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天国は待ってくれる Ⅳ

遠くで水音がしている。手の震えはいよいよ酷くなってきて、もう自分の意思とは無関係に思えた。見知った部屋の中が薄暗く湿っている。外はまだ雨が降っていた。月森は何も言わなかった。左手で朝賀の震える手を握って、何も言わずに部屋までついて来た。馬鹿だ、一体何をしているのだと朝賀はベッドに曲げた足をぎゅっと握った体制で座ったまま、何度も思った。月森が自分の突飛で馬鹿げた要求に快く返事をした時から、暫く時が止まった、少なくとも朝賀にはそう思えた。明日にはなくなる体だから別に構わないと思う一方で、教育者としてこんなことは絶対に許されないことだとも自覚している。しかし朝賀は膝を抱いたまま、震えて一向に動けない。 遠くの水音が止んで、後は雨の音だけが敷き詰められる部屋の中、朝賀は迷ったままの思考を引き摺り立ち上がった。ややあってバスルームからタオルで髪の毛を拭きながら、上半裸の月森が出てきた。そして朝賀と目を合わせると、目を細め、口元だけを動かして笑った。それは学校でいつも見ていた月森の人懐っこい笑顔とは、全く違うものに見えた。そして多分本質的にそれは違っていたのだろう。 「月森くん、あの」 「なに、誘ったのそっちなんだからね、今更なしとか駄目だよ」 「いや、そうじゃなくて・・・」 暗がりの中で見るとすっかり月森の目の周りからは赤さが消えていたが、きっとまだ酔っているのだと思った、多分両方とも。そうじゃなくて、に続く言葉を朝賀は考えたが、全く浮かんでこなかった。良いことがひとつもなかった、思い返しても全く面白味のなかった自分の人生の、最後がこんな形になるなんて、一体誰が予想したというのだろう。朝賀は分からなかった、本当に明日自分は死ぬのだろうか。病気や事故ではなく自らの手で首を絞めることによって、そしてそれで本当に全て終わるのか、終わらせて良いのか。月森の茶色い目を見ていると可笑しくなりそうで、怖かった。いやもう充分可笑しくなっていた。 月森がそっと朝賀の肩に手をやって瞬時に朝賀はそれを振り解こうとしたけれど、柔らかい力で抑え込まれているはずなのにそれは何故か全く動かなかった。混乱した脳を追い立てるように、唇に月森のそれが触れて、朝賀は偏頭痛や指先の震顫などに気をやっている余裕がすっかり無くなってしまった。何をやっているのだろうと月森にベッドに倒されながら、朝賀はぼんやりと自分の家の見慣れた天井を見ていた。じっと見ているとそれが不意に滲んで、目から涙が溢れ出して目尻を伝って次々落ちて行った。朝賀のシャツのボタンを外していた月森がそれを見つけて手を止めるまで、朝賀は自分が泣いていることに全く気付かなかった。 「・・・朝ちゃん?」 「・・・」 「如何したの?」 「・・・御免、月森くん」 「なにが?」 「いやだ、御免、止めてくれ」 耐えられなくなって朝賀は顔を手で覆った。月森が一体どんな顔をしているのか、もう見ていられなかった。このままでは何もかも駄目になりそうな気がした。明日も自分は学校に行ってしまいそうな気がした。津村の嫌味に愛想笑いを浮かべてしまう気がした。そうしてここに戻って来て、また途方に暮れてしまいそうな気がした。もうそんなことを何日も続けている。こんな人生意味が無いから終わらせてしまおうと、結局その結論に毎回行き着くことになる。結果が如何なるか分かっているのに、そうして毎日同じ手順を踏むのを忘れない。今日こそ大丈夫だと思った、満たされたまま首を括れると思った。月森が笑って頷くまでは、朝賀だってそう思っていた。 「・・・死にたいんだ・・・」 「え?」 「こんなつもりじゃなかったんだ、もう死にたいんだ、死ぬつもりだったんだ」 「・・・朝ちゃん?」 「生きていたって何も良いことなんてなかった、生きていて良かったと思ったことも無い。ただの一度もだ、一度もだよ。なのに嫌なことだけは沢山あるんだ。それなのにまだ生きていなきゃいけないの?我慢して?いつまで?」 「・・・」 「もう疲れたんだ、もう止めたい。でも君にこんなことをされたら、僕はきっと死ねない」 「・・・―――」 「御免・・・お願いだから、もう止めてくれ」 目の奥がじくじくと疼くように痛かったが、涙はもうそれ以上出なかった。暫く月森が退くのを待っていたが、一向に動く気配を感じることが出来なかったので、朝賀はそっと顔を覆っていた手を退けた。すると月森はまだ朝賀に跨ったまま、殆ど無表情でこちらを見下ろしていた。誰にも言うつもりはなかった、そして言うような相手すら居なかった、ひとりでひっそりと死ぬつもりだった。全く内側の読めない月森の深く沈んだような色をしている瞳が、薄暗がりにきらりと光った。そして月森がそっと腕を動かしたから、分かってくれたのだと思った。どう考えてもそうだった、こんな話をされて月森もきっと酔いが覚めたことだろう。もう遅いからタクシーを呼んでやらねばと、朝賀はぼんやりと常道回路を辿っていた。 しかし月森は何を思ったのか、朝賀の上から全く退こうとせず、それどころかまるで今までの話を一切無視する格好で、朝賀のシャツのボタンに手をかけ、残りを外しはじめた。今まで自分が口走ったことを、月森は全く聞いていなかったのではないかと朝賀にそれは思わせるほど、不自然な流れだった。それを制止するべきなのだろうが、もうどうやって止めたら良いのか分からず、朝賀は呆気に取られて月森をただ濡れた目で見ていた。遂に朝賀のシャツのボタンは全部外され、そこでようやく月森は視線を朝賀に合わせた。 「止めないよ、俺」 「・・・え?」 月森の言っていることが全く分からなかった、まるで異国語でも聞かされているようだった。月森は自棄にゆっくりと手を伸ばして指先で朝賀の頬を撫でた。何をされているのか暫く分からなかったが、ややあってどうやら月森は朝賀の涙の痕をそうやって消しているのだと分かった。でも何故月森がそんなことをするのか、やはり朝賀には全く分からなかった。分かりようもなかった。 「良かった、朝ちゃんが最後に俺を選んでくれて」 「・・・月森くん・・・?」 「良かった、ホントに良かった。朝ちゃんが死ぬ前で」 「・・・何を・・・」 不自然なほどの無表情だった月森の顔が不意に歪んで、朝賀はただ慌てることしか出来なかった。月森が良かったと繰り返している、それは陳腐な呪文みたいだ。何が良いことがあるのだろう、何も無いのに、無かったのに。聞き返しても何度聞き返しても、月森は朝賀の欲しい答えを知らないように、それとは違うことを繰り返し続けた。音を暫く遮断していた鼓膜が雨の音を不意に捉えて、今日は朝からずっと雨だったこと、そんな中傘も差さずに月森がずぶ濡れだったことなどが、随分前の思い出のように想起された。その遠かった月森が、永遠とも思える隔たりの奥に住んでいた月森が、暗がりで自分を見下ろしている、そんなことが起こり得るのだろうか。これは夢なんじゃないか、自分は研究室の机でまた眠っているのではないか。朝賀にはまだそんな非現実に思えて仕方が無かった。今まで一度も生きていて良かったと思ったことなどなかった、ただの一度もだ、それがどうしてなのだろう。 「ねぇ、朝ちゃん。俺がこれから朝ちゃんのことうんと善がらせてあげるから、生きてて良かったと思わせてあげるから」 「・・・」 「そしたら、ねぇ。考え直してよ。死ぬことじゃなくてさ、俺と一緒に生きること少しは考えてみて」 「・・・」 「きっとそんなに悪いものじゃないと思うよ、俺はそう思う」 「・・・―――」 涙で前が良く見えなかったから、月森がどんな顔をしているのか、朝賀には良く分からなかった。いや、もう分からなくても構わなかった。この時のために自分の人生の運が使われているのだとしたら、今まで人生における意義を一切感じられなかったことも、納得いくような気がした。月森が止めても止めなくてもどちらでも構わなかった。どうせ明日も自分は生き続けるのだろうと朝賀は思った、この男の手を取って。 fin.

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