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沈めておくれ群青と Ⅰ

最近、逢坂は様子が可笑しい。 「こんばんは」 「・・・おう」 扉を開けると逢坂がにこにこした笑顔で立っていた。セフレの時は幾らもう家の前で待っているなと釘を刺しても何の効果もなかったが、いざ付き合うとなってみると、逢坂は何故か分からないがぴたっと柴田の言うことを聞くようになって、部屋の前で蹲っていることを止めた。柴田の帰りが遅い時、何処でどう時間を潰しているのか知らないが、連絡をすると割とすぐにやってくるから、きっと近所にいるのだろう。柴田は扉を開けて逢坂を迎える瞬間、何故だかは分からないが、少しだけ恥ずかしいようなくすぐったいような気持ちになる。にこにこ笑っている逢坂のことを直視できなくて、何となく視線を反らしているのもそのせいだ。特に何にも変わったところはなかったはずだと柴田は思っていたけれど、例えば柴田の言うことを素直に逢坂が聞いたりするみたいに、そういう意味では少しずつふたりの関係にも変化はあったのかもしれない。必ず視線を反らす柴田のことを、逢坂は必ず玄関口でぎゅっと抱きしめて、にこにこしたまま唇にキスをする。そしてまた何かを確かめるように逢坂がぎゅっと自分を抱くのを、柴田はぼんやりしながら受け止めている。 「侑史くん、今日早かったね」 「あぁ、この間仕事が一段落したから、暫く暇、かな」 「そっか。侑史くんの暫くって信用なんないけど」 笑いながら逢坂が廊下を知ったように歩いていく。その背中を追いかけるようにしながら、柴田は少しの違和感を引き摺るように頭の隅に追いやった。目の前を歩く逢坂が扉を開けて部屋に入ると、くるりと振り返った。急なことで柴田は吃驚して動きを止める。 「侑史くんが仕事から帰って来るの早いと、侑史くんといっぱい一緒に居られて嬉しい」 そう言うと逢坂は目を細めて、まるで眩しいものを見るみたいに柴田を見る。そしてさっき離したばかりなのに、もう一度手を伸ばして柴田のことをぎゅっと抱きしめる。柴田は小さく溜め息を吐いて、暫くは逢坂のしたいようにさせてやっている。ちらりと逢坂の横顔を見やると、そこで酷く幸せそうに笑っているので、柴田は何となく胸が詰まされるような妙な気分がした。 (・・・今日は普通・・・かな) 黙ったまま考えていると、すっと逢坂が腕を離した。そして柴田と目を合わせると、また人好きのする顔でにこっと微笑んだ。 「何か食べた?」 「あー・・・ヨーグルト、食べたよ」 「そんだけ?じゃ、俺なんか作るね」 少しだけ眉尻を下げて、逢坂が柴田のそれを聞いて仕方ないみたいな顔をする時だけ、柴田は立場が下になる。逢坂が張り切った様子でキッチンに向かうのを、柴田は後ろから眺めていて少しだけまた息を吐いた。ふたりの関係はほんの少しだけ変化をしたけれど、こうやってふたりで部屋の中で向き合って話していると、何にも変わっていないような気もする。けれど逢坂の様子が最近可笑しくて、柴田はそれが気になって仕方がないのだが、本人に面と向かって聞くに聞けないでいる。 (アイツ、セフレの時は口開ければセックスセックスって言ってたけど・・・言わなくなったな、最近) 逢坂がご飯を作っている間、柴田は暇なのでテレビをつけて、仕事の勉強や予習も兼ねた雑誌を読んでいる。リビングから逢坂の背中だけが見えて、今日も何やら凝ったものを作っているらしい。柴田はそれを見ながら、また溜め息を吐いていた。口を開けば逢坂はそれしか言わなかったので、そうじゃない時の逢坂と一体何を話していたのか、柴田の記憶にはあまり残っていない。付き合うことになってから2週間が過ぎ、その間に逢坂は何度か柴田の家に訪れた。いつものようににこにこ笑って柴田を抱きしめキスもするけれど、それだけだ。それ以降のことは何もしない。何もしないし、何も言わない。はじめの頃はそんなこと気にならなかった柴田だったが、2週間も続けば流石に可笑しいことに気付いた。気付いた後は、逢坂と一緒にいる時はそのことばかりが気になって、何にも集中できないでいる。つけっ放しのテレビも見始めた雑誌もほったらかしにして、結局キッチンにいる逢坂の背中ばかりを見ている。そんな自分に少しだけ嫌気が差して、柴田は溜め息を止めることが出来ない。 (釣った魚に餌はやらないタイプなのか・・・?でも相変わらず俺のことはすげー好きみたいだけど) だから余計に分からない。全て露見した今、逢坂はその深すぎる愛情を、隠すことなく晒し始めたので、柴田は時々逢坂が自分を見る目が酷く深い愛情に満ち満ちていて、それはそれでゾッとすることがある。今までは逢坂が呟く好意にはいつもセットみたいに性欲が張り付いていて、だから柴田はその好意のことをあんまり深く考えたことがなかった。それより性欲が先行していて、考える余地がなかったのもある。それは逢坂が意図的にやっていたことだが、こうして改めて考えてみると、それはそれで上手く出来ていたものだと柴田は感心するみたいに思う。自分でも言っていたけれど逢坂は決して馬鹿ではないのだろう。けれど先行するものがなくなった今、取り繕う必要がなくなった今、逢坂が柴田に向かって呟くのはいつも深すぎる愛情、ただそれだけになってしまった。柴田はやはりそれを受け止めるだけの自分の器量がないことを、まるで純粋に呟く逢坂相手に少しだけ申し訳なく思ったりする。にこにこ笑っている逢坂は、全くそんなこと気にしていないようだったが。 (受け止めることも出来ないのに、セックスだけはしたいなんて、俺は全く変わってない。やっぱりこんなの、閑に失礼・・・) 「侑史くんできたよー、食べよー」 はっとして声のしたほうを見やると、紺色のエプロンをつけた逢坂が、笑顔で手招いている。考えている間に、時間は思ったよりも経っているようだった。雑誌を置いてテレビを消すと、柴田はゆっくり立ち上がった。そうやって逢坂が柴田のあれこれを心配して、色々手の込んだものを作ってくれることも変わっていない。ふたりの間には変わったことよりも、変わらないでいることの方が多いのかもしれない。だったらいっそ関係に名前が必要だったのか、柴田は逢坂の座る正面の椅子を引きながら考える。今日はクリームシチューだった。正面に座る逢坂が柴田のスプーンを無言で手渡してくる。 「さんきゅ」 「いーえ」 にこにこしたまま逢坂が手を合わせる。柴田はそれを食べながら考える。さっきのお礼はスプーンのお礼で、ご飯のお礼は別に言わなきゃならないと考える。そうやってひとつひとつ何かされたことに対して代償を支払って、常にフェアでいないといけないのは何故なのだろう。

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