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天国は待ってくれる Ⅰ

もう死のうと思った。今日の朝目覚めたら、持病の偏頭痛がいつもより酷くて、一体どうしたのだろうと思い、カーテンを開くと外は朝とは思えないほど暗くて、雨がしとしとと降り注いで全てのものを濡らしていた。それを見た瞬間、朝賀(あさが)は思った。もう死のう、と。 思えばそれは、何度も繰り返していたことの再現に過ぎなかった。今までは思うだけで実行には決して移せなかったが、今回こそはもうこの不毛な輪廻に終止符を打てる気がした。朝賀はそんなことをぼんやりと考えながら、自分ひとりの薄暗い部屋あるローテーブルに俯いて座っていた。洗濯したばかりの白いシャツにきっちりとネクタイを通す、何の障害もなく行われるその作業に見る習慣のおぞましさをただ痛感する。頭では死のうとしているのに、体は仕事には行こうとしている。そのどちらに従うべきなのか分からなくて、朝賀はその日、そこに座って俯いたまま何度でも途方に暮れた。 結局朝食を胃袋に収めると、朝賀は自分でもがっかりするほどの手際の良さで、仕事に出向くためいつもの時間には部屋を出ていた。ホームで電車を待っている間も、電車に乗っている間も、朝賀の前を過ぎる人たちはまるで朝賀など見えていないようだった。認知されていないのなら、生きていても死んでいても結局同じだ。そう思いながら何故か、朝賀の足は大学に向かって進んでいた。 大学に着くと朝賀はまた酷くなる偏頭痛に眉を顰めるしかなかった。そんな朝賀の周りを講義前の学生たちは着飾って、自ら前に広がる全てのものに目を輝かせながら、まるで朝賀の知っている絶望とは無縁のような奔放さで駆けて行く。彼らはこれから自分のように、己の将来に広がる闇に食い殺される日が来るのだろうか、この悪天候の中、何事か囁きあって笑っている様からは、まさか想像が出来なかった。 大学の建物が近付くにつれて、偏頭痛が酷くなっているような気がして朝賀は無意識に米神に手をやっていた。丁度その時、朝賀の肩が自棄に馴々しい所作でポンポンと叩かれた。痛みに気をやったまま振り返ると、そこには文学部の生徒である月森(つきもり)が、この雨だというのに傘も差さずに立っていた。随分濡れているようで、長い前髪から雫を垂らしている月森は、朝賀から見れば最早完全に手遅れだった。しかし朝賀は生徒の手前無視するわけにもいかずに、自分の差していた紺色の傘をびしょ濡れの月森に差し掛けた。すると月森は照れたように笑って、朝賀の傘をそっと取り上げた。 「おはよ、朝ちゃん」 「あぁ・・・おはよう。でもどうしたの、傘忘れたの?」 「ううん、俺バイクだから持って来てないの。お陰でびしょびしょだ」 そう言いながらも全く後悔している様子のない月森は、その証拠に快活に笑い声を上げていた。朝賀はそれに何と返したら良いのか分からなくて、曖昧に口角を歪めていることしか出来なかった。狭い傘の中、雨の匂いだけが立ち込めている。朝賀は思った、彼もまたきっと自らのこれからに希望しか抱いていないのだろう。笑う月森の横顔に影が降りるその日を、他の生徒たちと同様に想像出来ない。出来るはずもないのだ。 その時遠くで1限目の開始を告げるチャイムが控え目に鳴り響き、朝賀の隣で月森が我に帰ったようにはっとして顔を上げた。 「やべ、はじまる!朝ちゃん傘ありがと!」 そう叫ぶや否や、月森は今まで持っていた傘を朝賀の手に押し付けるように返すと、びしょ濡れの頭に気休め程度に手をやって、走り出そうとした。朝賀は思わずその背中を呼び止めた。気付けば朝賀の周りに先刻まで居た生徒たちは、殆ど居なくなってしまっていた。後に残ったのは、傘を深く差し足早に校舎に向かっている生徒が何人か居るだけだった。大学の中は広い、雨は暫く止みそうにないし傘がなくては今後も教室を移動する度に大変だろう。月森が朝賀の制止に機敏な動作で振り返るのと同時に、辺りにぱっと月森の体から離れた水滴が舞った。 「傘持って行きなよ。それじゃ大変だろう?」 「え、良いの。朝ちゃん困るじゃん」 「研究室に別のがあるから大丈夫だよ」 驚いたように月森は暫くその場に固まり、朝賀の顔を凝視していた。月森は決して容姿が飛び抜けて美しいというわけではない、ただすっきりと纏まった顔付きに、この人懐こさで他の生徒にも教育者陣にも評判が良いことを朝賀は知っていた。ただ月森は大部分の人間にそうなのだ、だから朝賀にすら時々こうやって構いに来ているのだということも知っていた。決して彼が朝賀のようにそこに醜い感情をひた隠しにしているわけではないということも、充分過ぎるほど理解していた。月森は目に見える人間平等に優しい、自分もただその一角に過ぎない、そんなことは誰に教えられるまでもなく、良く分かっているつもりだった。その上ですら、朝賀は彼に良く思われたかった。どうしてなのか勿論分かっているが、理解するつもりは微塵もなかった。未だ戸惑っている様子の月森に傘を渡して、突然屋根を失った朝賀は研究室のある棟まで後は振り返らずに走るしかなかった。 「ありがと、朝ちゃん!」 月森の声が後方で響いたのに、朝賀は気付かないふりをした。 いつの間にか偏頭痛は止んでいた。殆ど逃げるようにして、薄暗い研究室に駆け込んで扉を閉めた。良く知っているそこは俄かに雨の匂いがした。それがこの間にすっかり濡れてしまった自分のスーツからする匂いなのだと朝賀はまだ気付かない。教授はまだ来ていないらしい。そのことに朝賀は一応安堵すると、自分の椅子に座って窓ガラスを雨が叩くのをぼんやりと見ていた。今日も特にすることがない、明日もきっとないのだろう。思えば自分の人生はそういうものの積み重ねで出来ていた。それに気付いてしまったから、もうこれ以上無駄に息を繋げる気はしなかった。もう死のう、朝賀はひとり呟いてひっそりと目を閉じた。 「朝賀くん」 扉の開く音に気付かなかったから、余程自分はぼんやりとしていたのだろう。そう名前を呼ばれるまで同室である教授の津村が出勤してきたことに全く気付かなかった。慌てて立ち上がってその勢いのまま振り返ると、朝賀の顔を見て教授職にある初老の男は渋い顔をした。 「どうしたんだ、その格好」 「え・・・?」 「この雨の中傘も持たずに来たのか?君ちょっと非常識じゃないか」 「いや、あの・・・」 「まぁ良い。そのへんのもの濡らさないでくれよ」 ふぅとこちらにも分かるように溜め息を吐かれて、朝賀は反論するのが突然馬鹿馬鹿しくなって諦めた。そして気付けばそれに肯定の意を込めて頷いていた。それに生徒に貸したと言ったところで、頑な津村が意見を覆すとは思えなかった。思えば、毎回こんなことを飽きずに繰り返している。とっくに嫌気が差しているのだが、朝賀にはいつもなす術がないのだ。男はその権力を振り翳して、弱みを突くようにせせら笑ってはそこに息衝いている。自分ひとりが死んだところで男はきっと何とも思わないのだろう。そう考えるとただ胸が詰まった。だとすれば一体誰が自分の死というものを悲観してくれるのか、思いつかなかったからだ。 「そうだ、朝賀くん。講義のレジメ準備しておいてくれ」 「あ、はい」 「どうせ君、やることなんてないんだろう」 「・・・」 「良い身分だなぁ、座っているだけで金が貰えるんだから、羨ましいよ」 「・・・―――」 湿度の高い部屋に乾いた笑い声が響く。今度も朝賀はそれに何も言えずに、いや言うつもりなんて何処にもなくて、ただ聞こえなかったふりをするので精一杯だった。

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