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青い夏まで待てない Ⅰ

蝉が煩かった。 「シュート!」 芝居がかった声で月森が言い、放ったオレンジ色のバスケットボールはそのままゴールに吸い込まれていった。それを目で追いかけながら、逢坂は半身になったが、実際体が動いたのは、すっかりボールがゴールを抜けてしまった後だった。 「あー!ちょっともう!心知にボール回したら駄目だって言ってんじゃん!真野っちばかぁ!」 「うるせー!じゃあお前がマークしろよ!」 「あははー、今日の昼飯ゲット?ゲット?」 笑いながら月森はそう言って、着ていた水色のTシャツで額に浮いた汗を拭った。いつの間にか毎日のように降っていた雨は上がって、7月の太陽は真上に輝いている。月森は用事がなくても学校に出向いていたが、周りの皆はそうでもなく、大学4年生になってから、卒論だ就活だと言って、学校に来ても余り友達に会うことができなかった。その日はゼミの振替があったので、久しぶりに何人かと顔を合わせることになった。中庭にはバスケットゴールがあり、2年や3年の頃はよくそれで遊んだものだったが、最近そんなこともご無沙汰になっている。月森はあーだこーだと責任を擦り付け合って口論している逢坂と真野の間を縫って、誰も拾わないボールを拾ってぽんぽんと手持無沙汰にそれを空中に放り投げては掴んだ。 「ねぇもっかいくらいしない?さっきのチャラでいいからさぁ」 「ええー・・・心知ほんとタフだよねぇ」 3年の終わりにはトレードマークの金髪を黒く染めた逢坂は、コートからふらふらと出ていくと側のベンチに座って鞄を漁ってペットボトルを取り出し、それを勢いよく飲んでいた。その頬は赤く染まっていて、肩で呼吸をするくらいには息も上がっているようだった。逢坂とペアを組んでいた真野も側に座って、既にバテているようだった。それを見ながら、折角久々に会えたのだからもう少し遊びたいのにと思いながら、月森はバスケットゴールにひとりで向かって何気なくボールを投げてみた。すると月森の放ったバスケットボールは、きれいな放物線を描いてゴールに吸い込まれていった。 「おっし!」 「やだやだ、2対1でも勝てる気がしない」 それを見ながら逢坂がそうぼやいて、また暑そうにペットボトルから水を飲んだ。 「2対1ってなんだよ、俺も心知と同じチームなんだからお前ら俺にも昼飯奢れよな」 するとベンチの一番端に座って日傘を差している伊原が、思い出したようにそう言った。逢坂が面倒臭そうな顔をして伊原のほうを見る。そうはいうものの、伊原はさっきのゲームもそこでベンチに座ったまま日傘を差して見ていたはずだった。 「伊原っちずりぃ、ひっとりだけ涼しい顔して」 「残念だが俺は汗をかくのはセックスだけと決めている」 「・・・ほんと死ねよお前」 俯いたままだった真野が呆れるように言うのを、月森だけがコートに立って笑いながら聞いていた。我慢できなくなったみたいに逢坂は立ち上がって、伊原の持っていた日傘を引っ手繰った。黒の日傘は縁がレースで飾られていて、おおよそ伊原の持ち物ではないことは明らかだった。どこかで女の子にでも借りたのだろう。素行の悪い伊原は女の子には目の敵にされているようだったが、一方でこんな風にいつ返ってくるか分からない傘を、涼しい顔をして簡単に貸してもらえている。 「ちょっともう伊原っちジュース買ってきて!暇でしょ!」 「別に暇じゃない」 「暇なくせに!はやく行ってこい!」 逢坂が閉じた日傘で突くようにすると、伊原は面倒臭そうな顔をしながら、ふらりと立ち上がった。口では色々言いながら、結局のところ逢坂に従う伊原は何だか面白かった。 「お前らおしるこでいいな」 「馬鹿か!スポドリだっつの!」 逢坂が怒鳴るのに、もう建物の近くまで行っている伊原は振り返って、彼のポーカーフェイスのできる範囲で渋い顔をした。 外はかなりの暑さだったけれど、中に入ってしまえばどこもエアコンが利いているので快適だった。証拠にすれ違う生徒は誰も汗をかいていない、と涼しい顔をしたままの伊原は思った。逢坂はああ言ったものの、そうはいっても炎天下の中、例えバスケに参加していなくったって、見ているだけで暑いのだ。それを逢坂も真野もまるで分かっていない。考えながら伊原は小さく舌打ちをした。カフェテリアのある棟の1階にコンビニはあり、学校が開いている時間は基本的に開いている。中庭からそこまで行くのにそんなに時間はかからない。考えながら伊原が廊下を曲がった時だった。窓に張り付くみたいにして、朝賀が廊下の真ん中に立っているのが目に入ったのは。思わず声をかけようとして、ふと朝賀が何かを熱心に見つめているのに気付いて足が止まる。そっと朝賀が見ている窓の外を見やるとそこからさっきまで自分たちがいた中庭が見えている。逢坂と真野はまだバテたようにベンチに座っているのに、月森だけが笑顔でボールで遊んでいる。成る程、これを見ているのか、考えながら伊原は朝賀の熱を持った横顔を見つめた。こんなに自分は近くで朝賀のことを見ているのに、そんなことはまるで関係ないみたいに、朝賀は伊原には気づかない。それが少しだけ口惜しい気がした。 「せんせぇ」 「・・・!」 間延びした音で朝賀を呼ぶと、朝賀は窓からぱっと視線をこちらに移した。そして伊原を目に捕らえると、あからさまに動揺した目をして、悪戯が見つかった子供みたいにそれを空中に漂わせた。朝賀の目に映っているかどうか分からないが、さっきまで自分もそこにいたはずなのに、考えながら伊原は朝賀のほうに向かって歩き、その距離を簡単に詰めた。 「何見てるんですか」 「・・・いや、別になにも・・・」 朝賀は可哀想なほど真っ赤になって、俯いたままぼそぼそとそう零した。伊原は朝賀の返事などに期待をしていなかったのでほとんど聞いておらず、そこではじめて窓の外を見やったふりをした。丁度、月森がゴールに向かってシュートを打つところだった。 「あぁ、月森」 「・・・いや、違うんだ、たまたま通りかかってその・・・」 「こんなとこでコソコソ見てないでこっち来たらいいじゃないですか」 「・・・え?」 赤い顔をした朝賀が、その時やっと顔を上げて伊原を見た。伊原はその驚いた顔をする朝賀の腕を掴んで、少し強引にぐいっと引っ張った。今まで外にいた伊原の手のひらには、その時朝賀の腕はエアコンの風に冷やされて、随分冷たく感じられた。 「・・・ちょ、っと、待ってくれ、伊原くん」 「何ですか、せんせぇが側で応援でもしてくれたらアイツも喜ぶと思いますけど」 引っ張ろうとする伊原の力に思ったより強く抵抗を示した朝賀は、俯いたままその視線を何かに助けを求めるみたいにさ迷わせた。その仕草がいちいち神経を逆撫でする。そんなことをしても月森は助けには来ない。来ないことを伊原は知っている。どうして月森はこの男がいいのだろう、こんな自分に自信がなくて俯いてばかりでひとりでは何もできないくせに、どうして月森は。 「いはら―」 その時、伊原の背中にそう名前を呼ぶ声がぶつかって思わず振り返ると、そこに先程まで中庭にいたはずの月森が立っていた。 「コンビニ行くのにどれだけかかってるんだよ、ふたりとも怒って・・・―――」 笑顔でこちらに走ってきた月森は、伊原が無表情で捕まえているものの正体に気づくと、途端にその表情を固くして足を止めた。 「朝ちゃん・・・?」 どうして朝賀がここにいるのか分からない月森が、心底不思議そうにそう朝賀のことを呼ぶと、伊原に捕まえられていた手が急に強い力で動き、伊原の支配からあっさりと逃れた。思わず振り返って朝賀のことを見ると、朝賀は赤い顔をしたまま、持っていた本やコピーしたらしい資料を見て分かるほど震える腕で握り直して、伊原がまたそれを捕まえる前にさっと半身になった。朝賀の手の中から古そうな本が一冊滑るとそのままそれが床に落ちる。思わず伊原はそれを目で追いかけていた。 「朝ちゃん!」 その伊原を追い越して、月森は朝賀を追いかけようとして、そのまま行ってしまえばよかったのに、何故か足を止めて一度伊原を振り返った。その月森の責めるような目に、伊原は一体なんと言い訳をしたらいいのか分からないので、そして言い訳をする必要があるのかどうかも分からないので、月森の視線から逃れるために、朝賀が落としていった本を拾った。 「伊原、お前・・・―――」 月森はその時確かに伊原に何かを尋ねようとして、少しだけ何かを躊躇した。月森は伊原がふたりの関係に勘付いていることを知らない。だから余計なことを言うことができない。それもあの男のために黙っているのだと思うと、虫酸が走った。どうしてこんな気持ちになるのか、伊原にはよく分からない。月森が複雑な顔をして、伊原の持っている朝賀の本を引ったくるように取った。 「ちょっとこれ・・・渡してくるから」 そう言うと月森は体を軽く翻して、朝賀の消えた廊下を走っていった。伊原はたったひとりで廊下に取り残されたまま、それをぼんやりと見送っていた。月森には理由がいった。朝賀を追いかけるための。考えながら伊原は、本を拾うべきではなかったのだと静かに後悔した。

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