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気をつける、といっても、どのように気をつければ良いのだろう。 (あおい)は、スーパーで買い物を済ませて外に出ると、照りつける日差しに片目を閉じた。 気をつけて生活するにしても、隠れて買い物をするのも、極力部屋から出ないというのも、かえって疑惑を生みそうだ。かといって堂々としすぎても、相手に好きにいじって下さいと言っているような気もして、それはそれで、不安になる。 絢也(じゅんや)に迷惑を掛けない為には、やっぱり早い所、絢也の家を出るほかないのかもしれない。 絢也はどう思うだろう、分かってくれるだろうか。でも、何か起きてからでは遅い。それに、二人の間には、明確な繋がりもない。 点滅する信号機、横断歩道で葵は足を止めた。 ジリジリと熱いアスファルトの照り返しを見つめ、一歩前で足を止めた白い日傘につられて顔を上げれば、前の道路では車が次々と走り抜けていく。 不安に揺れる胸の中心が途端に騒めいて、葵は、大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせ、ゆっくり息を吐いた。 エコバッグを持つ手を握り直し、いつか見上げた背中を思い出す。 絢也から貰った、手を引かれて連れて行ってくれたあの思い出だけで、前に進めそうな気がする。絢也には感謝しかない。 仕事の当てはないけど、過去が付きまとって怖いけど、どうにかなる。どうにかする。もう、誰かを頼って逃げてばかりもいられない。 口元に笑みを浮かべてみたけれど、それも思うようにいかず、葵は結局、溜め息と共に俯いた。 そんな風にぼんやり考えていると、スマホが着信を知らせた。画面には、絢也の名前が表示されている。葵は道の端に寄ると、立ち止まって電話に出た。 信号が青に変わり、人が流れていく。 「もしもし?」 「葵さん、大丈夫?何もない?」 第一声の心配の声に、葵は思わず頬を緩めてしまう。 「何もないよ、今買い物から帰るとこ」 あの週刊誌の報道以降、絢也は何かと葵を気にかけ連絡をくれるようになった。こんな風に心配されて、絢也の周りの人達からはどんな目で見られているのか。その心配はあったが、それよりも単純に嬉しいというのが率直な気持ちだった。 「あ、もしかして駅前のスーパー?」 「うん、そうだよ」 「本当ですか?俺もその近くに居るんです!」 「本当?」 絢也の言葉に葵は顔を上げ、キョロキョロと辺りを見回す。スーパーから出て駅の方へ顔を向けると、近くに一台の車が停まった。 「あ…あの車かな」 「え?」 車に向かう葵だったが、そこから出てきた人物を見て足を止めた。 絢也の電話口からは、町の喧騒と、葵と誰かの話し声が聞こえてくる。少し遠くから聞こえるのは、葵がスマホを耳元から遠ざけたか、声が聞こえないように手か何かでスマホを伏せているせいかもしれない。 「もしもし、葵さん?葵さん!」 元からあった心配が、戸惑いと不安に瞬く間に包まれていく。絢也はその思いのまま何度か葵に呼び掛けると、少しして葵の声が近くで聞こえてきた。 「…ごめん、ちょっと用事が出来たから切るな」 「え?」 葵はそれだけ言うと、本当に通話を切ってしまった。焦ったように早急に切られた通話に不安を覚え、絢也は乗っていた車の窓から外の様子を窺う。目的のスーパーの側に来た所で、一台の車の前に立つ葵の姿を見つけた。 「立花(たちばな)さん、停めて!」 「は、はい」 運転席の結依(ゆい)に声を掛ける。車道脇に車が停まると、絢也はすぐさま車を降りた。 「葵さん!」 声を上げるが、葵は既に車に乗り込んだ後だ。絢也は迷う事なく彼を追いかけようと、側のガードレールを飛び越えようとしたが、焦って車から降りてきた結依に止められてしまう。 「ちょっと何やってるんですか!」 大声を出して目立つ行動をして、誰が見てるとも分からないのに。今度は、“三崎絢也、町中で 叫ぶ。呼び止める相手とは…?”もしくは、“別れ話に奇声を上げる”とか、また面白おかしく書かれたら堪ったもんじゃない。 結依はいつだって、絢也を一番に考えている。だが絢也は、そこまで自分の事も周りの事も考えていない。 「立花さん、あの車追って!」 そう言って、今度は車に乗り込む絢也に、結依は溜め息を吐いて運転席に乗り込んだ。 「早く!見失う!」 「バカ言わないで下さい!これから番組収録です!どうしてもって言うから、回り道して来たんですよ」 「葵さんが浚われたんですよ!?」 絢也の鬼気迫る様子に反し、結依は頭を抱えた。 「何を根拠に、」 「葵さんに何かあったら、真っ先に助けるんじゃないの!?」 「月島さんが何か言ったんですか?浚われたと、緊迫した様子でしたか?」 「…いや、」 「私の目にも、自ら車に乗り込んだように見えました。知り合いかもしれないじゃないですか。もう一度連絡してみては?」 「…うん」 再度電話を掛けてみると、葵はすぐに電話に出たので、絢也は前のめりになってスマホを握りしめた。 「葵さん!無事ですか!?」 「あはは、無事ってなんだよ、心配し過ぎ」 それは、いつも通りの葵の声だった。 「でも、さっき、なんか様子が違ってましたから…」 「うん、ごめんな、急に切って。昔の知り合いに会ってさ、あ、今日何時に帰る?」 「今日は…十時には」 無理ですよ、と横から声が入る。 「十一時には!」 絢也が結依を睨むと、結依は肩を竦めた。 「うん、分かった、待ってるよ」 「なるべく早く帰りますから!」 「うん、気をつけて帰ってこいよ、仕事頑張ってな」 葵は笑顔で電話を切ると、その顔から笑みを消し、助手席から運転席の男へ視線を向けた。 「良いんですか、そのような約束をして。あなたを帰すも連れ去るも、私次第ですよ」 「あなたは優しいから、そんな横暴な真似はしませんよ」 感情の消えた瞳で、葵は視線を窓の外へ向ける。 男は、優しく表情を緩め、葵に向けた視線を前に戻した。彼は、吉永勇次(よしながゆうじ)、年齢は四十前後くらいだろうか。こざっぱりとした黒い髪に、スーツの上からでも分かるがっしりとした体躯、強面の顔だが、いつも優しく笑っているのが葵の印象だ。 葵は溜め息を吐いて、車窓の向こうに流れる景色に目を向けた。 「俺が車に乗ったのは、お願いしたい事があったからです」 「私にですか」 「あなたにしか頼めません。どうせ居場所はバレているんでしょうから」 「そうでなきゃ、ここに私は居ませんね。お帰りでしたら、いつでもお迎えにあがりますよ」 「俺は戻りません」 「では、お願いは聞けませんよ」 「それでも俺は、あなたにしか頼めませんから」 「それは困りましたね」 勇次は笑って言う。彼は困ったというが、本当は困ってなどいないのは葵には分かっていた。彼の中ではいつだって最優先順位があって、大体の答えが決まっているのを葵は知ってる。だから、彼の声はいつも優しい。 「お話だけは聞きますよ。私は、あなたの味方でもありますから」 「…だと良いけどな」 答えが決まっているからこそ、いつだって、嘘か真か分からない。 ここでどちらかを見極めようとしたって、一分後、世界がどうひっくり返っているのか分からないように、人はいつだって、意見を裏返し変えていく。 それでも変えられないものがあると信じたいのも、また人なのだろうな。 葵はそう思い、知らず内にエコバッグを持つ手を握りしめ、不安なのか恐怖なのか分からない感情を、必死にやり過ごそうとする。 この先、自分はどこへ行くのだろう。窓の外、帰る場所のある人々を羨んで、葵は目を伏せた。

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