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天国は待ってくれる Ⅲ

何が良いかと聞くと月森は大学生らしい快活さで焼肉と即答した。帰る頃になっても降り止まない雨の中を電車に乗り、ふたりでひとつの傘の中に入って店まで急いだ。どういうところに連れて行けば喜んでくれるのか分からなくて、結局良く知っている家の近くの店にしたが、月森はそんなことに大して気を配っている様子もなく、それよりは目の前に鎮座する、どんどん焼かれていく肉に集中は奪われているようだった。月森が独断で頼んだものが次々と運ばれテーブルを端から埋めていくのを、朝賀はぼんやりと目で追っているだけだった。食べ物を前にして分かった、それを最早美味しそうだと思える感覚が、朝賀には欠如していた。そういえば朝食を食べたはずだったが、一体何を食べたのかどんな味がしたのか全く思い出せなかった。しかしそんなことにはお構いなしに、月森は怪しく赤く光る肉を端から網に乗せては、忙しなくひっくり返していた。 「朝ちゃん食べないの?」 「いや、食べてるよ。美味しいね」 「うん、美味い。あ、俺ビール貰お」 進められるまま口に放り込んだ肉は、面白いほど何の味もしなかった。そしてその原因は店の程度の問題などではなく、自らの味覚の欠損なのだと朝賀は誰に言われるまでもなく知っていた。代わりに他のことに気を取られないように、いつもよりアルコールを多めに摂取することに務めた。月森も飲んでいるようだったが、2杯目で既に顔を赤く染めているようでは、余り強いほうではないのかもしれない。 「やーでもさ、朝ちゃん大変だよね。津村なんかと一緒に居なきゃいけないなんてさ」 「そんなことないよ、毎日勉強させて貰ってる」 「だってアイツ凄ぇ嫌味でムカつくよ、朝ちゃんだってそう思うだろ?」 「はは、どうだろう」 そんな風に自分もはっきり言えれば良かった。一度だって良い、しかしその後のことを考えてしまう臆病者の脳味噌は、そんな発令をまさか朝賀の体に送らないのだ。代わりに黙って愛想笑いをする回数ばかりが増えていく。だけどそれも今日までの辛抱と思えば、一度くらい言い返してみるのも悪くなかったかなと、新しいアルコールを体の中に入れながら、朝賀はひとり考えた。その眼前では月森が幾分かとろんとした目で、網の上の肉を掴みかけては落とし、それをまた掴みにかかり空振りし、を繰り返している。相当量飲んでいるらしく見えるその姿の隣には、空になったジョッキがやはりふたつ置かれているだけだった。 「月森くん、大丈夫?そろそろ帰ろうか」 「えー、もう帰んの?まだ食えるよー・・・」 「止めておいたほうが良いよ、明日も学校でしょう?」 「朝ちゃんだってそうじゃん、そんなに飲んで大丈夫なわけー?」 「・・・―――」 そうだ、明日も出勤だ、自分に明日という概念があればの話であるが。朝賀はそれにただ目を伏せることしか出来なかった。忘れていたわけではなかった、自分の根本に常にそれは存在を続けたものである。恐ろしくも自分が自分として自我を得たその時から、それは朝賀の中に居座り続けた存在だった。それが強固に自らの意思を主張してきたのは最近だったが、今までだってこんなことは何度もあったのだ。朝賀は何の兆候か震える指先を無視して、ジョッキに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干した。今日に限って、幾ら飲んでもこれ以上酔える気がしなかった。証拠に頭は冴え渡っている。 「朝ちゃん?」 「どうしたの?」 不意に朝賀が黙ったことに持ち前の器用さで瞬時に気付いた月森は、その言葉尻に心配している雰囲気を漂わせながらも、あくまで明るく向いで辛気臭く俯く朝賀に問いかけた。その間にも店内には、煩く朝賀の知らない、きっと月森は知っているのだろうと朝賀は勝手に考えていた、最新の曲が流れ続けている。煩いはずなのにそこだけが取り残されているかのように、空気は冷たく静まり返っていた。朝の雨みたいだと朝賀はぼんやりしたまま考えた。 「・・・月森くん」 「なに?」 「ひとつ君に頼みがある」 「良いよ、なに?」 目の周りを赤くしながらも、月森は平常と全く変わらない純真無垢な笑顔をこちらに向けた。それに汚れた胸が突かれる思いだったが、朝賀は震える指先を無理矢理丸めてそれをぎゅっと握り、少しでも震顫を弱めようとした。結果的にはその震えの程度を余計自らに知らしめる結果になってしまったのだが。何度も今日は決心を繰り返してきたが、これが最後になることも何となく予想がついた。別に月森が首を振っても構わなかった。そんなことは最早問題ではなかったから。 「僕のこと抱いてくれないかな」 しかし朝賀の懸念を無視して、月森はにこりと笑って言った。 「良いよ」

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