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第18話

「好きなところ座ってね」  キッチンに足を踏み入れながら海が声を飛ばす。  リビングには白い3人掛けソファとローテーブル、ブラウンの座椅子が配置されている。ローテーブルの上はすっきりと片付いていて、テレビ台の上やチェストの上も必要最低限のものしか置かれていない。なんとなく、まごうことなき二人の部屋であることが証明されてしまったようで、いたたまれない気持ちになった。  ここは海と史也が同居している部屋らしい。  休憩室で史也の尋問―海が途中で割り入ってくれるまではどこからどう見てもそうだっただろう―を受けた後、菱への連絡を急かされた梓は、その場で菱に電話を掛けた。半コール鳴るか鳴らないかのうちに電話口に出た菱はひどく焦っていて、梓はひたすら申し訳ない気持ちでいっぱいだった。  その場で菱に伝えたのは二つ。 まず、店で事件があったが梓は無事であること。 そして、今晩は自宅に帰らず、史也と海の部屋に泊めてもらうということ。 電話の途中、出来る限り菱に心配をかけまいと回りくどくなって空回る梓にしびれを切らして、史也は電話を替わった。そこで冷静に現在の店と梓の状況を説明し、菱の状況も聞き出してくれた。菱は最寄り駅に停車する電車が人身事故の影響で大幅に遅れており、必要ならば改札を出てタクシーで帰宅すると言ってくれた。しかし、今の菱の負担や店の戸締りなどの時間も鑑み、史也はうちで預かる、と申し出てくれたのだ。いささかペットのような扱いだとは思ったが。 更に電話は海に替わられ、菱への綺麗なフォローがなされたところで終話となった。 そして3人で帰途につき、こうして2人の部屋に一晩の宿を借りることになったのである。 「鈴木くん、お腹空いてない?」 「ひえっ」  なんとなく身の置き場が無くてぼうっとしていると、後ろから回って海が梓の顔を覗き込んできた。いきなり声を掛けられて、梓は驚きで飛び上がる。 「わ、ごめんごめん。驚かせるつもりじゃなかった」  海が慌てたように両手を振って目を丸くする。そうすると、より一層可愛らしい顔が幼くなった。梓の肩から徐々に力が抜けていく。 「す、すみません」  気遣う声を掛けてくれたのに、こんな風に怯えていては相手に失礼かもしれない。しゅんと視線を落とすと、海は控えめな笑顔を浮かべて梓の頭を優しく撫でてくれる。 「ずっと気を張って疲れちゃったね。ちょっと休憩、ね」  梓が促されて視線を上げると、海が手を引いてソファの方に向かう。そして梓をソファに座らせると、ちょっと待っててと言って離れていった。  キッチンに入って先に作業していた史也と一言、二言交わして、火元を明け渡してもらっている。冷蔵庫から何かを取り出すと、鍋に入れて火にかけた。また史也と言葉を交わしてその間に棚をごそごそと漁り、続いて食器棚から小さな皿を取り出している。その間も史也との会話は途切れない。二人とも小さな声でのやりとりなので会話はっきりとは聞こえないが、とても自然でどことなく穏やかな雰囲気がある。そのうち、海が戸棚から何かを取り出して中身をスプーンで分け、加熱していた鍋を取り上げてその中身も分けた。  キッチンからトレーをもって出てきた海は、まっすぐ梓のところへ来てソファに腰かけた。 「あったかいもの飲むと、ほっとするから」  はい、と海が手渡してくれたのはココアのようだ。一瞬ふわっと何か華やぐようないい香りが鼻をくすぐる。不思議に思って匂いを嗅ぐと、海が同じように鼻を鳴らす。 「ちょっとだけハニーブランデー入れてるんだ。最近お気に入りで。いい匂いだし、美味しいよ」  勧められ、梓は何度か息を吹きかけてココアを冷まし、一口含んだ。飲み込むとふわっと少しクセのある甘い香りが鼻を抜ける。梓は知らず、ほうっとため息をついた。 「貰い物だけど、クッキーもあるからどうぞ」  海が一緒に運んでい来た皿を手に取り、梓の方へ差し出す。正直気を張りすぎていて空腹というより、もはや何かを食べるという行為すら頭から追い出されてしまっていたが、甘い飲み物で少し力が抜けたか、小さな一口サイズのクッキーならなんとか飲み込めそうな気がした。  皿から一つ手に取り、口に入れる。香ばしい香りにサクッとした食感。パサついた口内を、再度ココアで洗い流す。  ココアを何度か口に運び、お茶請けのクッキーもふたつ、みっつと口にすると、不思議と腹の辺りからぽかぽかと力が湧くようだった。  カップの中も三分の二ほどが無くなり、クッキーも残り少なくなったころ、ココアにしのんだブランデーのおかげか、少し気持ちが緩んでいる自分に気が付いた。 テーブルにカップを置くと、同じタイミングで先ほどまでキッチンで作業していた史也がどんぶりを片手に座椅子に腰を下ろした。テーブルに置かれたどんぶりの中には野菜をたっぷり乗せたラーメンが見える。ぱし、と手を合わせいただきますと呟いた史也は、大口でラーメンを片付け始めた。まかないを食べているところはあまり見たことが無かったので知らなかったが、ものすごい勢いで食べる割に、所作が綺麗だ。野菜と麺がどんどん消えていくのに、汚い食べ方には見えない。 食べ姿に見入っていると、海が隣で楽しそうに笑った。 「史也、早食いなのに食べ方綺麗だよねー。おれも一番最初に見たとき、釘付けだったもん」  どうやら、史也の食べ方を前に梓が呆気に取られていることが面白かったらしい。くつくつと笑う海に、梓はまた羞恥を感じて顔を赤くした。 「でも早食いはだめなんだよ、史也?」 「うるせ」  最後の一口を放り込みながら史也が返す。それにも小さく笑って、途端、海の瞳が一瞬慈しむかのような色を見せる。 (あ、やっぱり)  この二人は。 「つき、あってるん、ですか」  気付くと同時に口から言葉が出てしまって、思わず取り繕うとしたけど遅かった。言葉は途切れ途切れに放たれてしまう。  海の表情が真顔に戻って、それでも視線は史也にあった。  史也はちらりと梓を一瞥すると、視線をどんぶりの方に戻して、スープをすすり続けている。  何秒間か沈黙が流れて、そしてそれを打ち破ったのは海だった。 「――うん、そうだよ」  驚いて顔を上げたのは史也の方だった。ぎょっとするように海を見る。対して海は、本当に小さく、微かに、史也を安心させるように笑った。 「おい、海」 「いいの、鈴木くんは」  なんか分かるから、と。  海が呟いた言葉に、ぎくりとした。梓が動揺から瞳を揺らすと、今度は海が梓を真っすぐ見て、史也にしたよりもっとわかりやすく、にっこりと笑ってみせた。 「鈴木くん、ちゃんと挨拶も出来るし、真面目だし。だからってだけじゃないけど、なんか……変にからかったり広めたり、そういうのする子じゃないと思う」  じわ、と胸の真ん中が温かくなる。そして急に視界がぼやけて、ぼろっと涙が零れた。海の笑顔がほどけて、様子を伺う表情に変わる。梓は涙を止めようと必死に喉を鳴らして堪えるが、何故か一向に止まってくれない。胸が苦しくて、熱くて、どうしようもない。  服の袖でぐいぐいと頬を拭うと、その手が優しく外され膝に降ろされる。そして海が柔らかく優しく抱きしめてくれた。 「大丈夫だよ、大丈夫」  ぽん、ぽんと背中を優しく叩かれると、また次々と涙があふれる。  やっと腑に落ちてきた。心を埋める暖かい何か。  例えばそれは、日々目立ちはしないけれど、地道に頑張ってきたアルバイトであるとか。 ゲイである自分を親友以外に知られたくなくて、必死にかぶってきた仮面であるとか。 本当は寂しくて、不安で、怖くてたまらないのに、強がって笑って甘えられない自分自身であるとか。  そういう漠然とした、自分の中に存在するほの暗い感情を、許してもらえていること。もし言葉で説明したとしても、絶対に突き放さないと、理解すると包んでくれていること。  海に抱きしめられて、触れている場所からひしひしと感じる。この感覚が、梓をこんなふうに泣かせているのだと思った。

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