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青い夏まで待てない Ⅱ

廊下を曲がったところにでもしゃがみこんでいるのだろうと思ったけれど、そこに朝賀の姿はなかった。足ははやいほうではないからすぐに見つかると思ったけれど、伊原とやりあっている間に朝賀はその遅い足を懸命に動かしたのだろう。考えながら月森はまた動いたせいで出てくる汗を、Tシャツの裾で拭った。階段で上に上がったのだろうかと廊下の突き当たりにある螺旋階段に足をかける。ふっと上を見上げると、朝賀はその中腹に何かから隠れるようにして座りこんでじっと俯いていた。月森は足音を立てないようにゆっくり階段を上ると、俯いたままその朝賀の目の前にしゃがみこんだ。 「朝ちゃん」 いつもり低音でそれが響いて、朝賀は弾かれたように顔を上げた。半分くらい予想がついていたが、その時朝賀は泣きそうな顔をしていた。真っ赤な頬は、もしかしたら少しだけ泣いていた後なのかもしれない。月森は、それを見て胸中で舌打ちをしたいような気分だったけれど、不安そうに視線を漂わせる朝賀の前で、精一杯優しい顔をして微笑みかけた。 「朝ちゃんどうしたの、伊原になに言われたの」 「・・・なにも」 また想像の範囲内だったけれど、朝賀は力なく俯いてまたそう呟いた。 「・・・何でもないわけないじゃん、泣いてるのに」 「泣いて、ないよ・・・そうじゃなくて・・・」 月森がやや強めに主張すると、朝賀は急に慌てたみたいに早口になって、そう言った。相変わらず、取り繕うのが下手くそ過ぎて騙されてやる気にもなれない。月森は肩で小さく息を吐くと、それが分かったみたいに座ったままの朝賀の体が一瞬震えた。 「分かった、いいよ」 「月森、くん」 「伊原に直接聞くから」 「・・・―――」 俯いたままの朝賀をそこに残して、月森は踵を返すと上ってきた階段を何段か降りた。すると朝賀が吃驚したみたいに立ち上がって、月森のTシャツを慌てて掴んだ。それで月森の足は簡単に止まる。月森は前を向いたまま数秒待って、朝賀が何も言わないのが分かってから、ゆっくりと振り返って朝賀のほうを見た。本当は弱っている朝賀相手にこんな駆け引きみたいなことをしてはいけないのだろうと分かっているけれど、なんだかその時、朝賀の言うままに頷いてやるのも癪だった。朝賀が泣きそうな顔をするのも震えて何も言わなくなるのも嫌なのに、月森は時々朝賀を虐めてやりたくなる。 「・・・月森、くん」 「なに?言う気になった?」 「ほんとに・・・大丈夫だから」 「・・・―――」 朝賀が余りにも必死にそう言うので、月森は単純な良心が痛んで、それ以上進むことができなくなってしまった。降りてきた階段をまたとんとんと上って、朝賀の隣に座った。そして無言で朝賀の手を引っ張ると、朝賀は抵抗せずにそのまま月森の横にすとんと座った。 「朝ちゃん、俺、怒ってるんじゃないんだよ、朝ちゃんのこと心配してるんだよ。分かるよね?」 「・・・うん」 「伊原のことはいいの?ほんとに大丈夫?」 「・・・うん、大丈夫」 弱々しく朝賀は呟いて、月森はこんなの全然大丈夫じゃないと思いながら、朝賀をこれ以上追い詰めるのは可哀想だと考えて、それ以上踏み込んでやるのは止めようと思った。隣に座る朝賀の俯いたままの頭をぽんぽんと撫でる。それに朝賀には黙って、伊原には後で話を聞くこともできる。そんなことに意味があるのかどうか分からなかったけれど、朝賀にこんな顔をさせる伊原のことを黙って見過ごすわけにはいかなかった。平常から女の子と付き合っては別れて、を繰り返す伊原は、いつも不確かなことばかり呟いている。友達でいる分には無害だったので、月森は今まで伊原のことを真剣に考えたことはなかったけれど、あの廊下で確かに、伊原は朝賀の腕を掴んで何かをしていた。何かをしようとしていた。それは確かめておかなければいけないと思った。 「朝ちゃん、あそこでなにしてたの?」 「・・・中庭に月森くんがいるのが見えたから、ちょっと、見てた」 俯いたままもごもごと朝賀は言う。それは素直に言うんだなと思いながら、右手でじっとしたままの朝賀の髪の毛を勝手にすく。 「そう、こっち来れば良かったのに。今日俺調子良かったから朝ちゃんにかっこいいとこ見せられたのになー」 茶化したように笑いながら言うと、朝賀はようやく俯くのをやめてちらりと月森のほうを見やった。頬はまだ赤かったけれど、多分意味は違った。 「見てたよ」 「・・・ん?」 「月森くんの、かっこいいとこ見てたよ」 「・・・―――」 その時、朝賀はらしくなく強い目をしていて、月森がそれを見返しても決して反らさなかった。 「僕ね、ほんとはね、今日だけじゃないんだ、月森くんがあそこで遊んでるの見てたの」 「・・・え?」 「よく遊んでるでしょ、月森くん。僕ね、いつもこっそりそれを見てるのが好きだったんだ」 少しだけ目を伏せて、朝賀はそう小さく呟いた。いつからそうしていたのだろう。それは月森が朝賀を認識するよりもずっと前からなのだろうか。それをあんな風にこそこそと隠れて長い間、まるで片想いでもするみたいに。そこまで考えて月森ははっとした。 (片想いでもするみたいに) (朝ちゃんって俺のこといつから好きだったんだろう) 朝賀は伏せた目を月森が何も言わないのを訝しがるみたいに、そろそろと上げた。そこで思ったよりも月森が神妙な顔をして何かを考えているので、朝賀ははっとしたように狭い階段の上で、急に動いて半身を引くようにして、月森から距離を取った。 「・・・ご、こめん!月森くん!」 「え?」 「ごめん・・・へ、んなこと言って、気持ち悪いよね・・・」 「・・・―――」 真っ赤になってしどろもどろにそう言うと、朝賀は視線をまた騒がしく動かしはじめる。勝手にそうやっていつも、悪いほうにばっかり考えて混乱しているのが、かわいいと思える日もあったけれど、不器用でなんだか可哀想でぎゅっと抱き締めてやりたいと思う日もあった。月森は自分で言ったことに自分で狼狽する朝賀の腕を引いて、そしてそれを正面から抱き締めた。 「変じゃないよ」 「・・・つ、きもり、くん・・・!」 「それって朝ちゃんが俺のこと凄く好きだってことでしょ。なら全然変じゃない」 「・・・―――」 腕の中で朝賀は嘘みたいに大人しくなって、月森は少しだけ安心をした。朝賀が月森にはない思考回路で現実も真実も自分に都合悪いように塗り替えてしまうことが多かったので、それをちゃんと正してやることを、月森はいつも面倒だとは思わなかった。大人しくなった頭を撫でて、月森はそっと俯く朝賀に顔を寄せた。朝賀が何をされるのか分かったみたいに、月森の腕の中で一瞬体をひくつかせたけれど、その時、朝賀は後退せずに、その迷ったような瞳を唇が触れる前にそっと閉じた。 fin.

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