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第1話
四季から二季に変化しつつある昨今、こういう春らしい麗らかな日は珍しい。
入学式が終わって早1週間。各種オリエンテーションや先輩たちとの交流会も終わり、今日から通常の授業がスタートする。履修登録もほぼ完了し、あとはコツコツと毎日講義に参加して単位を取得していくのみだ。
月曜日の一限目、開始30分。これから前期の間は一週間の始まりとなるイタリア語の講義を受けながら、鈴木梓 は本日3度目の欠伸をかみ殺した。
地元からそう遠くない都内の大学に進学したおかげもあり、同じ高校出身の友人も何人か一緒に進学している。ただ稀なことではあるが、いざ蓋を開けてみると、この総合大学の半分ほどの割合を占めるはずの文学部に、近しい友人はいなかった。顔見知り程度の友人は何人かいるが、そもそも会話らしい会話をしたことがない。親友は皆、ものの見事に別々の学部へ所属している。元々親和性の高い性格でもなく、予想通り連れ合う友人も出来ないためぼっち状態が現在進行形だ。オリエンテーションの折に話した数人との関係を継続するのも、梓にとっては容易いことではない。
(しかも他の学部混合の授業なのに、誰も取ってないし)
華の大学1年生、しかも入学して1週間。周りは新歓パーティーだ新歓合コンだと浮足立っているのも知っている。だが、どうにも素直に馴染めず、ハッピー大学生ライフを満喫できていない自分がいる。
4度目の欠伸の気配を感じたが、出てくる前に押し殺す。そろそろ眠気も限界だが、友人もいない授業で睡眠をとるなど根性が無くて出来やしない。親との約束は4年。1年生の時点で全単位取得は目標ではなくむしろノルマだ。
(学部内に友達一人もいないのに、恋人なんて夢のまた夢だな)
殊、恋愛において、高校生時代には苦い思い出が多かった。周りにいてくれた友人たちの支えもあり、どうにか腐らずには居られたが元来の性癖も相まって、幸せとは程遠い恋愛遍歴を辿ってきた。
梓はゲイだ。男であるが、男が好きなのである。類は友を呼ぶとはよく言ったもので、数少ない親友たちも同じく同性を愛する男性ばかりだった。
自身に見る目がないのか、それとも単純に運が悪いのか、はたまた別の要因か。理由は分からないが、今までの恋愛で傷つくことの多かった梓は、すっかり臆病になってしまった。
これでも一端の人間なのだから、いつかは好きな人に好きだと言われたい。だが、いつも好きになった人は梓を置いて去ってしまった。これからもそうでない保証などない。だから今すぐ恋人がほしいなんてそんな贅沢は言わない。それでも、暇な授業の間隣でその気持ちを共有してくれる友人が欲しい。ゲイに寛容なら更に言うことなしだ。
(ま、簡単に見つかる訳ねー)
いくらマイノリティが世間的一般で語られるようになったからと言って、個人レベルで見れば変化などない。奇異な目で見られることもあれば、全力で否定され傷つけられることもある。
信用のおける人間にしか真実は明かせない。まず信じるに足る人間を見つけることこそハードルが高いのだが。
つらつらとそんなことを考え、実に5回目の欠伸の気配を察知した時、突然声が降ってきた。
「すみません、隣いいですか?」
「へっ?」
唐突すぎて変な声が出た。慌てて口を押さえ声のする方を見上げ、梓はその一瞬で世界の時が止まるのを感じた。
すらりと高い鼻、薄めの唇。ちょっと垂れ気味の穏やかそうな瞳、自然に整った眉。左頬を撫でるように落ちたひと房の髪が美しい印象に儚さを添えた。
一瞬では性別まで判断できなかった。それほど混乱していた。
めちゃくちゃなくらいタイプの人間がそこにいる、と。
「あの……」
二の句を告げられ、大きく息をのむ。まずい、じっと見すぎて変に思われただろうか。口を押さえたままがくがくと首を縦に振ると、そのとてつもなく好きな顔が隣の席に腰を下ろした。
(まじかまじかまじか、ちょっと待って、やばすぎるっていうかいい匂いする)
匂いまで感知してしまって、自分はちょっと変態すぎやしないだろうか。一度意識してしまうとそれ以外の事象が全く頭に入ってこない。梓の意識は一瞬にして、隣に突然現れたとてつもなくどストライクな顔をした人物に完全に持っていかれた。
(ちょっとだめだ。一旦落ち着けおれ! まずは深呼吸、深呼吸)
不審がられないよう、身じろぎで眠気を覚ます体を装って大きく深呼吸する。脳に酸素が運ばれ、思考も少しずつ明瞭になってきた。
顔の向きは変えないように最大限の注意を払いつつ、視線だけを動かして隣を観察する。コンパクトタイプで持ち運びのしやすそうな薄型ノートパソコン。なるほど、板書はノートに書き写すのではなくパソコンへ打ち込むタイプらしい。すらりとした長い指が軽快にキーボードを叩いていく。手元を見ているだけで相当かっこいい。
(指長いし、結構骨ばってる……ってことは、男?)
少し顔を傾けて視線を移動してみる。爽やかなブルーの薄手のセーター。中ほどまで上がったそれから見えるのは、思ったより逞しい腕。
横顔なら、ちらっと見たところでそこまで気にされないのではないか。そうだ、すぐに反対側も見ればいい。友人を探しているように見えるかもしれない。
(だってもう一回この人の顔見ておきたい)
ここまで好きな顔、もう二度と出会えないかもしれない。月曜の一限、この大教室で今後も必ず隣に座れるかなど分からない。今日変な人認定を下されたところでこんな印象的な人間でもない限り、記憶されることなどないだろう。きっとそうだ。そうに違いない。
自分自身を心の中で鼓舞する。心臓がどくどくと早鐘を打っている。生唾を飲み込んで小さく喉が鳴った。
ゆっくり、視線を腕から肩へ滑らせる。くっきりと浮き出た喉仏、薄い唇、高くすらりとした鼻、他の部位からすればアンバランスにも見える少し垂れた眦、吸い込まれそうな瞳――。
(ん? 瞳?)
考えるより先に心臓が跳ね上がって、息を呑むより早く視線を外した。
講義が始まって間もなく1時間。タイプの顔と出会って5分。その間に早くも二度目の混乱である。
(待って、目合ったよね? 絶対、ばっちり、こっち見てたよね!?)
思っていたのと違う。予定では勝手に横顔を、それも一瞬だけ盗み見て、その後は周りを見渡して余裕があったら首を傾げて、友人が月曜一限目の講義から来ないリア充男子大学生を演じるはずだった。それがどうして、バチっと音がするように完璧なタイミングで視線を噛み合わせてしまっているのか。
思考回路はショート。完全なるキャパオーバー。身じろぎ一つ出来ないほど体が固まってしまった。
(なんか、言った方がいいのか? ごめんとか、間違えたとか)
間違えたって何をだ。全く思考がまとまらないのに、自分で自分につっこむのは現実逃避したい証拠だろうか。とにかく何か声を出そうと口を開きかけたとき、思いがけず小さな声がそれを遮った。
「あの」
「わっ」
反射でまた変な声が出た。
(死にたい……)
とりあえずここまでの行動で変な人認定は免れないであろう。これは印象的な人間でなくとも顔を覚えられてしまったかもしれない。さようなら、平和なハッピー大学生ライフ。
「あの、この講義、最初からいましたか?」
「え、ああ……」
はい、と相当気の抜けた返事をしてしまった。
少し希望が湧いてきた。まだあきらめなくても良いかもしれない、平和なハッピー大学生ライフ。
「何か大事なこと、言ってた?」
「いや……配布されてるプリントに書いてある通り、です。授業の進め方とか、評価基準とか」
講義中なので出来る限り声をひそめて答える。顔がなんとなく熱い気がするけれど、赤くなってはいないだろうか。声が震えてはいないだろうか。
(うわ、待って人生始まって以来のどストライクな顔と喋ってる、おれ)
声が低い。やっと脳が理解した。この人は男だ。
「そっか、ありがとう」
「いえ」
会話終了。会話の途中、一度も隣の彼を見られなかったことに後悔する。好きな顔を遠慮なく見るチャンスだったかもしれないのに。
(もうほんと、おれの意気地なし!)
スマートフォンの待ち受けを確認する。講義が終了するまであと15分程。終わりが見えると、人間どうにも欲が出る。何とかしてもう少し、何か一言でも話が出来ないだろうか。
第二外国語の講義は、通常一年生が取る授業ではあるが、稀に一年生で単位を落とした二年生が潜り込んでいるとも聞く。しかし、ここで学年の確認は不自然が過ぎるか。
だとしたら学部を聞いてみるのはどうだろう。いくつかの学部が入り混じっている講義だから、学年を聞くことより不自然はないだろう。だが聞いた後はどうする。そこから話を続けられる気がしない。学部を聞いてはい、さようなら、なんて。変な人どころかストーカー一歩手前だ。
会話が二回続いた奇跡に歓喜している。だから欲目が出てきて、まだもっと会話をしたいと期待している。あわよくば友達になりたい。
(いや、友達は難しくても、顔見知りくらいになれないかな)
すれ違っても軽く笑顔を交わしあえる権利が欲しい。好きな顔から微笑みかけてもらえたらそれだけで前期の単位など軽くこなしてしまえそうなのだ。
しかし人生そう甘くはない。
無情にも講義時間終了のチャイムが鳴って、早々に筆記用具やパソコンを片付ける音が響く。教授が次回の予告をし、講義もめでたく終了。
(早く、なんか言わなきゃ)
筆記用具とノートを鞄に収納しつつ、一度ショートした思考回路をフル活動させる。隣の彼はパソコンを収納し終わっている。もうそろそろ席を立つだろう。鞄の口を閉じる。今言わなければチャンスがなくなる。
「あの、さ」
あまりにも焦りすぎて、話すことなど何も決まっていないのに声が出たかと思った。口からぽろりと、無意識に引きとめる言葉を零したのかと。そのせいで反応が遅れた。
「ね、聞こえてる?」
「へ、あ、おれ?」
どうやら自分の口から漏れ出た声ではなかったらしい。
三度目だ。隣の彼から声を掛けて貰えている。一日にこんな僥倖を何度も体験して、罰でも当たってしまわないだろうか。ぼんやりそんなことを考えながら彼の方を見ると、じっと梓を見つめる瞳と視線がかち合う。やはり真っ向から目を合わせるのはまだ難しいかもしれない。心臓に良くない。うろうろと視線を彷徨わせて、結局自分の手元に落ち着いたころ、彼がまた口を開いた。
「何度も話しかけて、ごめん。一年生、だよね」
「うん」
「俺もなんだ。どこの学部?」
「文学部、だけど」
なんだこの会話っぽいのは。というか会話な気がする。聞こうと準備していた質問がものの5秒程で片付いてしまった。
それにしても自分の返答はぶっきらぼうすぎないだろうか、と梓が心配しかけたとき、彼が席を立つ。つられて顔を上げると、ほとんど真上を見上げる形になった。首の角度が辛くて立ち上がるが、それでもまだしっかり見上げないと顔が見えない。
「背、高いな」
「ああ、うん。実は今も伸びてて」
悠に20センチは身長差があるのではないだろうか。梓が160センチ前半なので、そうなると180センチを超えている計算になる。同じ男としては羨ましいやら、なんだかときめくやら。
「えっと、それはいいんだけど。あの、俺も実は文学部なんだ」
「そう、なんだ」
「この後何取ってるの?」
「文化人類学……だけど」
次から次へ飛んでくる質問になんとか食らいつく。相手はジャブ程度と思っての会話なのかもしれないが、梓にとっては最早スパーリング、いやもしかしたら軽い練習試合くらいのエネルギーを消費しているかもしれない。
「俺もその授業取ってる。ね、もし良かったら一緒に受けない? 俺、まだ同じ学部に友達居なくて」
左ストレート、一発ノックアウト。安堵したような彼の微笑みに、完敗である。
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