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「…本当にすみませんでした」 「あ、謝らないでよ。俺こそごめん、なんか騒ぎになっちゃったみたいで…」 「…あの、」 絢也(じゅんや)は弱々しく瞳を彷徨わせながら、(あおい)の手を取ったので、葵は思わずドキリとして絢也を見上げた。 「…ここ、出て行きませんよね?」 そう口にする絢也は、まるで雨の中に置いてきぼりにされた子犬のようだ。 葵は口を開き、だが何も言葉にならず、すぐに口を引き結ぶと笑みを浮かべた。 「今、出て行けって言われても、行くとこないよ。置いてくれるなら有難い」 葵の返答に、絢也は安心した様に頬を緩めた。 「勿論です!俺が葵さんを守りますから!」 そう力強く言う絢也は、先程とはうってかわり、キラキラとした瞳を向けてくる。その変わり様に、葵は笑いながらも安心していた。 絢也が、本当にここにいてほしいと思ってくれていると、感じられたからだ。 絢也は葵の事を知らない。絢也にとって葵は、同居人として写真を撮られただけ、それだけと言ってしまえばそれまでだが、それだけで終わらない場合もある。それが真実であれ想像であれ、何かを記事に書かれれば、葵は絢也の重荷になりかねない。 だから、同居を解消しないと思ってくれたのは、嬉しかった。 このままでいられないにしても、その絢也の気持ちが嬉しかった。 「ありがとう、俺も気をつける」 「いえ、葵さんは悪くありませんから。あーでも…俺がもう少し側に居られたらな…」 がっくりと肩を落とした絢也に、葵は先程とは違う意味で胸が騒ぐのを感じた。一緒にいたいと思ってくれる、それだけでこんなに嬉しいなんて。 でも、それは表に出しちゃいけない気持ちだ。 葵はその思いを丁寧に押し込めて、リビングへ向かう絢也の背中に声をかけた。 「…今日は、まだ仕事あるのか?」 「はい。今、ちょうど空き時間なんですよ」 「忙しいんだな…」 言いながらリビングに向かい、広げたままだった道具を片していると、絢也は葵の手元を覗き込んで目を丸くした。 「え、葵さん絵描くんですか?」 「あー…うん、たまにな」 苦笑い、葵は慌ただしく片付け始める。絢也がその様子を見守っていると、葵の手元から一枚の紙が零れ落ちた。「落ちましたよ」と、それを拾った絢也は、その絵を見て目を輝かせた。 そこには、紙いっぱいに大きなひまわりが描かれていた。細部まで繊細に描き込まれながらも、色とりどりに描かれたその花の力強さに、迫力に、絢也は胸を震わせた。 「あ、ごめんな」 絵を受け取ろうと葵が手を差し出すが、絢也はその絵から目を離せず、そして何か思いついた様子で顔を上げた。 「葵さん、この絵使わせてって言ったら使わせて貰えるんですか?」 「え?」 言われてその絵に視線を落とした葵は、戸惑いに瞳を揺らした。 「…何に使いたいんだ?」 葵が尋ねると、絢也は少し躊躇いがちに口にする。 「…俺の知り合いのバンドが、新曲のジャケットに使う絵を探してて。インディーズなんですけど」 「へえ、なんて名前なんだ?」 「“ひまわり”。…ダサい?」 「はは、可愛いんじゃないか?元気なバンドかなって思う」 「……実は、俺もメンバーの一人だったんです」 すると、今度は葵が目を丸くした。確かに絢也は歌が上手いと評判だったが、まさかバンドをやっていたとは思わなかった。絢也にバンドマンというイメージは無く、今の絢也に対する世間のイメージは、完成されたスターだ。だから尚更、葵は驚いていた。 「え!意外だなぁ…でも歌上手いもんな」 「ありがとうございます。本当なら、みんなで一緒にデビューする予定だったんですけど」 苦い顔で、「気づいたら一人になってました」と絢也は笑った。 「さっきの立花さんが、俺達に声掛けてくれてバンドでデビューする予定だったんですけど、気づいたら、俺一人でデビューする話になってて。ツインボーカルだったんですよ。仲間達は先に行って待っててくれって、後で合流しようって、ボーカルの穴も埋めないでくれてて。でも、もう戻れないですね」 作り上げられた三崎絢也のイメージは、絢也の居たバンドとは異なるのかもしれない。 それに、絢也は歌よりも俳優としての印象の方が強い。 事務所は今売れてる絢也を、そのイメージを変えてまでバンドに戻したくないのだろう。 絢也もそれが分かるから、変えられないから、だから、少しでも仲間達の力になりたいのだという。 「一緒にやろうって言ったんだけど…」 「だから反発して引っ越したり?」 「それは、浅見さんがしつこく家に来たりするのもあって…」 言ってから、絢也ははっとした様子で葵に詰め寄った。 「まさか、報道の事信じてないですよね!?俺、彼女とは何もないですからね!?」 焦った様子で言い募る絢也に、葵はきょとんとして、それから笑った。 「本当ですよ!?」と葵の肩を必死に揺らす絢也に、「分かった分かった」と葵は笑って頷いた。 そうか、彼女とは何でもないのか。 かといって、自分が彼の隣に立つ事は出来ないけれど、それでも、誤解を解こうとしてくれる、その気持ちが嬉しかった。 必死に彼女との誤解を解こうとしてくれている彼を見ていたら、居てほしいと思ってくれた事、守ると言ってくれた事、それらが突然真実味を持って胸に押し寄せて、葵は何だか泣きそうになった。 どうして大事にしてくれてるのだろう。その気持ちがただただ嬉しくて、愛しくて。葵は泣きそうになるのを、必死に笑顔の裏に隠して誤魔化した。 「また一緒に出来ると良いな」 「……出来ませんよ、今の俺じゃ」 「分からないじゃん。マネージャーさん諦めないって言ってたじゃないか、そのバンドの事なんじゃないのか?」 「そう、ですかね…」 あの、まっすぐで悩みなどないと思っていた瞳も、揺らぎ惑う事があるんだな。 そう思いながらも、それでも葵は、絢也の事が凄いと思った。 望まぬ道でも進めたのは、諦めなかったからだ。諦めたと見えても、絢也はまだ信じている。自分を、仲間を。信じられるのは、凄い事だ。 葵は、諦めてしまったから。 「その絵、気に入ってくれたら使っていいよ」 「本当ですか?」 「うん」 「早速みんなに連絡します!」 「あ、ただ、俺の名前は伏せといてくれるか?」 「まずいですか、名前出ちゃうと」 「えっと…恥ずかしいじゃん。シークレットなら使ってもよし」 「はは、分かりました、ありがとうございます!」 葵は笑んで、「コーヒーでも淹れようか」と立ち上がる。 早速スマホで葵の絵を撮り始めた絢也を眺め、葵はそっと目を伏せた。シンクに映る葵の表情は、少しだけ迷いに揺れているようだったが、それでも顔を上げた時には、その迷いごと受け入れたような表情を浮かべていた。 仕事に出て行く絢也を見送って、葵は再び画材を広げた。 イメージは固まった、自由なクラゲだ。 葵が手に入れた筈の世界。でも、そこには何も無かった。 あるのは暗い海の底、そこに射し込む太陽の微かな光、手を伸ばして欲したのは、一体何だったんだろう。 ふわり、浮かんだクラゲの意思は、どこにあるのだろう。 「…描けた…」 葵は自身の絵を前に、呆然と呟いた。 真夜中過ぎに描き上げたクラゲは、大きな海の中、大空の下で羽ばたく鳥のように自由で、無邪気で、逞しい。煌めく太陽の灯りを一身に受けて、葵の希望を乗せている。 そして、今思う。 絵を描く事がやっぱり好きだ。 描き上げた満足感に頷いて、葵はぐっと伸びをして息を吐いた。 そろそろ寝るか、と片付けをして、部屋の灯りを消す。絢也の帰りは翌朝になると言っていた。 その電気の消えた部屋を見て、マンションの前を一台の車が走り抜けて行った。

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