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シトラスの香り

 何処かで嗅いだ匂い、と祐次は鼻を鳴らしてその出所を確かめようとした。  ふわりと空気が動いて、頬が暖かくなる。匂いが近くなり、ああそうかと気付いた。  誠也が好んで付けている香水の香りだ。  爽やかなシトラス系のそれを追って、無意識の内に頬の温もりを自分の手の中に収めていた。  微かに声が聞こえて、それは慎ましやかに酷く繊細に謝罪の言葉を載せている。  ごめん。ごめんね、と繰り返す声に、ぐったりと動かない体を持て余して、必死に訴えた。  謝らないで、悪いのはおれなんだから、と。  祐次が気付いた時には夜が明けていた。  枕元にはスポーツドリンク入りのペットボトルを重石代わりにした手紙が置いてある。見慣れた水上の字で、祐次は自分が意識を失った後に彼女が予定通りに作業を済ませてから帰宅したことを知った。  但し、と付け加えてある。超過勤務分はきっちり大田さんに申請しました。控え室に戻ってから寝ているところを電話で叩き起こしてやりました。  生真面目な顔でこれを書いている水上を想像して、祐次はくすりと笑った。  ドアの向こうはざわめいていて、早朝スタッフが行き来している気配が伝わってくる。  さてこの部屋の利用後は何処にどう連絡すれば良いのかと悩んだ末、もういっそ大田に任せてしまえと投げ遣りに結論する。  夕方にまた出勤しなければならないから、青木か大田と入れ替わりに帰ってもう一度寝直すか点滴でも打ちにいかないとまた迷惑を掛けることになるだろう。当分、深夜にワックス作業が組んであるうえ、未だ夜間スタッフは補充されていない。  布団から出て腰掛けたままありがたくスポーツドリンクを頂くと、何も残っていない胃の中にダイレクトに滑り落ちていく感覚がした。  夢の中で、確かに誠也の気配を感じた。手の温もりと、シトラスの香り。それに混じって、微かに漂っていた煙草の残り香も。  あれも寂しさが見せた夢か、幻覚の一部だったのだろうか。  出勤してきた青木は何も知らないようで、いつものように何処かで適当に夜を過ごしたものと解釈して申し送りをはいはいと聞き流して別れたが、夕方に出勤した時に居た大田は体調を気遣った。  点滴をしてもらったから大丈夫だと言えば鵜呑みにしてそれなら良かったと笑うから、本当は数日自宅で安静にしていろと言われたことなんて告げられなかった。  まだ本社に居る筈の大田がここに来てくれただけでも十分だと思ったのだ。  喉が渇けば炭酸系の飲料ばかり選んでいたのを全て栄養ドリンクに切り替え、それでも足りなければスポーツ飲料で潤した。固形のものを胃が受け付けないからゼリーのパウチを買って控え室の冷蔵庫にストックしている。  この夏を乗り越えても、秋の行楽シーズンがやってくる。その次に来るのは一年で尤も過酷な年末年始の混雑だ。  文字通り自分の足すら見えなくなるような混雑の中、目的地に辿り着くことも困難となるのに、あっちで誰かが嘔吐した、こっちでは通路に大便が落ちている、ゴミ箱が溢れているぞ何とかしろ、と呼び出しは途切れることはない。その上主婦層はぱたりと出てこなくなるから、大田も祐次もトイレ掃除にまで借り出される始末だ。  そんなおぞましい記憶が脳内から溢れ出して来て、パウチを咥えたまま祐次は身震いした。  もういっそ、と後ろ向きなことすら思ってしまう。  いっそ、モール側から契約を切ってくれたら良いのに──と。  かろうじて祐次をここに繋ぎとめていた誠也の存在が、もう興味はないとばかりに離れてしまって。  ここが落ち着いていれば別の新しい現場の立ち上げを任される筈だったのに思いがけず長居をすることになり、疲弊するばかりで改 善の見込みはない。  自分の無力さが情けなくて、立ち上げの時に一緒に居た今は別の現場に居る同僚たちのことを思った。何処だって立ち上げの際にはてんてこ舞いだが、今の時期には落ち着いていてその現場なりのルールに則って仕事が回っているのに、どうしてこの現場だけが。  また本社で会えるのはいつになるだろう。もう一秒だってこんなところに居たくないのに、誠也の姿を見かけるだけでうっかり何かを期待してしまうから、何も見えないところに行きたいのに。  それから暫く誠也は昼勤だったのか顔すら見かけなかった。その代わりのようにそこかしこで女性警備員の植田に行き会った。  まるで以前の誠也のように、隙を見ては他愛ない会話を仕掛けてくれる。今日は自販機の補充に年配の女性が来ていたんですよ珍しいでしょ、あっちの植え込みの小さい花はなんていう名前ですかね。そんな風に、女性らしい着眼点で冗談交じりに言葉を交わしては、颯爽と手を振って去って行く。  きっと水上に何か聞いているんだろうとは思ったけれど、それでも向けられる優しさは本物だと思ったから嬉しかった。  もう少しだけ頑張ろう。ひとりきりじゃないんだから。

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