12 / 42
見えていなかったもの
水上は息を呑み、それからようやっと合点がいったというような表情で唇を噛んだ。
「それ、市村さんにも言ったんですね」
答えが無いのが返事だと受け取り、水上は再度、今度は作り笑顔すら見せずに怒りの眼差しで見上げた。
「木村さんは、ずっと地元でしょう。公立大卒でここに就職したと聞きました。素敵な容姿だし、きっとご友人は数え切れないほどにいらっしゃるんでしょう。だから解らないんですよ、市村さんの気持ちが」
誠也の瞳が揺れた。水上には祐次の気持ちが解っているということなのか。
その時、閉店を告げる音楽が流れ始めて、バックヤードに夜間スタッフたちの声が行き来し始めた。
「これだけは、肝に銘じてください。木村さんにとっての一人の友人と、市村さんの言う友人とは重みが全然違うんです。毎日沢山の時間同じ空間にいても、私は同僚で部下でしか有り得ません。ここで市村さんの友人は、私が知る限りあなただけなんです。そのあなたが突き離せばどうなるか、考えてみて下さい。お願いしますから」
縋るような眼差しから逃げるようにして、誠也は目深に制帽を被るとゴミステーションを後にした。
もうじき日付を越えるという頃、椅子に腰掛けてモニターをチェックしていた誠也は、隣の席の同僚がうつらうつらと舟を漕いでいるのに気付いた。あと三十分もすれば清掃の夜間スタッフが退出する際に立ち会わなければならないが、それまではモニターのチェックだけだから自分一人でも事足りる。何しろチェックすべきモニター内で動いているのは夜間スタッフのみなのだから。
忙しなく動き回る人々の中、二人で通路の洗浄とワックスをしている祐次と水上の姿ばかり目で追ってしまっていた。
片手でコードを巻き取りながら利き手でポリッシャーを操る水上の手元は軽やかだ。他のスタッフが使っているところも見た事があるが、夜間の手慣れた者以外で使いこなせるのは水上一人きりだ。回転部分と繋がっている持ち手を上げれば右に、下げれば左に進む方式のポリッシャーは、バランス感覚さえ掴めば指一本でも扱えますよと以前に祐次が言っていたのを思い出す。大抵の人はこの数ミリ単位の腕の上げ下げが出来なくて暴れる機械を押さえ込もうと力で制するから疲れてしまうのだ。
そんな風に軽やかに、そして一枚一枚じっくりと洗って行く水上の後ろから洗浄液を機械で吸い取りつつ真水で洗い直して行く祐次。
どうやら作業時間は延長しそうな様子である。洗いは終わりそうだがモップで拭き取り乾燥させながらの塗り作業が待っている。
夜間スタッフたちが続々とバックヤードに退けて来て、十人ほどだから良いかと同僚は放っておいて一人で風除室に出て手荷物をチェックしながら見送った。夜間は手ぶらで来る人が大半だから、本当にただ挨拶をして見送るだけだ。
それが終わってもう一度モニタールームに戻ると、人気の無くなった館内で動いている筈の二人に異変が起こっていた。
床に横倒しに倒れている祐次はぴくりともしない。その体をどうにか支えようと水上が孤軍奮闘している。上半身を起こすことは出来ても、同じ体格の男性を抱き上げるなんて流石に無理だろうと、誠也は同僚の肩を揺さぶった。
「様子を見に行ってくる。ここで待機していてくれ」
通路の明かりは深夜になると全て一斉に落ちてしまう。巡回用の懐中電灯を引っ掴むと、寝ぼけ声で応答した同僚に背を向けて駆け出していた。
現場に到着するより前に足音で気付いていた水上は、祐次の首筋で脈を取りながら膝の上に頭を載せて座り込んでいた。
「突然倒れてしまって……頭は打ちつけていないと思うんですが」
見上げる瞳は不安そうに揺れている。誠也も膝を突いて脈を取り瞳孔も確認してから逼迫した状態では無さそうだと安堵した。
それを見守り、水上は緩く息を吐いて囁くように言う。
「睡眠不足と、栄養失調と過労じゃないですかね」
顔に掛かる前髪をそっと白い手が払い、優しげな手つきで頭を支え直す。その手に嫉妬しながらも、誠也はこけた頬と大きな隈に彩られたほっそりした顔を見下ろした。こうして間近に見るのは久し振りだった。あまりのやつれように言葉もない。毎日挨拶を交わしていても、視線すら合わさなかった。
「どうしてこんなになるまで……」
思わず漏れてしまった呟きに、水上が慈母の様に微笑んだ。数時間前に誠也に向けていた表情とは百八十度も違うその顔にまた言葉を失う。
「だから駄目なんですよ、木村さんは。世の中には零細だったり中小だったりと色々な職場があるんです。スタッフに手厚くしたくとも、取引先にはもっと下げろと低く低く金額を設定される。おたくじゃなくても余所に頼めるんだからと足元を見られて、ギリギリの人数で賃金でやっているんです。私は時給分きっちり請求しますけど、そう出来ない人だっているんですよ」
さて、と気分を変えるようにトーンを高くして水上は誠也を見上げた。
「お任せしてもいいですか? 私は残りの作業に戻ります。終わったら救護室を覗きますから」
判りましたと答えるのが精一杯で、誠也はそっと両腕で祐次を横抱きにして立ち上がった。
予想以上の軽さに驚いていると、察して水上が苦笑する。
「四十キロ台ですよ、市村さん。最低限の筋肉と皮だけじゃないんですか」
少し羨ましいけど、がりがりな男性は好みじゃないです。そう言うと、水上はさっさと背を向けて作業に戻ってしまう。
見ていないのは判っていたが、何となく頭を下げてから、誠也は来たときの何分の一かのスピードでバックヤードに戻って行った。
ともだちにシェアしよう!