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沈めておくれ群青と Ⅱ

逢坂が夕食の片づけをしている間に、柴田は風呂に入る。出てくると片づけが終わったのか、逢坂はテレビの前に座ってぼんやりとテレビを見ていた。柴田は頭を拭きながらその後ろ、ソファーに座る。逢坂が振り返って、無言のままにこっと笑った。 「・・・なに」 「なんで離れて座るの、侑史くん」 「なんでって別に・・・理由はないけど」 「じゃあこっち来てよ」 微笑む逢坂に何となく嫌な予感を感じながら、柴田は言われるままソファーから降りて逢坂の隣に座った。テレビが近い。しかし眼鏡を外して視界がぼやけている柴田には、丁度いいくらいの近さだった。隣の逢坂がずずっと後ろに下がって、柴田の後ろに回るとそのまま抱き締められた。俯瞰で見るとひどく恥ずかしいような気がするから、柴田は出来るだけ当事者でいようと思ったけれど、後ろから逢坂が首筋に顔を埋めるようにしてきて、それも余り上手くいかなかった。 「しず、くすぐったい」 「はは、お風呂上がりの侑史くん良い匂いするね」 「・・・あー・・・お前も風呂入ってこいよ」 「うん、もちょっとこうしてから入る」 首筋に顔を埋めたまま逢坂が笑って、またくすぐったいと思ったけれど柴田は黙っていた。黙ってテレビを見ているふりをする。こんなこともしたことがない、柴田はまた考える。そして本当に逢坂とこの部屋でしていたことはセックスだけなのだと実感する。後ろから抱き締められたら、もうそのままいつも引き摺り倒されていた。それもそれで困ったことではあったけれど、分かりやすくて良かったのかもしれない。今は逢坂が何を思っているのか考えているのか、時々分からなくなる。こんな風に後ろから抱き締めて満足しているなんて、まさかそれだけでそんな幸せそうな顔が出来るなんて、柴田にはとても理解できなくて、やはりこんなことはフェアではないと思う。それを本人に尋ねて良いのかどうなのか、また彼を傷つけることになるのではないかと思って柴田はそれを思案するものの、なかなか実行には移せないでいる。 (いいのかな、このままで。まぁやりたくなったらしずのほうから言ってくるよな・・・まさかいつまでもこのままってワケじゃ・・・) 考えて、ゾッとした。何となく今の逢坂の様子を見ていると、ずっとこんな風に続いていくのではないかと思って、柴田はその薄ら寒い想像に、背筋が凍るかと思った。慌てて体を捩ると、そんなにきつく抱かれていなかった体が、簡単に逢坂から離れる。くるりと振り返ると、逢坂は急に柴田が動いたので、やり場のない手を中途半端に浮かせてそこでぽかんとしている。 「どうしたの・・・侑史くん」 「お前、ちょっと、風呂、入ってこい」 「え、何で急に、もうちょっとぎゅっとさせてよ」 「いいから、フロ!」 なんでなんでと煩い逢坂をバスルームに押し込んで、柴田はひとり決意を固めた。このまま逢坂にずっといい顔をされているのも、何となくくすぐったくて痒い気がするし、それに何より、柴田のほうが今の微温湯みたいな距離感や空気に耐えられないでいた。 (考えるのも面倒くさい、もう、今日やるぞ、閑が出てきたら、今日する。それで、もう、考えるのもやめだ) はぁと小さくため息を吐いて、なんでこんなことで頭を痛めたり、少し緊張したりしなくてはいけないのだろうと思った。こんなことはふたりでしてきたことと何にも変わらないはずなのに。バスルームの中からシャワーの音が聞こえてきて、柴田は踵を返して部屋に戻った。今までは家に帰って満足にお風呂に入る間もなく、逢坂に弄ばれていて、こんな風にきちんとお風呂に入る時間があることすら、そう言えば今までにはなかったことなのだと柴田は考えながら、寝室に入ってベッドの上に座った。昨日までなら風呂から出てきた逢坂は、先にベッドに入っている柴田のことを緩く抱きしめるようにすると、おやすみと呟いて額にキスをする。そしてそのまま何にもしないで目を閉じる。先日まで仕事がまた立て込んでいたので、顔色の悪い自分の体調を気遣ってやっているのかと思っていたが、どうやらそうでもないらしいと自棄に満足そうな逢坂の顔を見ながら気付かされたのは、本当にごく最近のことだった。逢坂は文字通りそれでいいのだ、それで満足しているのだ。 (・・・そんなことあるか) 「侑史くんどうしたの?」 呼ばれて顔を上げると、逢坂が傍に立っていた。いつの間に出てきたのだろうと思う。いつも先に眠っているからなのか、ベッドの上に座ったままの柴田のことを、不思議そうに見下ろしている。こんな風にふたりで向き合う時間なんか、今までの逢坂はくれなかった。本当に向かい合っていられたのは、食事をしている時くらいのものだった。何と言って良いのか分からなくて、柴田は困った。自分から誘ったことだって、何度かあったような気がするが、それは真中との間に何か嫌なことがあったからで、精神的に参っていたからできたことでもあった。何と言えばする気になるのだろうと薄闇に立つ逢坂を見上げる。 「・・・ぎゅっとすれば」 「え?」 「もうちょっとしたかったんだろ、すれば」 柴田の無愛想なそれを聞くと、逢坂はまた柔和に微笑んで、床に膝を突くとベッドの上に乗っている柴田のことを正面から抱き締めた。そういう裏に別の感情が潜んでいない微笑に、柴田は胸を詰まされ続けている。ぐらりと不安定な体はバランスを一瞬失ったが、後ろ向きに倒れる前に逢坂に立て直される。そのまま倒してくれても構わないのに、柴田はぼんやり考える。 「侑史くんそれで起きて待っててくれたの?」 「・・・あー・・・うん」 「そう、嬉しい」 そう言って逢坂が笑うのに、また心臓が痛くなる。そんな顔して笑うのはやめて欲しかった。柴田も何故こんなに逢坂に対して罪悪の気持ちでいっぱいになるのか分からない。けれど逢坂がそんなことで満足できるくらい、抱き締めたりキスしたりすることだけで満足できるくらい、自分のことが好きでいてくれることを受け止めることが上手く出来なくて、それ以外の方法をただ探っている。 「しずか」 「なに?」 「服脱いで、したい」 「・・・―――」 何か言うかと思ったが、逢坂は何も言わずにただ柴田を抱く腕に力を込めただけだった。そしてそのまま沈黙して動かない。 「・・・オイ、しず、聞いてんのか」 「うん、聞いてる」 「じゃあちゃっちゃと脱げよ、するぞ」 恥ずかしさも相まって、柴田は逢坂の寝巻代わりのTシャツを引っ張って脱がそうとしたけれど、逢坂の腕ががっちり自分をホールドしているので、Tシャツは少し捲れ上がっただけだった。逢坂は全く柴田を離す様子がなく、服を脱ぐ気配もない。柴田はTシャツを引っ張った手をどうしたらいいのか分からず、諦めてベッドの上に戻した。嫌な予感は続いている。 「侑史くん、ごめん、俺今日、そういう気分じゃない」 「・・・はぁ?」 俯いたまま逢坂が呟く。柴田はそれに反応するのがやや遅れた。 「・・・ごめんね」 するりと腕を解かれて、逢坂が小首を傾げる。ベッドの上に乗っているだけ、柴田の方が視線が高い。それに何と言って良いのか分からなかった。まさか逢坂にこんな風に拒否されるとは思っていなかった。何か言わなければと口を開けたが、喉の奥で息がひゅうと鳴っただけだった。逢坂は困ったようにフリーズする柴田を見て、それから手を伸ばして柴田の首の裏側を撫でた。優しい手のひらだった。柴田は急に恥ずかしくなって、そして多分拒否された怒りもあって、逢坂の手をほとんど無意識に振り払っていた。 「なんなの、お前」 「・・・侑史くん」 「前はあれほどセックスセックスって煩かったのに、付き合ったらもうそれでいいのかよ」 「ごめん、怒んないで」 困った顔をして逢坂が見上げている。これでは自分の方がしたいみたいだと思って、柴田は考えた。自分が逢坂とセックスをしたいのはどうしてなのだろう。

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