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第17話
どのくらい時間が経っただろうか。背中を丸めたような中途半端な体勢でじっとしていた所為か、背中が痛みを訴えていた。身じろぎをして軽く背中を伸ばすと、肩から海の手が離れていった。緊張していたからか喉の渇きも感じる。梓はようやっと史也が入れてくれていたミルクティーに口を付けることが出来た。すっかりぬるくなっていたそれは、通常より少し砂糖が余分に入れられているようで、ほっとするような甘さがささくれた精神を撫で下ろしてくれた。
「落ち着いたかな?」
優しく気遣うような海の声がして、梓は緩やかに自分の思考が動き出すのを感じた。
「あの、すみません、ありがとうございました……」
肩に掛けられたブランケットに手を添えながら小さく呟くと、照れて落とした視線を覗き込むようにして合わせられる。梓がたじろいで頬を赤くすると、ほっとしたように微笑んで、また梓の頭を撫でた。
コンコン、と扉を叩く音がして視線を上げると、史也が扉を開けて入ってくるのが見えた。
「あ……」
「顔色、少しは良くなったな」
表情こそ変わらないが、声色には角が無い。ずっと、史也のことを勘違いしていたかもしれない。クールで不愛想に見えるがとても気遣いが出来るし、何よりその端々に相手に対する優しさが垣間見える。少し申し訳なくなりながら、梓は小さく頷いた。
「締めは終わった?」
「ああ、戸締りもOK」
海がソファから立ち上がって史也に問いかける。答えた史也はサロンエプロンを外してロッカーに戻し、財布とスマートフォンをジーンズのポケットにねじ込んだ。梓も着替えてしまおうと立ち上がる。
「鈴木、お前スマートフォン見たか」
自分のロッカーに手を掛けたところで史也から呼び止められる。振り返ると、自分のロッカーに背中を預け、体の前で腕を組みながら史也がこちらを見ていた。
「見てない、ですけど」
「見てみろ。田崎から連絡入ってるだろ」
そこではっと気付いた。頭が混乱していて思考が止まっていた所為で、すっかり忘れていた。今日は菱に迎えに来てもらうはずだったのだ。
急いでスマートフォンの画面を確認すると、メッセージアプリの通知が10件ほど来ている。開いてみると、それは全て菱からのものだった。最初のメッセージのタイムスタンプは今から10分程前。
【ごめん、今見た! まだお店にいるよね?】
2通目はそれから2分後。
【おーい、梓? 今から急いで行くけど、電車が遅延してるみたい!】
3通目はそれから3分後。そこからは立て続けに。
【お店にいるんだよね? もう締め終わって出ちゃう?】
【梓返事してー】
【おーい、梓! 何かあった?】
6通目からは通話の通知だった。立て続けに5本。スマートフォンのバイブレーションをオフにしていた所為で、全く気付かなかった。
「田崎が店に電話掛けてきた」
驚いて梓が顔を上げると、まっすぐ射抜くような史也の視線がある。その瞳に反射的にぎくりと身体を強張らせると、史也が続ける。
「悪いけど大まかな事情は聞いた。今日は田崎がバイト終わりにお前を迎えに来る予定だったんだってな」
今日は、田崎が。
その一言で、簡単な説明が既に済んでいることが知れた。気まずくて視線を落とす。まだ思考が正常に回っているわけではないようだ。史也に何と返していいのか、どうすればいいのか、全く分からない。
「こーら!」
ぺちん、と可愛らしい音が聞こえてまた視線を戻すと、そこには史也の頬を両手で挟む海の後ろ姿があった。梓は驚いて目を見開く。
「史也、顔が怖いよ!」
海の背丈は梓と同じくらいのようだが、史也はそれより20センチ程背丈が大きい。後ろ姿なので海の顔は見えないのだが、頬をサンドイッチされる史也の眉間には深めの皺が刻まれているため、笑いたくても笑えず、梓の顔は無意識に引きつった。
「……怖くねえよ」
史也からくぐもった低い声が絞り出される。不覚にも若干吹き出しそうになって、梓はぐっと下唇を噛みしめて耐えた。
「とりあえず、まだ話の途中だ」
離せ、と半ばあきらめたように呟いた史也は、頬に当たる海の両手をそれぞれ掴んで下ろした。
驚くことにもう一度梓を見た史也の視線は、先ほどの射抜くような視線とは打って変わって、こちらの様子を伺いみるような柔らかいものになっていた。
(あれ、この二人)
「鈴木」
「へ、あ、はいっ」
ぬるりと考え事に入りそうだった梓の思考が、引き戻される。そして、ふ、とひとつ息をついた史也は、唐突にこう言った。
「今すぐ田崎に電話しろ」
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