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第1話 サバンナの日本人王子

 ナイロビの夜は冷える。真夜中に温まったベッドから抜け出た冬馬(とうま)は、野生動物のように小さく身震いした。  手早くスウェット生地のパーカーとデニム、更にダウンベストを重ね着して襟元までしっかりファスナーを閉めると、ふっくらした唇を隠すように首を竦めて、小走りにガレージに向かった。 「Oops…, so cold.  ……じゃなかった。おお、寒っ」  来週に迫った訪日に備え、冬馬は意識的に日本語を話すようにしていた。幼いころからケニアのイギリス式インターナショナルエリート養成校に通っている冬馬は、日常の殆どを英語で過ごしている。だが、家庭内では日本人の両親の方針で日本語を使っているから、会話に不自由することはない。  ガレージには、年代物の日本車のSUVが止まっている。滅多に故障しないし、悪路を長時間走っても身体へのダメージが少ない。冬馬は自分の愛車を気に入っていた。今日は真夜中から走り始めて、サバンナにのぼる朝日を眺めるつもりだ。車のエンジンを掛けると、ガレージの隅で寝ていた愛犬が起き、冬馬が出掛けることに気付いて足元にじゃれついてきた。 「ルーシー。今日は国立公園に行くから、お前は連れて行けないんだ。帰ってきたら遊んであげる」  優しく頭や顔周りを撫でてやると、連れて行ってもらえないことが分かったのか、ルーシーはプイと背中を向け、自分の寝床に戻って行った。愛犬の分かりやすい反応に冬馬はクスリと笑い、運転席に乗り込んだ。  彼は今、ケニアの大学で工学を学んでいる。卒業後は父のようにアフリカのエネルギー開発に携わるのが彼の夢だ。だから今回、エネルギー会社でCEOを務める父の鞄持ちとは言え、エネルギー会社と取引のある日本企業とのリアルな商談の場に同席させてもらうのは楽しみだった。それに、多少はオフの時間もある。  どこへ行こう。  何を見て、何を食べよう。  冬馬の胸は期待に膨らんでいた。  街灯も殆どない暗い道を、ヘッドライトと星明りを頼りにひた走る。向かう先は、ライオンやシマウマ、ヌーの大群で知られるセレンゲティ国立公園だ。冬馬は公園レンジャーのボランティアをしているので、一般人の立ち入りが厳しく制限されている国立公園へも自分の車で入れる。この日の門番も、よく知った冬馬には、にっこり笑ってゲートを開けてくれた。  お気に入りの丘の上に車を止めて冬馬は外に出た。(まぶた)を閉じて、土と植物、そして動物の香りが入り混じったサバンナの香りを胸一杯に吸い込んだ。幾ら冬馬が赤表紙の日本のパスポートを持っていても、このアフリカの大地こそがルーツだった。  二度、三度と深呼吸をして、目を開いた。地平線からオレンジ色の太陽が昇ってきた。群青色(ぐんじょういろ)の夜空との境目は黄色に染まり、美しいグラデーションを創り出す。次第に、群青が淡青(たんせい)に変化し、冬馬の頬を太陽が温め始める。  静かだったサバンナに、生命がこだまし始める。草食動物の足音、鳥の羽ばたき。  新しい一日の始まりだ。  この土地の夜明けを一望する自分は、サバンナの王子のようだ。自然に冬馬の顔には笑みが浮かび、頬にはえくぼができた。離れ気味で、はっきりした二重の目は黒目がちで、少し目尻が垂れている。そこに口角のあがった唇や細い顎も相まって、彼は二十歳という年齢より幼く見えた。同級生たちは、冬馬の実家の裕福さとかけて、”baby prince(赤ちゃん王子)”と彼をからかったが、本人は気にしていない。百七十五センチの身体には、陸上競技で鍛えたお蔭で全体に細く筋肉が付いて、草食動物のようだ。 冬馬は大きく背伸びをし、両腕を伸ばし、サバンナの空気を抱き締めながら、独り言を呟いた。 「だって、僕が童顔なのは事実だし。お金持ちなのは僕じゃなくて父さんだけど、公園レンジャーの特権で、サバンナの王子気分は味わってるし」  赤ちゃん王子と呼ばれたって、何の問題もない。 「問題は……」  冬馬の表情が一瞬(かげ)った。  しかし、すぐさま悩みを振り払うように首を左右に振り、車に戻る。そして家から持って来た保温ボトルを手に取り、温かいコーヒーを喉に流し込んだ。ケニアで育ったコーヒーの香りと、サバンナの香りを鼻腔の中で混ぜ合わせて楽しむと悩みはすぐに忘れられた。 (さぁ、自宅に帰ろう。荷造りを完成させたら東京へ向けて出発だ!)  冬馬は期待に胸を高鳴らせながら、再び愛車のハンドルを握った。

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