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遠すぎて

 顔を合わせても業務連絡だけで長居することのない大田の傍で、祐次はシトラスの香りに気付いて戸惑った。  くん、と鼻を動かした祐次に気付き、ああこれねえと大田が後ろ頭を掻きながら苦笑した。 「こないだ帰ったときに娘に煙草の臭いを嫌がられて抱っこさせてもらえなくてさ。泣きついたら妻がこれでも付けとけって香水押し付けてきて」  何処かの誰かがハワイ土産にくれたブランド品だとかなんとか喋る上司をぼんやりと眺めながら、ではあの時の幻覚は大田が本当に横に居たという現実なんじゃないかと祐次は考えた。  それならば謝るのもまだ頷ける。面と向かっては言い難くて、意識が無さそうなときにこっそりと告げてくれたんだろう。  やっぱり、そういうことなんだ。  もう、おれのそばに誠也が来る筈がないんだから。 「大田さんは……煙草を止めようという方には考えないんですか」  なんとなく口にした問いに、ううんと一瞬考えたものの、すぐに大田はきっぱりと否定した。 「無理だなあ。妊娠中にも散々止めろって言われて頑張ったけど駄目だったし、大体離れている期間の方が長いのに、一番の楽しみをなんで諦めないとならないんだよ」  全く世の中喫煙者に冷たくなったよねえ、肩身が狭いよと歎きながら、それでも口調からは遠慮など何も感じられない。  流産の懸念がある妻や健康被害の大きい最愛の娘のためにでも我慢できないという大田。  それなのに、どうして誠也は……。吸っていたこと自体を隠そうとして、移り香すら残らないように細心の注意を払って接してくれていたんだろう。  ついこの間のことなのに、今ではもうあの頃の誠也は夢だったんじゃないのかというくらいに遠く感じる。  それからまた大田の娘自慢が始まり、話を振った事を後悔しながら祐次はワックス作業完了の確認申請書類を書き上げて大田に手渡した。  もう少しいるから休憩しておいでと言われて、小銭がポケットにあるのを確認してから祐次は二階の共用スペースである休憩室に向かった。  そこには惣菜パンや菓子パンの自動販売機があり、夜中でも軽食を取ることが出来る。もうじき夜間スタッフがやってくるから、大田の手前ゼリーしか喉を通らないなんて言えなくて、ポーズだけでもと柔らかそうな蒸しパンを選んで押した。  ぽとんと落ちたパンを取るためにしゃがんでもう一度立ち上がると、目の前が真っ暗になりよろめきながら自販機に手を突いた。  立ちくらみなんて、女の人みたいだ……。  初体験というわけではなかったが、まばらに弁当などを食べている従業員の居るこの場所で起こるなんて。  頭を下げていれば治まるのは判っていたから、ずるずるともう一度しゃがんで俯いた。大抵の人は雑誌を見るかテレビを観るかしているから、気付かれませんようにと願う。  だが、あっさりとその願いは破られた。 「大丈夫ですか」  これが大丈夫に見えるならあんたの目は節穴だと言いたい。けれど声でもう誰だか判ってしまったから、絶対に顔は上げられない。  ただ、一刻も早くここから立ち去って欲しいと祈った。 「すぐに治まるんで、放っておいてください」  泣きたい。そんなわけにはいかなくて、震えながらも懸命にそれだけ言って、俯いてしゃがんだまま自分の膝に顔を埋めた。  背後に誠也の気配を感じる。  まだだ。まだ振り向いちゃ駄目だ。ぎゅっと目を瞑って、それからそろりと開けた時に眩暈が治まっていたのにまだ数分そのまま座り込み、ようやく顔を上げた時には、手を突いた際に潰れてしまった蒸しパンが床の上でぺちゃんこになっていた。  袋の口は開いてしまっていたけれど中身が汚れたわけじゃないからと、そのまま手の中に握りこんで、今度はそろりそろりとゆっくり腰を上げる。  誠也の気配は消えていて、振り返ると他の従業員の姿もなくなっている。点けっぱなしのテレビの音を掻き消すかのように閉店前の音楽が流れ始めた。  夕方になっても暑いと感じる日が増えていた。  一年中温度調整されている屋内に居るので、半袖しか制服がない祐次の職場のようなところもあれば、逆に長袖しかない職場もある。  どちらにしても真冬の外回りには一枚くらい上着を着たとしても寒さが凌げるわけではなく、これからもっと気温が上がっていく初夏ともなれば、常に厚地の長袖着用の警備員は辛いだろうなと思っていたら、風除室を出たところで植田と出会った。  未だ地平線間際でじりじりと空気を焼き続けている光が眩しく、色だけ見れば夕暮れではなく昼間だった。  カート整理の老齢男性と談笑していた植田は、「あっ、市村さん」と笑顔で手を振ってくる。 「今日も暑いですね」 「そちらこそ、肩とかの飾りの分余計に暑くないですか? 八月とか地獄でしょう」  自分と同じようにありきたりの作業着を着ている男性にも会釈してから話し掛けると、そうなんですよーとわざとらしく首を傾げて下唇を突き出す。 「格好いいのは確かですけど、ホントに無用の長物ですよね、これ」  何処かの軍隊のように階級を示すためではなく、本当に只の飾りなのだから、その通りだ。  ただ、格好良いのも本当で、私服の時は勿論だけれど、着用しているだけで更に男前女前度が上がっていると思う。  これは祐次の主観の問題だけでは無さそうだ。警備スタッフ全員に固定のファンがいることも知っている。  何か続けようとした植田の表情が引き締まり、耳に掛けているインカムに指を当てた。緊急コールが入ったらしい。

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