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その後は、ファストフード店で軽い昼食をとって、話題の新作映画を観て、また街をふらふらと歩いていれば、気づいたら二人、笑って歩いていた。それでも皆、あの三崎絢也(みさきじゅんや)がまさか隣に居るとは思わないのだろう、彼が声を上げて笑って歩いても気づかれる事はなかったし、(あおい)自身も、こんな風に笑って誰かと街を歩くのは久しぶりで、純粋にこの時間を楽しんでいた。 だから、つい油断していた。 「次、どうします?」 そう絢也に尋ねられ、葵は、うーんと唸りながら、空を見上げた。夕暮れに赤く染まる空を見て、そろそろ帰った方が良いだろうと、絢也を駅に促した。絢也は残念そうな顔を浮かべたが、葵は笑ってそれをかわした。 駅に向かえば、午前中よりも多くの人々が駅を出入りしているのを見て、葵は条件反射のように目を伏せた。 「葵さん?」 そっと声を掛けられ、葵は「なんでもないよ」と笑った。絢也はその笑みを見て、少し瞳を揺らし、それから葵の前に回り込んだ。 「ねぇ、まだ帰るには早くないですか?」 「でも、朝からうろうろしてただろ?絢也君は仕事忙しいだろうし、あんまり遅くまで遊びほうけてるのも良くないんじゃない?」 苦笑う葵に、絢也は不満そうな顔を浮かべながらも、葵の意思を尊重してくれたようで、大人しく着いてくる。それに葵はほっとした。 忙しい絢也を気遣って、というのも嘘ではないが、急に怖くなってしまった。人の多さに、その流れるようにこちらに向かう視線が、葵に過去を思い出させる。 今まで絢也と笑って歩いていた自分が信じられない、その視線が隣にいる絢也に向くのを想像すれば落ち着かない。絢也が気づかれたって、きっと自分が想像するような事は起きない、誰も自分の過去に起きた事なんて覚えていない、知らない人の方が多い筈だ。 そう思っても、葵は不安で堪らなくなる。 もしも自分を知っている人に出会って、それをきっかけに、絢也に迷惑をかけてしまったら。 そこまで考えて、葵は足を止めた。 絢也に迷惑をかけるなんて、何を言っているんだろう。本当は、自分を知られるのが怖い、過去を突きつけられる事が怖いだけなのに。 過去はまだ、葵を離さないでいる。乗り越えたのかもしれないと思っても、少し思い出しただけで、葵の歩みを簡単に止めてしまう。端から見れば考えすぎだと思われる事でも、葵にとっては重要な事だった。 「葵さん…、葵さん?」 俯いた視界に絢也の顔が飛び込んできて、葵はびくりと肩を震わせた。 「どうしたんですか?具合悪いですか?」 そう心配そうに見つめられ、葵は慌てて首を横に振った。 「ごめん、違うんだ、ちょっとぼんやりしてて、」 「本当に?でも、顔色悪いですよ?」 自分にだけに注がれる眼差しに、何だか目眩がしてきそうだ。 そうやって、違う意味で更に胸を騒がせていれば、絢也の肩越しに見える人々がこちらに視線を向けているのが分かり、葵は怯えたように瞳を揺らし、絢也から顔を背けた。 「あ、えっと、平気平気。なんか、あの、人に酔った的なあれで、だから、そんな大した事なくて…」 視線が突き刺さるみたいで落ち着かない。絢也は心配してくれているだけだし、通りすがる人はただの通りすがりなだけで、大してその視線に意味はない。そう思おうとしても、一度生まれた思いはなかなか消えてくれない。 葵は、どうしてこうなってしまうのだろうと、いつまでたっても成長のない自分が情けない。 だが、この状況をどうにかしなくては。絢也は心配からか葵の前を退いてくれないし、ずっとこの場に立ち止まっているのは、リスクが多いのではと思えば焦りが募っていく。 何かもっと上手い言い訳はないかと、焦るままに視線を彷徨わせていれば、ふと、駅の壁に貼ってあるポスターが目に止まった。 ふわふわと水の中に揺蕩うクラゲのポスターだ、今にも動き出しそうなそのクラゲの姿に、何故か心が惹き付けられる。 青々とした水の中、こんな風に何も考えずにいられたら、どんなに楽だろう。そんな事を考えていたら、つい口から零れ落ちていた。 「…良いな、クラゲ…」 「良いですね!行きましょう、水族館!」 無意識に出た現実逃避の言葉に、すぐさま勢い込んだ声が上がり、葵は驚いて絢也を見上げた。 「あ、いや、今のは、」 「あのー…」 葵は慌てて、行きたいと言ったのではないと否定しようとしたが、それに割り込むように声を掛けられた。 見ると、若い女性の二人組だ。絢也が思いの外、大きな声を出したせいもあるだろうか、彼女達は確信を得たような瞳で、絢也の顔をちらちらと見上げている。はしゃぎたい気持ちを押し込めているように感じるが、それでも隠しきれていないキラキラとした眼差しに、葵は顔を強ばらせて絢也を横目に見上げた。そして、彼女達にはバレないように絢也の服の裾を摘まんだ。 お前、バレてるぞ、早く逃げないと。 葵はそう合図を送ったつもりだったが、絢也は葵の合図をどう受け取ったのか、帽子のつばを摘まんで顔を隠す素振りを見せながら、何故か嬉しそうに葵に微笑んだ。 葵が不可解に眉を寄せる中、彼女達から「三崎絢也さんですか?」と、声を掛けられてしまった。やっぱりバレていたのか、葵は当事者でもないのに顔を青ざめさせ、絢也の服を摘まんでいた指に自然と力を込めた。過去に自分に起きたことが、頭の中で勝手に未来へと変換されていく。未来がどうなるのかなんて、誰にも分かりはしないのに、それでも勝手に想像して、どうしたら良いのか分からなくなる。 「違いますよ」 このまま、暗い海の底へと引きずり込まれそうだった気持ちが、絢也の一言で浮上する。いや正確には、言葉と共に握られたその手にだ。葵がきょとんとして絢也を見上げると、絢也は帽子のつばを上げ、彼女達に微笑んでいた。その姿に、葵は首を傾げた。何故、顔を隠す筈の帽子のつばを上げたのか。 彼女達同様に、葵もまさかの事に束の間固まっていると、絢也は葵の手を引いて、耳元で囁いた。 「行きましょう」 そう小声で囁いた顔には、いたずらっ子のような笑みが広がっており、葵が「え、」と、間の抜けた声を上げている間に、絢也はその手を握っていきなり走り出した。 「やっぱり今の、絢也だよ!」と、興奮した黄色い悲鳴が、後ろから少々遅れて飛んでくる。 そこで葵はようやく気づいた。 「おい!今のわざとか!?」 「あはは!」 「あはは、じゃないだろ!」 そう怒りつつも、楽しそうな絢也を見ていたら怒る気力も失くなってくる。それどころか、絢也の楽しそうな気持ちまで伝染してくるようで。繋がった手に、胸を弾ませている自分がいる。 そうして気づく、この手にまたもや助けられたこと。絢也の手は、糸も簡単に葵を暗い海の底から連れ出して、葵の世界を変えてしまう。 しっかりと握られた力強いその手に、その背中に、葵は何故だか泣きそうになって、こっそりと唇を噛み締めた。 結局この日も、二人は慌ただしく帰宅した。 「芸能人って結局ばれるんだな…」 確信犯だと言いたいが、帽子を上げる前からバレていた気もするので、これ以上は責めずにおこうと葵は思った。 だが、毎回こんなに走り回っては、体力が心配だ。普段、運動をしない人間が、そこそこ全力疾走で、そこそこの時間逃げ回るのは、十分の体力の消耗となる。昨夜も今朝も気を張っていたせいもあるのだろうか、あまり疲れを感じる事はなかったが、いよいよ明日辺り、疲労は筋肉痛と共にやって来そうだ。 逃げ回るのはしんどいが、葵は絢也に感謝もしていた。あのままあの場所で立ち止まっていたら、葵はこの家に帰ってくる事はなかったかもしれない。 「普段はこんな風になりませんよ。今日は…昨日もだけど、葵さんと居たから」 玄関から先に部屋へ上がりながら、葵は不思議そうに振り返った。 「俺?なんで俺のせいだよ」 「だって、キレイだから。葵さん目立っちゃうんですよ」 非難されているのかと思ったが、絢也はその頬を柔らかに緩め、まるで愛しいものに触れるように、葵の頬に手を触れた。突然の接触と、真正面からそんな風に見つめられたら、葵の頬は瞬く間に熱くなった。 「そ、そうやって、すぐからかう!お前、男まで口説くつもりかよ!」 葵はそう笑うと、さりげなくを装って顔を背け、足早に部屋の奥へ進んだ。 朝と同じ言葉でも、今は胸に暗い渦がかかることはなく、下手したら、それより質が悪いかもしれない。 触れられた頬がやけに熱くて、胸が痛いくらいに煩くて。形が現れ始めた想いを誤魔化そうと、ひとまず絢也から距離を取ろうとするも、狭い部屋の中だ、すぐに捕まってしまう。 「からかってませんよ」 手を掴まれて足を止める。 「さっきわざとバレたのも、葵さんと手を繋げるかもって思ったからですし、あの子達、葵さんのこと結構見てたし」 手首から手の平を辿る指先が、躊躇いつつも葵の手を覆う。少し見上げる位の背丈の違いだが、絢也の手は葵の細い手を包み込む。 自分を見ていたから何だと言うんだ、絢也に気づいたから、隣の男は誰だろうと思って見ていただけだろう。そう言いたいのに、その手の熱さに、意図的に辿る指先の行方に、ドキリと胸が音を立てて上手く声が出てこない。 今、何が、起きてるんだ。 「ね、葵さん、」 ド、ド、と高鳴る胸は、一体何を期待しているんだろう。絡まり、熱を弄ぶような指先に、葵は咄嗟に俯いた。絢也は繋いだままの手を引き寄せる、躊躇いがちに腰に触れるその手が優しくて、葵は更にどうして良いか分からなくなる。 「葵さん、ダメですか?」 熱い手が腰元を辿る、囁く声が全身を撫でるようで、堪らず葵は固く瞼を閉じた。 ダメだ、頭がおかしくなる。 近づく気配に、葵は顔を上げると同時に、絢也の唇に人差し指をあてた。 「………」 それから、じっと絢也の瞳を見つめると、絢也の頬はみるみる内に赤くなった。戸惑いに瞳が揺れ動き、手が所在なく動き忙しない。 その様子をしっかり見届けて、葵は吹き出すように笑ってしまった。 「あはは!狼狽えすぎ!全国の女子に見せてやりたいな」 先程の艶めいた空気はどこへやら、すっかり調子を取り戻したかのような葵だが、内心、心臓が壊れるのではという思いの中、命からがら逃げ延びた、という心境だった。 なんだ、あれ。ついさっきまでは可愛い大型犬のはずだったのに。 流されていたら、どうなっていたか。いや、そもそもこれはどういう状況だ。どうなっているんだ。 だが、そんな混乱状態の葵の心情など知るよしもない絢也は、赤い顔のままムッとした様子で、キッチンに入っていく葵の体を後ろから抱きしめた。 「お、おい、」 「ハグは良いんですよね」 「え、」 少し怒った声に、葵は怒らせてしまったかと内心焦ったが、更に強く抱きしめられ、肩を強ばらせた。 「俺は今、すっごく傷つきました」 ぎゅう、と音が聞こえてきそうな腕は、放すまいと訴えている。怒った相手への報復が、怒った相手へのハグで良いのか。絢也の行動に戸惑いつつも、葵はそっと肩から力を抜いていた。 ハグは人を癒す効果があるという。今までは、ヒモをしてきた彼女達のペットで良いと思っていた生活だったが、これではどちらが飼い主か分からないなと葵は思い、首筋にすり寄る頭を、そっと撫でた。 「…ごめんな」 「俺もごめんなさい、ハグまでなのに」 「………」 やはりというか、それ以上を望まれていた事に、思わず力の抜けた肩が跳ねた。 「ははっ、冗談ですよ、仕返しです」 つられて笑みを浮かべたが、今の言葉は本当に仕返しなのかと、疑ってしまう。 なのに、こんな風に抱きしめられて嫌な気がしない、何より、急速に縮まる距離に心地よさすら覚えているのが、自分でも不思議だった。 彼の事は何も知らない筈なのに、この腕の中に収まる事を、初めから知っていたみたいだ。

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