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絢也(じゅんや)結依(ゆい)の前に無理矢理押し出された(あおい)は、敷地内の点々とした灯りの中でも、その顔が赤くなっているのが分かった。 「葵さん…!?」 まさか本当に葵が居ると思わなかった絢也は、暫し呆然と葵の姿を見つめ、それからようやく現実を受け止められたようで、驚いて声を上げた。 だがそれは、葵も同じだったようだ。 「お、俺聞いてないぞ、」 葵は絢也を前に狼狽え、すぐさま勇次の後ろに隠れたが、彼の手によってすぐに前に出されてしまう。 「何隠れてるんです。二人で行ってきなさい」 「い、行くってどこに、」 「水族館ですよ。閉館後を貸しきってあります、一度ゆっくり話した方が良いですよ。そちらもよろしいですか?」 勇次(ゆうじ)に声を掛けられ、まさかの提案に、絢也と結依は顔を見合わせた。だが、こちらの答えは勿論決まっている。 結依と見合わせた顔を綻ばせ、絢也は元気良く返事をした。 「はい!ありがとうございます…!」 勇次に向かって嬉しそうに頭を下げた絢也に、勇次は男前に笑んで頷く。勇次の事を良く知らない絢也だが、もうその表情からは何か裏があるのでは、なんて懸念は感じなかった。 背中を押してくれた事に感謝して、絢也は困惑しきっている葵に向かった。 一歩近づけばたじろぐ葵に、決心した心が再び揺らぎそうになるが、それでも大丈夫と自分に言い聞かせて歩み寄り、立ち止まる。 葵がただ愛しい。葵が目の前に居る。そう思えば、安心して、抱きしめたくて、何だか無性に泣きたくなるほどに。 ぐるぐる回る心を、小さく息を吸って吐いて整え、溢れそうな思いをどうにか押し止めると、絢也は手を差し出した。 「…葵さん行きましょう」 一つ深呼吸をして絞り出した声は、葵にどう届いただろう。 葵は絢也を見上げ、次第に絢也につられるかのように泣きそうな顔になっていったが、それでもその視線を逸らして絢也の手に目を留めると、葵は躊躇って瞳を揺らした。 その瞳に、絢也は葵が自分と距離を取ろうとしているのを感じた。二人の間には見えないドアが現れて、葵との距離を無理矢理遠ざけようとしているみたいで。 このままだと、またどこかに行ってしまう。 絢也は、閉じかけたドアをこじ開けるように、咄嗟に一歩踏み出した。顔を上げた葵を見つめると、その腕を掴んだ。 「行きましょう!葵さん!」 強引に手を握れば、葵は体を強ばらせた。それでも、「ね?」ともう一度尋ねれば、葵は少し肩の力を抜いて、まだ迷いながらも小さく頷いてくれた。 その姿に絢也はひとまずほっとすると、結依達を振り返った。 「では、行って来ます!」 結依と勇次にそう声を掛け、絢也は葵の手を引いて行く。 葵はまだ戸惑いながらも、その手を払う事はしなかった。 残された結依と勇次は、水族館に入る二人を並んで見送った。これでサングラスを掛けていたら、どこぞの映画のエージェントようだ。 「貸し切りですか」 「ここ、うちが資金出してるんですよ」 「なるほど…」 「葵君がクラゲの絵を描いていたと知った時は、何かの暗示かと思いましたが」 「良い方へ傾きそうですね」と、勇次は笑った。 「では、私はこれで失礼します」 にこやかに車に戻ろうとする勇次に、結依は、え、と目を瞪る。 「良いんですか、待たなくて」 「私はお邪魔でしょう。それに、三崎さんに聞きたい事もちゃんと聞けましたし」 恐らく勇次が聞きたかったのは、葵に対する絢也の気持ちだろう。それを確かめた上で、葵を絢也に会わせるかどうか決めようとしたのかもしれない。 「…何故、力を貸してくれるんですか?月島さんの居場所を知っていたなら、三吉さんにお伝えしようと思わなかったんですか?」 「三吉も、葵君の居場所は知ってましたよ。ただ、まだ会う勇気がないんでしょうね」 そう苦笑い、勇次はやや間を取ってから、「それからこれは独り言ですが」と、話を続けた。 「私は、三崎さんの為に動いたわけではありませんよ、これも全て三吉の為です。 三吉は、葵君を守りきれなかった。ただ、純粋に好き合っていただけなのに、大きく広がる噂に、失った信頼を取り戻すのは容易ではありません。あの時は、葵君と距離を置くしかなかったんです、三吉に家族や自分の立場を裏切る事は出来ませんでした。 でも、ずっと葵君を気にかけていましたよ。葵君が絵が描けなくなったのも自分のせいだって、ずっと葵君を探し続けて。葵君は三吉から逃げ回っていましたが、それも仕方ない事でしょうね…葵君にとっては、裏切られて切り捨てられたように感じたでしょうから」 そう言った勇次の優しい目元が、力なく歪んでいく。 「顔を上げようと思うのは、結局周りが何を言っても本人次第。自分と向き合いたいと思う為には、時間が必要かもしれないし、そう思わせてくれるような誰かとの出会いが必要なのかもしれません。その役目は、三吉ではなかったって事ですね」 勇次は、気を取り直した様子で結依に目を向けた。 「三吉が前に進むには、葵君が前に進まなくてはいけません。葵君が側に居てくれなくても、自分が奪った絵を葵君がまた描いてくれるなら、遠くから応援するしかありません、それが三吉の唯一の罪滅ぼしです。私は、出来れば葵君に帰って来て欲しかったけど…、こればかりは仕方ありませんね」 勇次は肩を竦め、優しく笑った。 「葵君が必要としていたのは、三崎さんでしょうから。あの方なら、きっと…」 そう願いを込めるように見上げた夏の空には、まばらな星が小さく瞬いている。ささやかな星明かりだが、今日ほど頼もしく見えた事はないだろう。

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