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光の速さで連れてって Ⅰ

部屋の中は暗かった。それだけが唯一の救いのようにも思えたし、またどこか逆行していく思考を加速させていく要因かもしれなかった。こんなことは何度も繰り返したことに過ぎないのに、と考えて、何度も繰り返したというのは、大袈裟かもしれないと思い直す。せいぜい片手で数えられることを、何度も繰り返したと表現するのは、やや詐欺めいているだろうか。けれどそうして安心を得たい自分自身は、醜く震えてその言葉を待っている。暗い部屋の中、さらに暗く伸びる影が顔半分を覆って、それが合図だと知っている。どこか名残惜しい気もしながら眼を瞑った。唇にそれが触れて、離れるまで約三秒。 「緊張してるの」 唇の端でふふ、と声を漏らして、月森は笑った。していないと答えるには、材料がなさ過ぎた。しているとも答えられずに朝賀はふいと月森から視線を反らした。 「朝ちゃん、ねぇ」 「なに」 「ちょっとは期待して待っててくれた?」 暗がりでもボタンを見つけ、月森はそれを酷く丁寧に外す。そういえばはじめての時も同じだった。朦朧としていても朝賀は自棄にその時のことだけは明確に覚えている。人懐っこく目を細めて、月森は酷く率直にそれを朝賀に尋ねる。余りにも真っ直ぐなその姿勢と視線から逃れたくて俯く。どうしてこう恥ずかしい思いをしなければならないのはこちらの方なのだろうと考えてしまう。 「俺と今日するかもって、思って待ってた?」 それに一体どう答えて欲しいのだろう。おそらく言葉以上の他意などない。月森はそういうことが出来ないわけではないのだろうが、敢えてなのか無意識なのか、積極的にやろうとはしない。特に朝賀とふたりの関係においては。そんなことをしても無駄だとでも言わんばかりに。隠し事のない、試し合いのない、駆け引きのない、微温湯のような関係。一見詰まらないようにも思えるそれを、朝賀は愛していた。目を細めて月森は、ただ単純な好奇心のみでそれをこちらに投げ掛けてくる。朝賀が返答に窮していると、ボタンを外し終わった月森は、その手で朝賀の首筋をついと撫でた。思ったよりも冷たいてのひらだった。 「ねぇ、答えてよ」 「・・・そんなこと聞いてどうするの」 「別に、どうもしない。どうもしないよ」 目尻に笑みを残したまま、月森は体を折って朝賀の唇にキスを落とした。一回りも違う、若い男、若すぎる男の匂いが朝賀の鼻を掠める。月森の唇が自分のそれに吸い付いて、こんなことは夢ではないかと思う一方、こんなに長い夢を見るということは、最早死んでいることと同義なのかもしれないと思う。どちらでも構わなかった。何故か清々しい思いがしていた。 「ビールの味する、朝ちゃん」 月森が笑う。 「ねぇ、まだ。俺とセックスするのにアルコール飲まなきゃ駄目なの?」 「・・・別に、そんなんじゃ」 「素面で待っててよ。素面の朝ちゃんとセックスしたい」 「いやだ、無理だ」 「無理じゃないよ、俺、素面だよ」 キミとは違うんだと、言いかけて口を噤んだ。そんなことは言いたくなかった。例え本当のことでも言いたくはなかった。月森が来る前に慌てて飲んだビールは、いい具合に脳の回転を鈍らせて、顔が赤いのも誤魔化せた。月森には分からないのだと、言いたくて朝賀は言えないでいる。そんな恥ずかしいことを平気で口にする月森と、アルコールで脳を騙しても上手くは振舞えない自分とは、根本的に何か違うのだと、言いたくて言えない。出来れば同じ生き物でいたかった。違うと信じながらも、それを本当にする勇気はなかった。 「やるたびに飲んでたら、朝ちゃんアル中になっちゃうよ」 ふふと声を漏らさず、月森が笑った。それは酷く子どもっぽい笑顔で、朝賀が一番好きな顔だった。アル中にでも何でも、なってしまいたかった。月森のためなら何でも。全てを捨て切れる自信があった、全てを拾ってくれたのが月森だったから。朝賀はそれを思いつつ、けれどそれにばかり酔えないでいた。若くて自由な彼を目の前にして、自分はいかに重たい存在であるかと言うことを、思い知らされるばかりで朝賀の視線はまた地面を這う。月森が与えてくれるものの大きさの前に、自分は何も出来なくて、ただ先に老いていくばかりの体を引き摺って、月森に縋ることも怖くて出来ない。何も出来ない自分は、月森の軽やかな好奇心の前に、ただ震えて立っている。何を答えにすれば良いのか分からず、決めきれずに。 「それにホラ、飲んでたら勃たなくなるって話もあるじゃん」 そう言って何気ない動作で、月森は朝賀の股間を撫ぜた。無意識に体がそれに反応して、びくりとする。どうしてなのだろう、不思議だった。酷い幸福の中、酷く不安定だった。 「吃驚した?」 「・・・―――」 黙ったまま首を振って、月森のシャツを握る。何だか目の奥が痛くて、泣きそうに痛くて、それがどうしてなのか分からなかった。柔らかいものが頬に触れる。ふっと視線を上げると、月森はそこで笑っている。頬だったものが唇に落ちて、朝賀は緩やかにそれに応えた。 「朝ちゃん、泣きそうな顔してるよ」 指が首筋を撫でて喉仏を降りる。月森が口を開くとぴちゃりと水音がして、朝賀は目を瞑った。 「してな、い」 びくつく体をシーツに縫い止めて、朝賀は左手で口を覆った。そうしていないと声が漏れてしまいそうで怖かった。暗がりに月森の唇が開く。それが食んでいるのは、つんと上を向いた胸の隆起だった。見ているだけで発狂してしまいそうになるほど、恥ずかしい光景だった。だから目を瞑って、歯を手の甲に立てていた。痩せた手に犬歯が食い込んで痛かった。 「手、離して。朝ちゃんの声、聞きたい」 「む、り」 そうやって簡単に、何でも口に出せたら。そうやって素直に。首を振る朝賀の手をとって、ゆっくり指の間に月森は自身の指を沿わせる。簡単に不安に陥れるくせに、そこから掬うのも実に簡単にしてみせる。隠すものがなくなってぱくぱくと朝賀が口を動かすのに、月森はまたふふと笑った。 「聞かせて、声」 「い、やだ・・・ァ」 唇から声が漏れるのに、月森は満足そうに目を三日月にして微笑んだ。格好悪い、こんなだらしのない声、何が悲しくて一番大切な人に聞かせなければならないのだ。羞恥に耳まで熱くなったが、それを隠す術さえも朝賀には最早なかった。月森の唇が、朝賀の胸の突起を唇で食む。背筋をぞくぞくと何かが這って、それが脳に届く前に朝賀はそれが快楽なのだと知っている。 「あ、っ、も・・・」 「ね、朝ちゃんここ好き?気持ち良い?」 「しゃべ・・・んん、っ」 自棄に月森は楽しそうだ。大人をからかうのがそんなに面白いのか、卑屈になりながら朝賀は思い切って月森のシャツに手を沿わせた。その薄い布越しに、彼のそれも隆起しているのが、曖昧になりつつある手のひらの感覚から伝わってくる。散々言ってくれたが、自分だって同じではないかと、その時朝賀は妙に勝ち誇った気持ちになった。月森は急にこちらに手を伸ばしてきた朝賀をきょとんとした表情で見つめている。 「・・・朝ちゃん?」 「き、みだって。同じじゃないか、月森くん」 「・・・そうだよ」 からかったつもりだったが、月森の瞳は自棄に真剣だった。吃驚して朝賀は手を引っ込める。何か良くないことでも口走ったのか。一瞬嫌な沈黙が降りたような気がしたが、月森はまるで気にしている様子なく、着ていたシャツをばさりと恥ずかしげなく脱ぎ捨てた。暗がりにその若い男の体が露になる。まるで自分が脱がされているような気分になって、慌てて朝賀はそれから目を反らした。 「朝ちゃんも触る?舐めても良いよ」 「・・・いや・・・そうじゃなくて」 「でもどうせなら、もうちょっと下が良いけど」 「・・・え?」 反らしたはずの月森の視線と、またかち合う。にこりと彼は笑った。そして朝賀のベルトに手をかけ、するするとそれを抜いた。 「おしゃべり終わり。集中してよね、朝ちゃん」 「ちょ、っと、待ってくれ、つき、もりくん」 「待たない。待ってたら日が暮れるもん」 そんなことはないと、言おうとして言葉が続かなかった。月森が手際よく朝賀のスラックスを脱がすのに、手伝ってやる気にもなれず、かと言ってここまで来てそれを阻止するのも意地汚いような気がして、おろおろと迷っている間に、あっという間に下着のみになってしまった。月森がそのまま流れでそれをも取り去ろうとするので、少しばかり抵抗してみたが、結局無駄だった。そのために飲んだアルコールも、騙した意識も、何もかも無駄だった。暗くて良かった、良く見えないのだから、そう思いながらこの暗闇で光る月森の瞳には、全て鮮明に映っていそうで怖かった。それくらいいつも月森は的確だったからだ。

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