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天国は待ってくれる Ⅱ

言われてみればそうだった。死のうとしている自分は何を律義に学校まで来て、悠長に人の仕事を手伝い、ぼんやりとしているのか。津村の言葉はいつも毒すら含んでいたが、それは往々にして真実だった。だから朝賀は何も言えずに俯いている。全く雨の降り止む気配のない午後、私物のノートパソコンを開いて、朝賀は随分と長い間何もせずにそこに座っていた。真っ白いワードのページに一体何を書けば良いのか、最早思い付かなかった。書きかけの研究論文が奥に眠っているのを知っていたが、それに手をつける気にはなれなかった。最近はもう何日もこの繰り返しである。試しに遺書という字を打ち込んでみたが、一体誰がこんなものを読むのか、考えれば考えるほど虚しい結論に繋がっているようで、結局気分が更に塞いだだけだった。 その時ふいに静寂を破って、後方の扉が開く音がして、背中が無意識に跳ねた。津村はその性格上余り生徒たちに人気があるとも思えなかった。証拠に研究室を訪れて来る生徒は、殆どと言って良いほど居ない。しかしその時間、津村は講義中だったのだが、そんなことを考えている余裕は最早、朝賀の中には無くなっていた。慌てて本を棚から引っ張り出して、何か調べ物でもしている雰囲気を作り上げる。最近はこんなことばかりが長けてきて、自分でも嫌になるほどだった。 「朝ちゃん」 てっきり津村だと思い込んでいた朝賀の丸めた背中に、教授にしては高過ぎる声が投げ掛けられてはっとした。慌てて振り返ると、控え目に開けられた扉から月森が中を伺っているのと目が合った。反射的に立ち上がって、机の上に置かれた必要のなくなったカモフラージュの本を退ける。パソコンが光ったままだったのに、朝賀は自分でも驚くほどの冷静さで、それを月森に勘付かれないように閉じるのを忘れなかった。 「津村居ない?」 「教授なら・・・あぁ今は1年生の講義中だよ」 ひっそりと声を潜めて月森はそう問うと、きょろきょろと薄暗い研究室の中を物珍しそうに眺めながら、余り入る機会が無い為なのか、らしくもなく何処か緊張した面持ちでゆっくりと部屋に足を踏み入れ、扉を後ろ手で静かに閉めた。部屋の中は朝賀がわざと作った陰鬱な空気が立ち込めていたが、月森が入ってくると換気でもしたかのように、僅かながらそれが晴れたような気がした。 「どうしたの、津村先生に何か用があったの?」 「違うよー、用があるのは朝ちゃん」 「僕?」 「ほらやっぱ傘無いと困るでしょ」 見れば月森は片手に、朝賀の飾り気のない紺色の傘を持っていた。そのことかと思い朝賀が僅かに落胆している自分が情けなかったが、月森はそんなことには全く気付いていないようだった。何が面白いのか、片手に持った傘を手持ち無沙汰に振り回していた月森は、朝会った時は前髪から雫を垂らすほどびしょ濡れだったはずなのに、午後になっても雨が降り続いていることとはまるで無関係に、随分さっぱりとしていた。朝賀はそれを不思議に思いながらも、渡されるまま月森から傘を受け取った。 「女の子がタオル貸してくれたんだ、お陰で随分乾いたけど帰りはまたびしょ濡れだ」 「・・・あぁ、そう」 人懐こい月森の笑顔を見ていると、ますます気が滅入るようだった。何かに困ったら月森は、こうして沢山の人に助けて貰える。まるで自分とは生きている世界そのものが違うかのように、そこだけ光り輝いて見える。それを羨ましいと思っているのか、それとも妬ましいと思っているのか、朝賀には分からずにただ俯くだけだった。一方で年端のいかぬ彼女たちの浅い知恵と、自らの思惑が図らずも同程度のレベルでしか有り得なかった事実の羞恥に、朝賀は思わず頬を染めていた。 「んじゃ俺もう行くね、傘有り難う朝ちゃん」 「・・・ちょっと待って」 しかしそんな朝賀の心中など察する気配を見せない月森は、多分そういうところが彼の良いところのひとつなのかもしれないが、にこやかに手を振って研究室を出て行こうとした。用のない月森が、ここに居据わる理由は勿論ない。それは実に自然な流れに思われたが、朝賀は思わずその背中に声をかけていた。朝と同じように、月森は機敏な動作で振り返った。ただ僅かに違ったのはその前髪こそしっとりと湿っていたが、そこから水滴が落ちることはなかったということだけだった。月森は朝賀の顔を何も言わずにじっと見つめて、こちらの出方を伺っているようだった。朝賀はそれに一体自分が何と言うつもりだったのか、考え直している暇はなかった。それよりも前に、まるで準備されていたかのように言葉が唇から零れ落ちていた。 「月森くん、今日予定とかあるのかな」 「今日?えっと、あ、うん。バイト無いから授業終わったら何もないよ。何で?」 「・・・あの、良かったらご飯食べに行かない、かな」 可笑しくなっている。言いながら朝賀は思った、どうかしている。月森がその茶色い目を驚いたようにぱっちり開くのに、しかし朝賀は何故か後悔していなかった。もうどうせ明日には朝賀という人間は消えるのだ、この世には居なくなる。今更月森にどう思われようが、体裁を守る必要など何処にもなく、そう思えると随分気持ちが軽くなって、最早どうでも良い気すらしていた。そうだ、本当に最後なら少しくらい良い目を見ても良いのではないだろうか、ふと朝賀は考えた。何にも無かった、本当に文字通り振り返っても何の感慨も無い自らの人生の終着にくらい、何かひとつくらい良いことがあっても良さそうな気がした。そしてそれはとても良い考えに思えた。 「朝ちゃん奢ってくれんの?」 「あぁ、うん」 「じゃ行く!友達も呼んで良い?ふたりくらいなら大丈夫?」 まるで反射のようにデニムのポケットから細長いストラップのついた黒い携帯を取り出すと、月森は嬉々としてそれを弄り出した。連れて行く友達をそうやって選別しているのだろう。そういうことかと朝賀はそれを見ながら、ひっそり溜め息を吐いた。いつもの自分ならここで曖昧に笑って頷いていただろう、そうやっていつも波風立てずに生きてきた。そんな人生の一体何処に価値があるのか分からないから、もういい加減この辺りで終わらそうと思っているのに、最後まで結局こうなのかと、人間の本質というものは案外強靱な意思を持ってそこに居据わっているものだと、朝賀はそれに妙に感心すらしていた。 「・・・あの、月森くん」 「なに、あ、駄目?」 「そういうわけじゃないけど・・・それはまた今度にしてくれると嬉しいな」 「え?じゃふたりかぁ」 「あの、無理にとは言わないんだけど・・・」 「良いよ、全然。俺今日5限までだからそれからで良い?」 そうして月森は本当に言葉通り何とも思っていないような雰囲気のまま、人好きのするその顔をぱっと華やかな笑顔にした。人生最後の晩餐を好きなひとと食べることが出来る、字面を見ると今後の運をここで使い果たしたような気がしたが、もう明日には終わる人生とやらに今更何の未練も感じなかった。これで良かったのだ、本当にこれで終わりなら何という恵まれた人生だったのだろうとこれで自分に暗示をかけることが出来るから、これで良かったのだ。久しぶりに晴れやかな気分だった。月森の出て行った研究室でぼんやりと落ち着かない空を見ながら、そうして朝賀は最後の日を思った。

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