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二人の間に、|一葉 の父親も含め金銭的な繋がりはなく、記事にあるのはでたらめばかりだった。
ただ、一葉と葵 は純粋に恋をした秘密の恋人で、婚約者が居た事は確かだった。ただ、婚約は親同士が決めたもので、周囲ばかりが盛り上がっており、お互い、気持ちがあった訳ではなかったという。
あの騒動によって婚約は破談に終わったが、それでも、一葉は葵と距離を取った。
二人が一緒に居れば、せっかく騒動を治めたとしても再び疑いの目が向くのではと考えたからだ。それならば、ほとぼりが冷めるまでは会わない方が得策だと一葉は思っていたようだが、必要以上に会うことも言葉を交わすことも控えていた中で、言葉少ない一葉の気持ちを汲み取れるほど葵に心の余裕はなく、葵からしてみれば、渦中にその身一つで放り出されたようなものだった。
その当時、葵には味方は居なかった。守ってくれる力も、共に立ち上がってくれる仲間も居ない。皆、同情して、腫れ物に触るように声を掛け、物陰で葵の噂話をする。例え純粋に心配してくれていた人がいたとしても、その時の葵には、もう誰も信じられなかった。
自暴自棄になって絵が描けなくなった時、葵は、葵の事情を知りながらも、知らない振りをしてくれる女性達の家に転がり込むようになった。夜の仕事をしている女性だったり、会社を立ち上げた女社長だったり。新宿二丁目のママの時は、厨房で働いたりもした。皆、絵を通して知り合った女性達だ。
一葉も、葵が家を転々としていた事を知っていたが、一葉から逃げる葵にはどんな言葉も通らない。
一葉は謝る事すら出来なかった。
一葉は今でも葵を想っている。けれど、それを表面には出さずに頭を下げた。これで葵が前に進めるならそれで良いと、そう思っていた。
「お、俺もごめんなさい!」
「え?」
罵られて許されなくても仕方ない、既に嫌われているだろうし、もし何か要求があるなら、どんな要求も飲むつもりだった。だから、まさか葵まで頭を下げるとは思いもよらず、驚いて思考が固まった。
「…どうしてお前が謝るんだ」
ようやく頭を回転させて尋ねれば、葵は申し訳なさそうに口を開いた。
「…ずっと、無視してたから。ごめん」
「…お前が謝る事は何もない」
「…でも、ずっと気にかけてくれてたでしょ。今だって、吉永さんに言って部屋借りてるけど、あれも一葉の持ち物でしょ?」
その問いかけに言い淀む一葉を見て、葵は視線を俯けた。勇次が淹れてくれたコーヒーの水面には、情けない顔をした自分が映っていた。
葵は絢也 の家を出た後、勇次 に連絡を入れていた。前々から、絵を描く為にも部屋を用意すると言ってくれていたので、行くあてがなくなった葵はそれに甘えさせて貰う事にした。絢也と出会い、再び絵が描けるようになっていたので、ちゃんと、過去と向き合おうと思っていた。
だが、いくら勇次が部屋を貸してくれるからといっても、葵と一葉の関係は破綻している。しかも、一葉から逃げ回っておきながら、一葉に結局頼っている。それも、絢也と出会ったからまた絵が描けるようになったなんて知ったら、一葉は軽蔑するだろうか、呆れるだろうか。一葉の思いを軽んじている、失礼な事をしているんじゃないか。そんな風に思いながらも、結局は甘えるしか出来ない自分が情けなくて、後ろめたさを感じながら過ごしていた。勇次は気にするなと言ってくれるが、それは一葉も同じ思いなのか、葵にはもう分からなかった。
「ごめんなさい」と、もう一度頭を下げる葵に、一葉は暫し視線を彷徨わせ、葵の手元にあるキャロットへ目を止めた。どこかで見たことがある、そう考えを巡らせてれば、その答えはすぐに見つかった。絢也の家にあったものだ、葵の描いたクラゲの絵の側に置いてあったものと同じものだ。色気が服を着て歩いているような男だが、可愛いものが好きなんだなと意外だったので良く覚えている。
これは、葵の、二人のものだったのか。
一葉はそっと目を伏せ、組んだ両手に力を込めた。
もう、あの手の中には、大事なものがある。一葉は、小さく息を吸い込んで、しっかりと顔を上げた。
「…そんなこと、気にするな。もし嫌だったら、部屋を使わせたりしない。俺はお前の才能を買っているただのファンだ。お前がまた絵が描けるなら、俺はそれで救われる。俺がお前から絵を奪ってしまったんだから」
「…それは、」
「お前を傷つけた分、力になりたいんだ。…三崎さんとの事も含めて」
「え…!?」
まさかここで絢也の名前が出るとは思わなかったのだろう、葵は驚いて顔を上げ、その後の言葉が続かず、口を開けたり閉めたり、視線もきょろきょろとしてなんとも忙しない。そんな風にあからさまに動揺している葵の姿が可笑しかったのか、一葉は思わずといった様子で顔を伏せた。だが、吹き出しこそしなかったが、堪えきれず肩が揺れている。
それを見て、葵は顔を真っ赤に染めた。
「わ、笑うことないだろ…!」
「すまない、だってお前、」
そう言いながらも一葉の笑いは止まらず、葵は恥ずかしいやら腹立たしいやら。せめてもの反抗で、むくれてソファーに腕を組んでふんぞり返った。
「悪い悪い」
「悪いと思ってないだろ」
「思ってるよ、ずっと思っていた」
そう顔を上げた一葉は、すっかり肩の力が抜けた様子で、葵はその様子に、つられるように表情を緩めていた。
そして気づく、二人の間に流れる空気が和らいで、まるで昔に戻ったみたいだと。穏やかで安心出来る、特別な場所。期待に押し潰されそうな境遇が似ていて、戦友のような感情が恋に変わっていたこと。
また、あの頃のように、一葉と笑い合える日が来るなんて思わなかった。
そう思い、葵は緩めた表情をそっと伏せた。
あの日々に戻りたいのとは違う。葵の心にいるのは絢也で、今は彼との未来しか考えていない。
けれど、もし、あんな報道がなかったら、自分は一葉とまだ一緒に居たのだろうか。
あの日、もっと言葉を尽くしていれば、一葉と別れたとしても、こんな風に傷つけて謝り合うこともなかったのだろうか。
全てはタラレバで、思っても仕方のない事だけれど、一つ思うのは、ちゃんと一葉を好きだったという事。
悲しい思い出ばかりが目についてしまうが、楽しい思い出もたくさんあった。傷ついて絵が描けなくなるほど、葵は一葉に真剣だった。
一葉を前にその思いを噛みしめれば、一葉との日々が、ちゃんと葵の中で思い出になっていくのを感じる。
「…ありがとう、一葉。俺、一葉に貰ってばかりだな」
応援してくれる一葉に、葵は眉を下げて微笑んだ。
自分さえ心を強くもっていたら、一葉の思いにちゃんと気づいていたら、応えようとしていたら、一葉を傷つける事もなかった。一葉はずっと謝ろうとしてくれていたのに、怖くて逃げていた。そんな自分に、一葉はそれでも優しい言葉を掛けてくれる。葵には、感謝しかなかった。
伝わる感謝の言葉に、一葉は何か思って口を開こうとしたようだが、その思いを葵が聞くことはなかった。
一葉は気を取り直すように姿勢を改め、それからまっすぐと葵を見つめた。
「そう思ってくれるなら、葵に頼みたい事がある」
「え?」
「…これからは、仕事仲間として付き合ってくれないだろうか」
その提案に、葵は目を瞬いた。
「仕事…仕事って、えっと…」
「葵に、絵を描いてもらいたいんだ」
「…でも俺、絵は…」
絢也の家に置いてきたクラゲの絵以降、新しいものを描いてはいるが、まだ以前のようには描けないし、自信も取り戻せていない。一葉と仕事となれば、恐らくミヨシリゾートの仕事だろうし、そうなれば、作品の出来映え以外にも問題はある。
過去の騒動を知らない社員は、恐らくいないだろう。反発も出るのではないだろうか。
「このホテルには、若手のアーティスト達の絵を飾ろうと思ってる。定期的に入れ替えて、多くの人の目に止まるように。それで、後々は、このホテルをアートのイベントが出来るような場所にもしていきたいんだ。その入り口に、葵の絵を使いたい」
一葉の言葉に、葵は戸惑いながら顔を上げた。その真っ直ぐとこちらを見つめる瞳に、葵は目が逸らせなくなる。
「俺がここにいるのも、お前の絵のおかげだ。だから、今回の企画が通った時、お前の絵を真っ先に使いたいと思った。アートの入り口に、ここに来た人達を出迎えるのは、月島葵の絵じゃないと駄目なんだ」
嘘のない真っ直ぐな瞳に、いつかの記憶が甦る。
絵を描くことが段々とプレッシャーになっていた時、苦し紛れに描いた絵を、一葉にその思いを見抜かれた事があった。一葉の父親が素晴らしいと目を輝かせる横で、「俺にはこの絵は苦しく見える」と言いながら、「そこが気に入った」とも一葉は言っていた。何故だと問えば、自分を見ているみたいだと、でも、「これを見ていたら、ここから這い上がろうと思える」と、苦笑しながら話してくれた。
一葉も、親が偉大なだけにプレッシャーがあるのかもしれない。彼も、日々戦っているのだろうか。何でも手にしていそうな青年も、何かと戦っていて、その背を自分の絵が後押ししたのだろうか。そう思えば、胸が震えた。それまで何の繋がりもないこの青年と、共に戦っているような気になって、不思議と創作意欲が湧いてきたを葵は覚えている。
あの頃と一葉との関係は変わったが、それでも一葉は、あの時のように、共に戦おうとしてくれているのだろうか。今度は一葉が背中を押して。
「きっと、過去を持ち出してくる人はいる。でも、もう二度と妙な記事は書かせない。あの頃は、俺にも隙が多かったと思う、俺がもっとしっかりしていれば、あんな記事でお前の絵を奪う事はなかったんだ」
だからと、一葉は両手をぎゅっと握りしめ、顔を上げた。
「もう一度、チャンスが欲しい。お前の絵は、凄いんだ。圧倒されたかと思えば、突き放ずに語りかけてくる。でも、お前の絵は否定しないから、自分とも向き合う事が出来た、今でも支えだよ。
それに、三崎さんに向けたクラゲの絵は、見る人の心を包むような温かさと、深く空へ広がるような色彩に、自由を感じた。このホテルも、そんな風にアートを通して心が安らぎ、一時でも窮屈さを解放出来るような場所にしたいと思ってる。
それに、俺は一ファンとして、葵の絵をより多くの人に見て貰いたいんだ」
一葉の真摯な眼差しに、葵はきゅっと唇を噛みしめた。一葉は、ちゃんと絵を見てくれていた、まだ自分の絵を支えだと思ってくれているなんて、そんな事思ってもみなかったから嬉しくて、一葉のまっすぐに伝わる思いに涙が込み上げてきそうだった。
だけど、と、葵は俯いた。
一葉と一緒に仕事をすれば、またおかしな目で見られる可能性はある。でも、過去と向き合うには、胸を張って未来に向かうには、多くの人に納得して貰うことが必要になるのかもしれない。
まだ怖いけど、それなら一葉の依頼を受けることは、何もやましいことはなかったと、見せれるチャンスかもしれない。
でも、本当に…?そんなに上手くいくだろうか。また、一葉に迷惑をかける事にならないだろうか。また、一葉の思いを踏みにじる事にならないだろうか。
葵は、ぎゅっと拳を握った。
「…俺、」
「大丈夫、葵の絵を見たら、みんな過去の噂なんて、きっとどうでも良くなる」
一葉の言葉に、葵は顔を上げた。
「そういう絵、描けるだろ?」
背中を押してくれたかと思ったら、今度は意地悪く言う。葵は困ったように表情を緩めた。
葵の作品を扱ってくれる企業は恐らくないし、小さくても個展を開いたとしても、もう世の中は葵の絵に興味を持たないだろう。一葉はきっと、その足掛かりになろうとしている。下手したらホテルにとってもマイナスになりかねないのに、それでも信じてくれている。まだ、ここで終わらないだろうと、一緒に這い上がろうと、あの時のように手を差しのべて。
「…うん、描くよ」
そう葵が頷けば、一葉は安堵と共に、どこか晴れやかに表情を緩めた。
顔を上げて、堂々と未来を生きる為に。二人は笑って、その手をパチンっと合わせた。
それから半年。
葵と一葉が再会したホテルのエントランスには、葵が描いた色彩豊かな、絵が飾られている。天井から床までを埋め尽くした巨大な絵だ、ホテルに足を踏み入れた人々は、その絵を先ず目にして、圧倒されると同時に、きっと温かな出迎えの心を感じるだろう。
名前を月島葵と改めて、アイの時には描けなかった感情もキャンバスに詰め込んだ。
人々を圧倒し、優しく抱きしめてくれる、いつだって心に道しるべを示してくれる、そんな絵だ。
「こりゃまた…」
出来上がった作品を見上げた勇次が感嘆をもらせば、隣にいた一葉は得意気な視線をこちらに向け、先を歩んでいく。勇次は困ったように笑って、その後を追いかけた。
きっとこれを見たら、余計な邪推も消えていくのではないだろうか。そんな思いを胸に呟きながら。
そんな葵の絵を手にしたのは、一葉だけではない。高層マンションの三十一階、届いたキャンバスを手にした麻里 は、優しく頬を緩めた。
彼女は、葵が絢也と出会う直前まで世話になっていた女性だ。
「こんなの、手放せるわけないじゃない」
いつか絵が描けるようになったら、絵を描いて送るよ。葵が言っていた言葉を思い出す。
ヒモ生活を送っている時に世話になっていた女性達とは、家事をする他にそのような約束を交わしていた。きっと高く売れるようにするから、それを家賃代にして、なんて口約束を麻里は当てにはしていなかったが。
まさか、今にも零れそうな花びらを咲かす満開の桜を、それがどんなにお金になるからと言われたって、手放せるはずがない。
元々、麻里は、葵の絵のファンなのだから。
頑張ったね、そう見つめる瞳は、まるで弟を見守る姉のようで、温もりに溢れた花が綻ぶようだった。
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