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(あおい)の痕跡は、この部屋の至る所にある。冷蔵庫の中の作り置きしてくれた煮物などのおかず。家事のノートには、細かくその日の出来事や報告が記されており、時折、誤字脱字があるのが微笑ましく、絢也(じゅんや)を寂しくさせた。 一人の家に帰ってきて、絢也はソファーに置いた葵の絵を手に取った。額に入れて飾ろうとも思ったが、壁に掛けてしまうと思い出になってしまいそうで、困り果てた絢也は、絵が破れては困るので、とりあえず額だけ入れて、飾らずにソファーの上に置いておく事にした。この方が手に取って眺める事が出来るし、葵が帰って来そうな気がする。願掛けのようなものだ。 因みに、葵のキャロットも絵の側に座らせた。 今にも手の中で泳ぎ出しそうなこのクラゲは、どんな場所で泳いでいるのだろう。色とりどりの水の中、ただ自由に、楽しそうに生きている。葵もそうなのだろうか、こんな風に生きたかったのだっろうか、この部屋では出来なかったのだろうか。 「…そうだよな、俺がいたんじゃ…」 自分が有名人のくくりにいなければ、葵はここに居てくれたのだろうか。 考えれば考える程、葵に自分は相応しくない気がして落ち込んでしまう。だが、絢也はそれでもその落ち込む自分に首を振り、顔を上げた。 今、ここで何を思おうが、葵から直接話を聞けた訳ではない。 まだ、葵の気持ちは分からない。 絢也はそう自分を勇気づけて、それから再び葵の絵に視線を向けた。 このクラゲの絵は、ヒマワリの絵とは違う印象を受けた。 迫力の代わりに深みがあるというか、果てしない海の底に吸い込まれそうな、そっと優しく包まれるような穏やかさを感じる。 「…葵さん、どこにいるんだよ」 投げ掛けた呟きに答えは返ってこない。葵がただ側にいてくれたら、どんな事だって頑張れるのに。葵がいたから仲間とも出会えて、今、こうやって仕事をしていられるのに。 その感謝すら、絢也はまだ伝えられていない。 もどかしさをどうすることも出来ないまま、絢也がただ絵を眺めていると、インターホンが鳴った。 誰だろうと、絢也は首を傾げる。結依なら事前に連絡がくる筈だし、宅配も来る予定がない。他に家を訪ねてくるとしたら…そう考えを巡らせて頭に過った人物に、絢也は途端に嫌な顔をした。 「まさか、浅見さんじゃないよな」 もしそうなら、申し訳ないが、今はあまり会いたくない。 例え七菜でなくとも、今は誰かに会いたい気分にはなれず、このまま居留守を使おうかとも思ったが、インターホンは何度も鳴らされるので、絢也は仕方なく立ち上がった。 勧誘か何かだったら、さくっとお断りして帰って貰おう、そう考えていたので、相手を確認しないまま玄関のドアを開けた。 「……」 ドアを開けて、絢也はきょとんとする。予測を立てていた人物の誰とも違い、どう見ても勧誘には見えない人物だったからだ。 絢也の家を訪ねてきたのは、二人の男だった。 一人は絢也と同じ位の背丈で、歳は三十代半ば位だろうか、細身だが、どこか威圧感のある男だ。短い焦げ茶色の髪は整い、目つきは少し怖いが、スーツ姿が様になっている。全体的に清潔感のある男性だ。 そしてもう一人、彼から一歩下がって立つ背の高い男は、勇次(ゆうじ)だ。絢也が仕事の合間に葵に会いに行った日、葵が目の前で見知らぬ車に乗り込んだ事があったが、彼はその時の車の運転手だ。あの時は、遠目に葵の姿が見えていただけなので、絢也は勇次の姿を見てはいない。 「…どちら様ですか?」 絢也は警戒心を持って尋ねた。二人とも絢也の知り合いではないし、自分にどんな用があるのか検討もつかない。部屋を間違えているのかと思ったが、二人にそんな様子もなかった。まっすぐと射るような瞳を向ける手前の男は、間違いなく自分に用があって来たのだろうと、絢也は訳が分からないまま身構えた。 「突然すみません。私、ミヨシリゾートグループの副社長をしている、三吉一葉(みよしかずは)と申します。こちらは、秘書の吉永(よしなが)です」 「…え、」 威圧感に加えて、鋭い眼差しに冷ややかな声。対面すれば思わず怯みそうになるが、名刺を差し出す所作はとても丁寧だった。だがそれよりも、絢也は一葉の正体に驚いて目を丸くした。 ミヨシリゾートグループといえば、世界にも事業展開をしている大企業だ。高級ホテルが有名だったが、最近は安価でもリッチな気分を味わえるホテルなどを展開して話題になっていた。 だが、そんな人物が何故自分に会いにくるのか、絢也には全く検討がつかなかった。そもそも、どうして絢也の家の住所を把握しているのか疑問だが、絢也はそこまで頭が回っていないようだ。 「|月島《つきしま》葵さんの事でお聞きしたい事があります」 「葵さんの!?」 思わず声を上げてしまい、絢也は慌てて口元を抑えながら、改めて二人を見やった。こんな偉い人達と、葵は一体どんな関係なのだろう。誰かの家を渡り歩いていた葵だ、この人にも世話になった事があるのだろうか、そう考え始めたら、腹の底からもやもやとしたものが沸き上がってきたが、絢也はそれをどうにか押し込め、二人を部屋の中へ促した。 「どうぞ、上がって下さい」 絢也は床に放っていた鞄や本等を拾いつつ、リビングへ案内する。 葵の事で話しとは、一体どんな話だろう。二人は葵の居場所を、ここを去った理由を知っているのだろうか。 絢也はソファーに二人を促しながら、一葉を見た。もし、葵が彼の側に居るとしても、まだ会えるチャンスがあるならそれを手放したくなかった。 「えっと、コーヒーで良いでしょうか」 「お構い無く。すぐに、」 言い掛けて、一葉はソファーの上に置かれた絵に目を留めた。 「これは、」 「あ…、葵さんが置いていったものです」 キッチンから絢也が声をかけると、一葉はそれを手にし、そっと指でなぞっていく。 「葵の絵か…」 呟いて、一葉はそっと口元に笑みを乗せた。 「君の前では描けたんだな…」 「え?」 「彼に会ったら伝えてくれないか、ちゃんと謝りたいと」 一葉はそう言って、絵をソファーに戻した。その瞳はどこか寂しげに揺れていた。 「それだけ伝えたかったんだ、失礼する」 「……え!?」 そのままさっさと玄関に向かってしまう一葉に、絢也は拍子抜けする。コーヒーもいれてないし、葵との事は何も聞けていない。それに、伝言を預けたという事は、葵は彼の元にもいないという事だろうか。 「あの、」 「お騒がせしてすみません。副社長、いつもあんな調子で。もし何かありましたら、こちらに連絡下さい」 一葉を追いかけようとしたが、それを遮るように勇次が立ち塞がり、絢也は困惑したまま彼を見上げた。 「…あの、葵さんとはどういうご関係なんですか?」 「昔の知り合いです」 それから勇次は、一葉が玄関の外に出たのを見届けると、スーツの内ポケットから水族館のチケットを取り出した。 「もしよろしければ、これを。今度の日曜、閉館後の十時にお待ちしております」 「え?」 「失礼します」と頭を下げ、勇次は一葉を追っていく。さっさと出て行く二人を慌てて追いかけたが、マンションの廊下の先で勇次ににこやかに会釈され、絢也はその場で足を止めた。これ以上は控えて欲しいと勇次は言っているようだ、そうなれば追いかけて問いただす事も出来ず、絢也はその場で頭を下げて、ただ二人を見送るだけだった。 そのまま玄関のドアを閉めると、一体何だったんだろうと、絢也は手元のチケットに目を落とした。 「…あれ、そういや何で閉館後なんだ?」 せっかくチケットがあるのに、水族館が閉まってから来いとはどういう事だろう。単純に、チケットは住所代わりに置いていったのだろうか。 それにしても、葵とは昔の知り合いと言っていたが、どういった関係の繋がりなんだろう、一葉は葵の何を知っているのだろうか。 それに、謝りたいとはどういう事だろう。どうして直接伝えないのか。あんな大企業の人間なら、優秀な探偵でも頼んで葵を探す事も出来そうだが。 「謝るって、悪い人なのかな」 それとも、謝りたいのはいい人だからだろうか。 絢也は訝しみながら暫しチケットを見つめていたが、ふと葵の残した絵に目を向けた。 「…クラゲはこんなに自由なのにな」 一体、どこに居るんですか、葵さん。 「…俺のせいかな」 もう顔も見たく無いと、出て行ったのだろうか。 考えれば考える程分からなくて、ただ恋しくて、絢也はソファーに倒れ込むように寝転ぶと、ふわりと浮かぶクラゲを天井にかざし、それから目を閉じた。 「良いんですか?」 マンションを出た勇次は、表に停めた車に寄りかかっていた一葉に声をかける。一葉は頷いて、勇次がドアを開けるのを待っている。 表情こそ変わらないが、彼が何を思っているのか大体想像がつく。これでも長い付き合いだ。 「あなたも…」 「なんだ?」 「…いえ、なんでも」 仕方なさそうに表情を緩めた勇次を見上げ、一葉はムッとした顔をして、彼の足を軽く蹴飛ばした。 「いた、」 「ざまあみろ」 「大人げないですよ」 まったく、と溜め息を吐きながら、後部座席のドアを開けると、一葉は悪びれる様子もなくさっさと車に乗り込んでいく。勇次はドアを閉めて運転席に回ると、少し遠回りでもして帰るかと、自身も車に乗り込んだ。 「…俺には、何も出来なかった」 後部座席で呟く彼をバックミラー越しに見て、勇次はエンジンを掛けた。 「仕方ない事もあります。あなただって、被害者じゃないですか」 「守れる力はあった」 するりと離れたその手を、掴む事が出来なかった。立ち向かえても、まだ、守り方を知らなかった。 一葉は、自分が葵から絵を奪ったと思っている。 「相変わらずご自分に厳しいですね、坊っちゃんは」 すると、運転席が揺れた。一葉が運転席のシートを蹴ったのだ。世間的にはパワハラだろうか、しかし、その足癖の悪さも、その足が出る理由も、勇次はよく知っている。勇次にとっては、最早じゃれているのと変わらなかった。 「坊っちゃんはやめろと何度言わせる」 「そういう事するから、坊っちゃんって言われるんですよ」 ふん、と腕を組みそっぽを向く一葉に、勇次は笑いハンドルを切る。 「私にとっては、いつまでもあなたは坊っちゃんですよ」 「……言ってろ」 いつまでも味方だと。 言葉以上の気持ちが一葉の棘を撫で、少し和らげたようだった。

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