見えた。 「だって侑史くんしたがる時、絶対何かやな事あった日だったから」 「・・・あー・・・」 確かに、柴田から誘ったことは数えるほどしかなかったが、ひとりでいるのが耐えられなくて、空白の時間を何でもいいから埋めて欲しくて、逢坂に声をかけていた。逢坂といれば何にも考えずにいられたから、その場凌ぎでしかなかったけれど柴田にとってはそれが全てだった。 「ないよ、何にも」 「ほんとに?」 「ないない。ただお前が何にもしてこないから、ちょっと俺も不安になったって言うか、なんか・・・」 それに続く言葉を考えて、柴田は息を飲み込んだ。何と言うつもりだったのだろう。不意に空恐ろしくなる。自分でその後の言葉を考えていると、左手をきゅっと握られて、見やると逢坂がまた幸せそうに笑っていた。目を反らしたくなる。 「侑史くんもそういうこと思ったりするんだ、嬉しい」 「・・・俺は全然嬉しくない・・・」 「はは、なんで」 逢坂が笑ってベッドが揺れた。握られたままの手が引き寄せられて、逢坂がその手の甲にキスをする。そんなことでいいなんて、そんなことくらいで満足だなんて、何度言われたって多分、柴田はそれを信じることができないだろうと思った。 「あのね、侑史くん」 「なに」 「俺ずっと思ってたんだけど、今まで侑史くんがやなこととか色々、してごめんね。ぐずぐずに疲れて起き上がれないくらいまでやり倒したこととか、あったじゃん」 「・・・あー・・・あったな、そんなことも」 「ごめんね、もう無茶なことしないから。もうちょっとこの幸せ噛み締めたら、またセックスしよ」 「・・・あー・・・うん」 噛み締めているのはお前だけだけどなと、言いかけて柴田はそれを飲み込んだ。握られたままの手の甲に、また逢坂が唇を寄せる。 「あのね、俺。セフレの時、ほんと毎秒、独占欲と嫉妬の塊みたいでさ。侑史くんが他の男のこと考えてるのがほんとに許せなくて」 「だからああいう無茶なセックスしてたの、ごめんね。やってる時は侑史くん俺のことだけ考えて、俺のことだけ感じてくれるでしょ。それが嬉しくてさ」 「ごめん。ほんとはもっとはやくに謝りたかったんだけど、何て言っていいか分かんなくて。侑史くんに呆れられるのも怖かったし」 「だからそういうのもあって、今は良いやって思ってるのかも。でも侑史くんが俺としたいって思ってくれてるの分かって嬉しかった」 「本当に毎日、侑史くんと一緒にいると、俺、嬉しいことばっかで。なんかいつも、本当に、泣きそうなくらい幸せなんだ」 「侑史くん、俺、侑史くんのこと、大好きだよ」 燃えるように熱かった。逢坂が笑って口づけた手の甲の骨の部分も、心臓の奥も。燃えるように熱くて、堪らなく熱くて、柴田はそれをどう処理したらいいのか分からなかった。そこで笑う逢坂に他意はないのだろうと思う。言葉は言葉以上の意味を持たず、またそれには裏も表もない。それが少し怖いと思った。柴田は逢坂が握っている自分の手を引いて、今すぐ自分の所有に戻したいと思った。だが一方でそう思っていることが、絶対に逢坂には伝わって欲しくないと思った。そういう逢坂の重たい深すぎる愛情を、柴田は受け入れるだけの準備がまだない。まだないけれど、逢坂のそれに応えなければと思って、今までと同じ分かりやすい方法を手繰ってしまうのだろう。それが代償だと思っていたりするのだ、まだ。だから未だに優しく笑う逢坂のことを直視できなくて、視線を反らして別のことを考えているふりをしている。逢坂がどうでもいいことを幸せと呼ぶのを見つけるたびに、胸の奥の罪悪感が広がって熱くて痛くて堪らないでいるのだろう。 (しずか、俺は、お前と同じ、気持ちじゃない) (お前が思っているほど、俺はお前を思ってやれない。その代わり、セックスくらい好きにしたらいいって、思ったんだ) (それは多分、俺が、お前に罪悪感を覚え続けるのが、嫌だったからで。だから、独りよがりは、俺のほうだ) 胸の痛みの正体に気付かされても、それを逢坂に告げるだけの勇気を持てずに、柴田はただすっと逢坂から視線を反らした。卑怯だと思いながら、柴田はそれに応える方法を知らない。握られていた手から力が抜けて、ゆるりと逢坂の手の温度が離れる。柴田はその頃になってようやく、もう一度逢坂の方をそっと見やった。眠たい目をして逢坂は此方を見ている。 (ごめんな、しずか。俺もお前と同じ気持ちだったらいいのに) 見る間にとろんとしてくる逢坂の目を暗闇の中で見ながら、柴田はひとりで考えた。手を伸ばしてそっと頭を撫でるようにすると、逢坂はぼんやりした目のまま、口角だけを器用に上げた。逢坂の喜ぶ顔を、自分ももっと幸せな気持ちで見ていたいと思った。そうやって無邪気に笑う顔は可愛くて好きだったから。こんな罪悪感塗れの嫌な気持ちで、向かい合っていたくはなかった。未だに真中の名前を呼ぶ時に、逢坂が震えたりすることが自分のせいだなんて、知りたくなんてなかった。 (俺はもっとしずかのことを、知るべきだった) (今までできなかったことをもっとしよう。もっとふたりで話して、ふたりで色んなところに行こう。そうしたらきっと) 逢坂の目蓋が閉じられている。柴田はそれを見ながら、自分の手に乗せられただけの逢坂の手をぎゅっと握った。そして先ほど逢坂がやったように、それを引き寄せて、手の甲の骨の出ている部分にそっと口づけた。逢坂は微動にしないで眠っている、柴田は少しだけほっとした。 (俺もしずかの言ってること、半分くらいは分かるようになりたい) 夜が段々深くなって、周りの闇の色が濃くなる。そんなことを感じながら、ゆるゆると逢坂の隣で目を閉じる、そんな日が来るなんて思っていなかった。これが逢坂が笑って呟く、幸せのその色なのかどうか分からない。柴田には分からなかったけれど、そうだったらいいのにと思いながら、柴田もゆっくりと眠りに落ちて行った。朝、逢坂より先にきっと柴田は目が覚める。逢坂は眠い目を擦って起き上がり、おはようときっと言うから、そうしたら笑ってそれに、おはようと言うのだ。そういう簡単な単純なことの積み重ねを、もう一度ふたりではじめて。そういうことが続いていくことは、きっと悪いことじゃないだろう。 fin.

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