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第2話 ロスト・イン・トランスレーション

 東京の景色は、写真や映像で見ていたよりも遥かに美しく、そして刺激的だった。都会の中にもたくさんの緑があり、道には殆どゴミも落ちていない。古く歴史ある重厚な建物と、近代的なきらきらした高層ビルが入り混じり、魅力的な都市だった。  しかし、冬馬(とうま)が純粋に景色を楽しめたのは、最初の数時間だけだった。ひっきりなしの騒音。文字通り東京は二十四時間動いている。都心に宿を取ったが、ロードノイズが気になり、冬馬は耳詮無しでは眠れなかった。そして、道行く人が無表情で冷たく感じられた。特にビジネス街を歩く人は、歩くスピードが冬馬の倍くらい速い。道を尋ねたくても話し掛ける隙もない。心を折られそうになりながら父のアポイントに同行し、次々に官公庁や民間企業を訪問したが、形式ばった表敬訪問が続いた。どこへ行っても同じようなやり取りが繰り返されるのに、冬馬は閉口した。 「冬馬さん、初めての来日なんですってね。どうですか? 楽しんでますか?」 「騒音が酷くて眠れません。それに、皆さん旅行者に冷たいですね」 ……そんな本音を言えるほどの度胸を冬馬は持ち合わせていない。 「ケニアと比べると、とても近代的ですね。ちょっと気後れします。あと、日本の食べ物はどれも美味しいですね」  冬馬は、曖昧に愛想笑いを浮かべ、お茶を濁していた。  とどめは、日本式接待だった。  銀座の高級クラブでホステス二人に挟まれ、カットグラスを手持ち無沙汰に(いじ)りながら、こっそりと溜め息をついた。 (……一体、これの、何が楽しいんだ?!)  訪問先企業の重役と父は、昔話やゴルフの話題で楽しそうに盛り上がっている。二人の隣にも、タイトなドレスに身を包んだ美しいホステスと、柔和な笑みを浮かべた上品な和服姿のママが座っていた。彼女たちは甲斐甲斐しく飲み物のお代わりを作り、男同士の話題に立ち入り過ぎない程度に相槌を打っている。上機嫌の重役は、相好を崩して女性陣にも話しかけている。 「ママ、ユミちゃん。今度、俺がゴルフ連れて行ってあげるよ」  女主人を「ママ」と呼ぶのが、この国の風習のようだ。 「冬馬さんは、控え目でいらっしゃるのね。お父様を立てて差し上げて。お若いのに偉いわ」  口数少なに俯いている彼を気遣うように、さり気なくママが冬馬に水を向けた。 「あのっ……。僕、お手洗いに行って来ます」  唐突に立ち上がり、大きな声で宣言した彼の姿に、重役やホステス達は虚を突かれたようにポカンと口を開けた。冬馬は居たたまれず、そのまま黙って店を出た。行き先に当てはなかったが、宿泊先のホテルがそれほど遠くないことは分かっていた。歩いてホテルには帰れるだろう。 『先に一人でホテルに帰ります』 父にはスマホからメッセージを送った。  夜の繁華街はきらきらとネオンが光っていて、まるで昼間のように明るい。物珍しい景色を眺めながら歩いた。きょろきょろしながら歩いていると、客引き達に次々に話し掛けられ、冬馬は、慌てて逃げ出した。走ると、慣れないお酒が急激に回り、だんだん気分が悪くなってきた。冷や汗が額を伝い、胸がむかむかする。どこか、一休みできるところは無いだろうか。彼は立ち止まり、目を閉じて耳を澄ませた。 (……樹木がある。しかも、そんなに遠くない)  冬馬は、砂漠でオアシスを見つけた旅人のような気分で息をつき、樹木の音と香りのするほうへと歩き出した。 「へぇ、都心に、こんな大きな公園があるんだ……」  冬馬は、一番手近なベンチを見つけて、へたり込んだ。ネクタイを緩めると少し呼吸が楽になった。普段は滅多に着ないスーツに革靴で走ったのも良くなかったのだろう。人工的な噴水とは言え、水のせせらぎの音がするのも心が安らいだ。たった二日くらい東京にいただけで、自分は既に故郷を恋しく思っているようだ。苦笑いしたかったが、まだ胸焼けが収まらず、冬馬は顔をしかめた。頭痛も続いている。 「あのー、大丈夫ですか? 気分、悪いんですか?」  俯いていた冬馬に見えたのは、その人のダークスーツと黒い革靴だけだった。シンプルだが手入れの行き届いた服装から、きっと、近隣で働いている勤め人だろう。 「はい……。お酒を飲んだら気持ち悪くなってしまって……。申し訳ないんですけど、もし近くに自動販売機があるようでしたら、お水を買ってきていただけないでしょうか」  内ポケットからお金を出そうとすると、目の前の男は、冬馬の手を制した。 「はい、どうぞ」  程なく戻って来た男は、蓋を外してからペットボトルを手渡してくれた。冬馬はお礼を言うことすら忘れて水を飲み干した。それから目を閉じたまま休んでいると、少し気分が和らいだ。 「あの……、見ず知らずの僕に、親切にしてくださって、ありがとうございました」  顔を上げると、長身の男性が心配そうに冬馬を見下ろしていた。奥二重で切れ長の鋭い目は、一見少し冷たそうにも見えるが、軽く横に広がっている小鼻と、何か言いたげに軽く尖った唇には、愛嬌がある。  彼をしばらく引き留めてしまった申し訳なさが急激に募った冬馬は、慌てて立ち上がった。 「もう大丈夫です。お引き留めして、すみませんでした」  しかし、そう言った次の瞬間、冬馬はその場にばったりと倒れた。

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