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それから季節はすすみ、あれから更に一年が過ぎようとしていた。
葵は、絵が描けなかった日々が嘘のように、日々キャンバスに向かっている。
体の中から色彩が溢れ出し、真っ白な世界を色で埋め尽くしていく感覚。たった一人との出会いによって、色を失った世界は鮮やかに染まり、時に揺れ動き、胸を熱くさせる。
最近になって葵 は、|一葉 の後押しもあり、個展を開く事となった。
小さなスペースでの個展だが、それでも多くの人々が訪れてくれていた。
名前を変えても、葵がアイという作家だった事は伏せてはいないので、一葉のホテルのエントランスの絵がアイのものであるという事は、すぐに知れ渡る事となった。最初の内は、過去の報道を持ち出されたりもしたが、それが再び二人を苦しめる事にはならなかった。
すぐにとはいかなかったが、葵の絵が、一葉の誠実な対応が、二人の間にやましいことはなかったと、世間にも少しは信じて貰えたようだった。
個展を開くにあたっても、アイを知っている人々からの疑惑の眼差しを向けられ、心ない言葉を受けたりもしたが、それでも葵は、ちゃんと立っていられた。
もう、昔の自分とは違う、怖さや不安はあるけど、今なら、どんなに冷たい視線が注がれても、負けない覚悟と勇気があった。それは、一人じゃないと、やっと思えるようになったからかもしれない。自分を認めてくれる人達を、優しさをくれる人達を、葵はようやく信じる事が出来た。
一葉のホテルの人達や、そのホテルに共に絵を提供した若手アーティスト達、過去に助けてくれた彼女達も、葵の仕事の話を聞きつけては、宣伝に力を貸してくれたり、ネガティブな印象を払拭しようと尽力してくれた。
塞ぎ込んでいた時には気づかなかった、信じられる人はいたのに、自分が信じようとしなかった。
それに気づけたのも、彼に出会ったからだ。
葵は今日、絢也 に会いにいく。
葵は、緩みそうな頬を抑え、顔を上げた。
顔を上げた先に、絢也がいる。絢也はまだ、あのマンションの一室で葵を待っていた。
やっと、絢也に会いに行ける。
ようやく過去に怯えず、前を向けるようになった。怖くない、真っ直ぐ絢也の腕に飛び込んでいける。
絢也は、ここに留まるか引っ越すかは葵と決めると言って、マネージャーである結依 が何を言っても、葵が帰るまでいるんだと動かなかった。
その為、もし引っ越す場合は、結依の厳格な審査を通った、セキュリティがしっかり整った家に決まるだろう、これは間違いない。人気俳優がオートロックもないマンションに住んでいるなんて、結依は不安で仕方なかっただろう。
緊張で震える胸を宥めつつ、葵はインターホンを押した。すると、部屋の中からドタドタと、騒がしい足音が聞こえてくる。
絢也には事前に連絡を入れていたので、ドア前に居るのが葵だと分かったのだろう。
そして、勢いよくドアが開いた。
「ひ、久しぶり、絢也く…!」
言い終わる前に、ぎゅう、と力いっぱい抱きしめられ、葵はよろけそうになる。
「ちょ、ここ外…!」
「会いたかった…!」
そうして、頬をすり寄せ、再び力いっぱい抱きしめる絢也に、葵の胸がきゅっと鳴る。
待っていてくれた。一年前、別れた時と変わらない気持ちで。
それが嬉しくて、苦しくて、胸がいっぱいで。溢れた涙も構わず、葵はその背中に腕を回し、しがみついた。
「俺も、会いたかった…」
顔を上げ、絢也は両手で葵の頬を包むと、葵の涙を親指で拭った。優しいその指に、葵はほっとした様子で微笑むので、絢也はたまらず、再びその腕に葵を抱きしめた。
「元気でしたか?あれ、ちょっと痩せたんじゃないですか?」
そっと腰を撫でられ、葵は触れられた事にドキリと胸を跳ねさせ、顔を上げた。
「ど、どうかな、絵を描いてると、たまに食事忘れるから」
「ダメじゃないですか!今日からは俺が見張りますからね!」
絢也が真剣な顔をして言うので、よからぬ想像をしてしまった葵は、拍子抜けして、思わず笑ってしまった。
「ふふ、食事してるかを?」
「そうです…あ、」
ガチャンと音がして隣を見ると、隣の部屋のドアがゆっくり開いていく。隣人が外に出てくると察し、二人は慌てて部屋のドアを開けた。開いたのは右隣の部屋なので、ドアに隠れてお互いの姿は見えない筈だが、絶対に見られない可能性はない。マンション内の廊下とはいえ、外は外。再会の喜びに浮かれている場合ではなかった。
焦りながら部屋に入り、しっかり鍵を締める。
二人は揃って安堵の息を吐き、顔を見合せると吹き出すように笑いあった。
「ははは、これじゃ先が思いやられますね」
「笑いながら言う事じゃないだろ?」
「葵さんだって!」
「仕方ないだろ、だって、…目の前に絢也君が居るんだから」
照れくさそうに葵は言って、きょとんとする絢也を置いて部屋に上がった。そうして部屋の中を見て、葵は驚くと同時に、安心して笑ってしまった。
一年たっても部屋の中は、変わってない。相変わらず家具の少ないリビングには、段ボール箱の山があった。
「絢也君、まだ片してなかったの?あの、」
段ボールと言おうとして振り返った葵は、間近に降りかかる影に驚き、咄嗟に目を閉じた。直後、しっとりと唇が重なり離れていく。思わず息を止めてしまった葵は、唇が離れると、はぁ、と息を吐いた。そして見上げた瞳に、どっと胸が苦しくなる。
「葵さん、」
「ま、待って、」
いつになく熱っぽい表情に、自然と顔どころか体中熱くなってしまいそうで。葵は慌てて顔を背けたが、絢也はそれを許さず、そっと手で顔を上向けると、再び唇を重ねた。
「ん…ま、待って、」
腰を抱かれ、待ってと口を開けば、熱い舌が葵を逃がさないとばかりに絡みつく。
急な展開に、高鳴る心臓が壊れてしまいそうで、一歩二歩と後退りすれば、ソファーに足が当たって、二人して倒れ込んでしまった。
「わ!」
「痛っ」
キスに夢中になっていた為か、受け身もろくに取れず、葵は絢也の下敷きになった。思わず痛いと口にすれば、絢也ははっと我に返った様子で慌てて体を起こした。
「ごめん葵さん!大丈夫!?」
先程までの欲情した熱っぽい表情はどこへやら、心配が先に立ち焦る絢也に、葵は思わず笑ってしまった。可愛かったからだ。
「良かった…潰したから焦った」
「はは、そんな柔じゃないよ」
ふふ、と笑って、葵は「起こしてくれ」と腕を伸ばす。絢也はその手を取って葵を起こすと、ソファーに座ったまま、その体を再び抱きしめた。
「絢也君?」
「ごめん、今日は葵さんから離れられそうにないや」
呟いて、絢也は改めて安堵した様子で、葵の肩に頭を乗せた。
「葵さんだって思ったら、なんか駄目だ」
溜め息から絢也の想いが伝わる。こんな自分を待っていてくれた、まだ好きでいてくれていた、そう思うと、嬉しさと同時に申し訳なさも込み上げてくる。
「…ごめんね、俺が弱い奴だったから」
「謝らないで下さいよ、葵さんにとって重要な事だったんだから。俺は、葵さんとこれから一緒に居られると思うだけで、本当幸せです」
優しい声に、温かな腕に、その愛情に包まれれば、葵は擽ったくて、愛しくて、また泣きそうだった。
「俺は、絢也君と出会ってから、自分が泣き虫だって事に気づいたよ」
「え?」
葵は体を起こすと涙を拭い、微笑んで絢也を見上げた。
「俺、絢也君のお陰で頑張れたよ。アイって作家だってバレても、胸張っていられた。大丈夫って、俺はやましい事してないんだからって、逃げなかったよ」
「はい」
「もしかしたら、その事で絢也君に迷惑かけるかもしれない。それでも、俺を君の隣に置いてくれる?」
「勿論です、一緒に背負うって言ったじゃないですか。どんな事があっても、この手を離しません」
「…ありがとう。君に会えて良かった」
会えなかった分の話を沢山して、笑って、抱き合って、キスをして。夢中になる心を、荒波に沈む体を、その腕が抱き留めてくれる。
この手がいつだって、未来をくれる。ここに居て良いんだよって居場所をくれる。
「お帰り葵さん」
「ただいま絢也君」
クラゲの絵は壁にかかり、ヘッドホンをした紫と水色のキャロットは、仲良くリビングの棚の上に座っている。
心は、自由を手に入れた。
二人の未来は、まだこれから始まったばかりだ。
了
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