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薄暗い水族館の中、ライトアップされた水槽を横目に、絢也 と葵 はまだぎこちない速度で歩いていく。
先程通った受付カウンターには、まだ二人のスタッフが残っており、「本日は貸切となっておりますので、ごゆっくりどうぞ」とにこやかに促され、絢也は慌てて礼を言って頭を下げた。
きっと、見えない所でも、まだスタッフが残ってくれているのだろう。今、この水族館は自分達の為に開けてくれているのかと思えば、絢也の胸の内は、感動と有り難さに満ちたが、葵を振り返ってみれば、その舞い上がった気持ちがしゅんと萎んでいくようだった。
そうだ、浮かれてる場合ではない。まだ、葵の気持ちを何も聞けていない。
葵は水槽を見上げるでもなく、少し俯いて、黙ったまま絢也の後ろを歩いている。その様子は、戸惑っているようにも落ち込んでいるようにも見えた。
これでは、せっかく貸切という贅沢な時間を貰ったのに、二人きりの時間を楽しむどころではない。まるで、海の中で迷子になってしまったようで、絢也は不安が焦りに変わるのを感じた。
やっぱり、自分のしている事は葵の迷惑にしかならないのか。
そう思いかけたが、絢也は急いで頭を振った。いや、そんな事はないと、沈みそうな心を叱咤する。
葵の笑った顔が見たい。その為には、ちゃんと話をしなくては。
だけど、一体何から話したら良いのだろう。
聞きたい事、話したい事はたくさんある、だけどどれも少し怖い。絢也の気持ちは変わらないはずなのに、また葵を引き止められなかったらどうしようと、臆病になってしまう。それと同時に、念願の葵に会えた事に、どうしても浮き足立つ自分もいて。絢也は大騒ぎしている心を必死に落ち着けながら、とにかく何か会話をと、口を開いた。
「あ、あの、おかずとか作っておいてくれてありがとうございました、凄く美味しかったです!あと、あのクラゲの絵、額に入れましたよ。優しくて、俺、あの絵好きです」
「…そっか」
「あのヒマワリの絵も、みんな喜んでましたよ!ギターのタクヤが、昔似た絵を見たとかで」
葵がふと立ち止まり、絢也も足を止めた。
「…知ってるんだよね、俺の事」
伏せた顔では表情が見えなくて、絢也は戸惑いつつ頷いた。
「…ごめんなさい、昔の記事の事を少し…でも、嘘でしょ?」
「…嘘じゃないって言ったら?」
俯く葵の声は少し震えていて、絢也は躊躇いつつも葵の両手を優しく握り、顔を上げない葵の前髪を見つめた。
改めて真正面で向き合うと、葵がここに居る実感が増し、それだけで胸が苦しいくらいいっぱいになる。だけど葵は、距離を取ろうとする。それが絢也をまた不安にさせ、思わず葵の手を握る手に力が入ってしまう。
「そうだとしても、関係ありません」
「…関係あるだろ、もっとちゃんと考えろよ。言っただろ、そんなんじゃいつか人に騙されるって」
顔を上げた葵は泣きそうで、絢也はすぐに背けられた視線を追いかけるように、顔を覗き込んだ。
「葵さん、人の心配してばかりです。俺は、そんな葵さんが心配です。さっきも言いましたけど、一人で背負い込まないで下さい。俺、力になりたいんです」
「…なら、そっとしておいてくれ」
「それ、誰の為ですか?」
「俺の為だ」
「いいえ、それは葵さんじゃなく、俺の為ですよ。俺は、そんな風に守られても嬉しくない。あなたが居ないと、意味がないんです!」
その言葉に、葵は伏せていた視線を上げた。絢也の表情は辛そうに歪んでいて、葵は見ていられず、握られていた手を解き、絢也に背を向けた。
葵が背を向けて見上げた先には大きな水槽があり、たくさんのクラゲがのんびりと、ふわりふわり泳いでいる。
自由で豊かなその姿に、葵が憧れた自由な日々が、そして、絢也の姿が重なっていく。
葵の胸の中で小さく弾けた光、優しく強引な手が、葵の中の頑なだったものを優しく溶かして、踏み出す勇気をくれた。なのに、過去がいつだって暗い海の底から囁いてくる。
きっと上手くいくはずない、いくら絢也が思ってくれても、自分達ではどうにもならない事だってある。
絢也の気持ちだって、今だけのものかもしれない。人は変わっていく。時間が経てば、絢也の気持ちだって、きっと。
また傷つくだけ、それなら、目を逸らしてしまえばいい。
「…葵さん、本当の気持ち聞かせて下さい」
なのに、絢也が葵の気持ちを引き止める。絢也が好きだという気持ちが、葵の気持ちを揺らがせる。
傷つきたくない、自分といればきっと絢也に迷惑をかける。傷つけたくないのに、振り払った手に縋りたくなってしまう。
「葵さん」
まっすぐと背中に降りかかる声に、葵は肩を揺らした。揺らがない、けれどいつだって温かいその声。
「…どうして、俺なの?絢也君なら、いくらだっていい人居るだろ」
「葵さん以外に居ません。葵さんは、俺の世界を変えてくれた人ですから」
その言葉に、葵は思わず絢也を振り返った。
絢也は少し眉を下げ、照れくさそうに微笑んでいる。その言葉に嘘はない、そう思えてしまえばドッと胸が鳴り、葵は慌てて水槽に目を向けた。
それは、俺の台詞だ。
途端に泣き出してしまいそうになったのは、絢也と出会った時を思い出したからだ。あの日、手を握られて走った繁華街、魔法に掛けられたみたいに、あの日から葵の世界が変わっていった。
「…葵さん?」
何か口にしてしまえば、今までの絢也との思い出も泡となって消えてしまいそうで。だけど、と思い直す。
このまま、逃げるわけにはいかない。こうして真っ直ぐ向き合おうとしてくれる絢也に、せめて、気持ちだけは伝えなくては。絢也との日々を思い出として、蓋をする為にも。
葵は、躊躇いがちに口を開いた。
「…あのヒマワリの絵、一葉 をイメージして描いたんだ」
思いもしない告白に、絢也の頭の中は途端に真っ白になった。
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