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【番外編】けっこうな御点前です 其の一
私は人間が心の底から嫌いだ。
奴らは身勝手で、強欲で、平気で自然を破壊して掟を都合良く捻じ曲げ生き物を殺す。
私がまだ人の世で生きていた頃、私はとある山の主 と呼ばれる大きな鹿だった。私は長寿だったのだ。人の世には稀にやたらと長生きをして力を手に入れてしまう生き物がいる。
猫又などがそうだ。
長生きをして、主と呼ばれても所詮は獣。
守られていた狩猟期間を人間が勝手に破り、木を切り倒し、山が殺されていくのを私は止められなかった。
春先、数人の密猟者が山に入り若い鹿を何頭も撃ち殺した。そいつらは自分達が撃ち殺した雄鹿の角が小さいとケチをつけ、その死を悼む事も、その肉を食用にする事もなくその場に打ち捨てて下山した。
心底、私は人を憎み人の世に厭気がさした。その時、無何有郷 への道が目の前に開け、私は訳も解らぬままに、この世とおさらばできるのなら文句はないとばかりに暗い靄 の中を振り返りもせず進んだ。
人間のまるで神にでもなったかのような傲慢さには全くもって反吐が出る。
人間とは皆そうだと思っていた。
深海 という人間に会うまでは。
和子 様から伴侶と聞かされて、当然猛反対した俺を、深海という人間は一瞬睨んだのみで、すぐに和子様の事だけを気にかけ始めた。
そして迷いもせず和子様に帰れと言ったのだ。
別れたくない、などとは一言も言わない態度に、所詮はやはり人間だと思ったのだ。伴侶などと思っているのは和子様だけでこの男は痛くも痒くもないのだと。
しかし、違った。
和子様と同じように泣き、胸を押さえ痛みに耐えながらも、和子様に言い聞かせ、深海は私の名を呼んで和子様を連れて行けと訴えたのだ。
和子様を抱えた腕からでさえ魂を引き裂く痛みを感じた。
郷 に帰ってからも深海と言霊の遣り取りを嬉しそうにする和子様を見て、私は上手く消化できぬ澱を胸に溜めたのだ。
「……不味いです、か?」
不安気な様子の深海……伴侶殿に振る舞ってもらった“こぉひぃ”という黒い飲み物。
香は良い。なかなかに芳しい。
苦味と酸味、わずかに甘味も含んだそれは外見の悪さでずいぶんと損をしているように思えた。
「苦い? 苦かったらね、お砂糖を少し入れると良いよ! ね? 深海」
「あと、牛乳を入れるとまろやかになりますよ」
砂糖を匙二杯と牛乳を入れたこぉひぃをもったいないから、とゆっくりと味わって飲む和子様を愛おしげに見つめる伴侶殿は何も入れていないこぉひぃを自分の前に置いた。
何も入れずに飲むべきか?
和子様に倣って砂糖や牛乳を入れるべきか?
「……まずはこのまま」
「ね? ね? 美味しい? 美味しい?」
「ルナ、そんなに聞いたら尾白さん落ち着いて飲めないよ?」
「あ。そか。ごめんね、尾白……」
伴侶殿にたしなめられて、しゅんと眉を下げた和子様は伴侶殿に頭を撫でられるとすぐに機嫌を直して、目を細めて喉を鳴らしてこぉひぃを飲んだ。
「雪江さんと紅蘭 さんは?」
「休憩所の改装で職人さん達と相談中のようです」
「そう! ムダになる木は少ないね?」
「ええ。もちろん。建築資材として使えない木からは盆や皿などを作ろうかと」
「良いね! それ! 賛成!」
「俺達もその盆とか皿とか、使わせてもらえますか?」
「もちろん」
この男には欲がない。
神桃を口にした時も力を望まず、ただ和子様と生きたいと願っただけ。
あれが欲しいこれが欲しい、あれが食べたいこれが食べたい。
そんな事は言いもしない。与えられる物をありがとうございます、と微笑んで大切そうに腕に抱く。
ほとほとこの男には驚かされる。私の中の“人間”を覆す。
「伴侶殿、私の事は呼び捨てにしてもらってかまいませんよ?」
「え、でも……どう見ても尾白さん歳上だし……」
「ならば、前からお伺いしたかったのだが……伴侶殿は、私を恨んではおられぬか?」
あの日無理矢理に引き剥がした痛みが私の中には未だに存在するのだ。
憎いと言われても仕方がないと思っている。
「へっ? 恨む? とんでもない! あの時尾白さんが間に合ったからルナは消えずにすんだんでしょ? 今ルナと一緒にいられるのは貴方のおかげだから……」
恨みませんよ、と伴侶殿は微笑んで和子様の頭を撫でた。
「それに貴方は覚悟して五人目になろうとしてくれた……俺はすごく嬉しかった」
「ん。その出番は俺が取った! へへっ!」
得意そうな和子様は伴侶殿に身体を預けて、ちびりちびりとこぉひぃを飲んでいる。
私のこぉひぃは既にない。気付けば飲み終わっていた。
「お代わり、淹れましょうか?」
「いや、しかし……」
和子様や守護の皆様のお気に入りだと聞いている。そのような貴重な物を私などが……。
私の躊躇 いを笑顔で受けた伴侶殿はスッと水を勧めてきた。
「じゃあ雪江さん達が来るまでは水を飲んで胃を休めてください。コーヒーって飲み過ぎると胃が荒れるんですよ。慣れないと特に。だから水を飲んでください」
なるほど。
だからこぉひぃの横に水が置いてあったのかと伴侶殿の気遣いを私は初めて知った。
「深海、今度またお菓子を焼いて? こぉひぃと一緒だときっと美味しいよ」
「良いよ。紅蘭さんに厨房を借りよう」
伴侶殿は和子様の為に菓子まで焼くのか!
聞けば菓子だけではなく、たまに料理も作るという。
「尾白にも食べて欲しい! 甘くてふわふわしてて、すごく美味しいから」
ねー! と伴侶殿に笑いかける和子様に
「失敗したら真っ黒焦げでカチカチだけどな!」
と伴侶殿は朗らかに答えて既に温くなったこぉひぃを一気に飲み干した。
私は水で口の中の苦味と渋味を消しながら、在るべき形となった御魂を心から美しいと思い、一人頬を緩めた。
「紅蘭があのお菓子の作り方を知りたいって」
「えー緊張する! 直感で混ぜて、直感で焼くの! で、直感で裏返すの!」
「だから深海はたまに真っ黒焦げにしてしまうのだな!」
「そうかも!」
眉根を寄せた伴侶殿に鼻を摘まれている和子様。じゃれ合う二人に
「それはなんという菓子ですか?」
と声をかければ。
「けぇき!」
「……みたいな物」
幸せそうな笑顔が答えを返してくれた。
初耳の“けぇき”。
それはとても甘くて優しい味がするのでしょうな。
この尾白、多くは望みません。
望みませんが、いつか招 ばれてみたいものです。
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