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バックヤードで
どんなに心が乱れても、それを凍らせて頭の片隅にうっちゃっておかないと社会人として勤まらない。だからもう反射のようにアパートとモールを行き来しては淡々と過ぎて行く日々に身を任せ、その間にもう誠也からの誘いは無いままに一ヵ月が過ぎて行った。
挨拶はきちんと交わす。それは同じ場所で働いている以上最低限の礼儀だったから、脊髄反射でお辞儀をしていた。だけどもう、あの労わるような声音では話し掛けてくれない。祐次から話題を振れば短く答えてくれるものの、明らかに迷惑そうな目つきで表情が消えるから、祐次は一週間もしない内に会話を諦めてしまった。
七月に入ると大学生や高校生から順に長期休暇が始まり繁忙期になる。ようやく黄金週間が終わって一息ついているとそんな有様で、人の行き来で磨耗してしまっているワックスを洗浄して重ね塗りするのに夜間作業はてんてこまいだった。
それなのに本社からの呼び出しで大田はまたしても不在の日々が続いている。暫くは平日に休みを取っていた祐次も、館内のイベントごとがある日には出てきたり毎晩のように深夜に作業をしたりして、疲れを溜めてしまっていた。
挨拶ではなく話し掛けてきた誠也の事を、今でも鮮やかに思い出すことが出来る。
あれは、モールがオープンして暫く経った早朝作業の片付けをしているときのことだった。
店舗からバックヤードへと繋がっている通路は、二重のスイングドアで仕切られている。そのドアとドアの間の僅かな場所が、祐次たち清掃スタッフが扱う機械の保管場所でもあるのだった。
倉庫とはまた違い、清掃専用の特殊な機械ばかりが格納されている場所で、使用時以外には施錠している。その開き戸を開けたまま、搭乗式洗浄機をバックで格納しようとしている祐次を見て、通り掛った誠也が足を止めてスイングドアを押さえてくれたのだ。
人の行き来で大きく前後に動くドアは、いつだってかなり注意していないと、こつんと当たった機械に押されて、勢い良く通行人にぶつかったりする。
だから極力スピードを落とし、ドアには触れないようにハンドルを切り直しながら、狭い通路で更に狭い場所に格納するのは技術が必要だ。パートの女性は勿論、男性もなかなか引き受けてくれない。
女性スタッフでこれが出来るのは水上だけ、という希少さだ。
「器用ですね」
興味津々に祐次の運転を見つめて、誠也は心底感心しているようだった。
「慣れれば誰でも出来ますよ。木村さんなら、一発で出来るんじゃないですか」
褒められて嬉しくて、降車してプラグを差し込みながら微笑んでしまった。
「僕の名前、知ってるんですね」
僅かに首を傾げた誠也は、きょとんとする中にも気を悪くした様子はない。
女性陣がみな騒いでいますから、と弁明すると、困ったように目を細めていた。
本当は、祐次自身も少なからず気になっていた。
同じくらいの年回りで、どうしてあんなに自信に溢れて颯爽としているのか。憧憬にも近い感情で、もう少しだけでも親しく出来ればと密かに願っていた。
だから、誠也から話し掛けられて、心臓が倍の速さくらいで打ち始めたのだ。
「前から気になってたんですけど」
と誠也が声を落として、更に祐次の鼓動が高鳴る。もう壊れるんじゃないのかと思うくらい、激しく脈動していた。
はい、と応じた声が、裏返っていたような気がする。
「この機械って、高いんですか」
ドアから離れて祐次の傍らに来た誠也が、少し身を屈めるようにして囁いた。
その内容が脳に浸透するまで、自分でも呆けていたと思う。
ただ、真剣な表情でじっと答えを待たれて、時間にしては短かったかもしれないけれど、妙な空白を設けてしまったことに祐次は慌てた。
「あ、はいっ、高いですよ。グレードの低い輸入車が買える位で」
自走式のものでも、軽自動車より高額。そんな説明を聞いて、誠也は素直に驚愕の表情を浮かべていた。
狭い業界で、作っている会社は限られている。専門機械はどうしても高額になりがちなのだと説明すれば、なるほどと改めて格納庫の中を眺め回していた。
その日から、誠也は挨拶以外にも話し掛けてくれるようになったのだ。
けれど、どんなに昔を懐かしんでも、もうあの優しい声を聞くことはない。
労わりに満ちた言葉も、温かな手も差し伸べられることはない。
それだけをよすがに、毎日耐えて頑張ってきた祐次にとって、最早この場所は苦痛以外を与えない、居心地の悪い職場でしかなくなっていた。
そんな折だった。
閉店前、まだ夜間スタッフが来ていない時間に水上がバックヤードのゴミステーションに現れた時、回収会社の壮年の男性と休憩中らしき誠也が談笑しながら喫煙していたのだ。
ゴミステーションといっても、一般的な戸建の家がすっぽり入っても余るくらいに広い。専用の運搬車が三台は入るし、清掃に使う機械等もここで洗うことが出来る。
水上がゴミカート内の荷物を下ろして直接運搬車の後ろから放り込むと、丁度吸い終わったのか回収業者の男性はおやすみと二人に声を掛けて車ごと出て行ってしまった。
にこやかに手を振りながらそれを見送り、水上は水栓に繋いであるホースを手に持ち、自分の身長より僅かばかり低いだけのゴミカートを横向きに床に置いた。
灰皿に煙草を押し付けている誠也をチラリと見て、にっこりと笑い掛ける。
「禁煙に失敗したんですか?」
動きを止めて水上を見下ろす表情は硬い。それを確認して、彼女はまたわざとらしく微笑む。
「面白いものですね、もう一年以上は吸っていらっしゃらなかったのに」
その瞳は明らかに怒りを内包している。
何か嫌われるようなことをしたかと、少しだけ誠也は不安になった。
「よくご存知ですね」
「そうですね、よく市村さんとご一緒でしたから、自然と目に入ってしまって」
ああ、と誠也は頷いた。
「市村さんのこと、好きなんですか」
「きっとそれはあなたが思っている類いの感情ではありません。彼は上司であり同士です。ですけど、出来れば少しでも彼を守りたいと思っています」
「意味が判らないな」
苦笑すると、冴え冴えと微笑したままの水上と睨み合うように見詰め合う形になる。
「どうして僕にそんなことを言うのかな」
気付けば誠也の口調が乱れていて、そんなことにはおかまいなしにまた水上は口を開いた。
「市村さんと何があったんですか。どうして手を離すんですか。それだけ教えてくれれば、納得出来たらもうこんなことは言いませんから」
言葉に詰まる誠也をゆっくり待つつもりなどないようだった。
「木村さんは、友人じゃなかったんですか」
「違う。友人なんかじゃない」
どうしてそんなことを口にしたのかも判らない。けれど反射的に誠也は否定してしまった。
あの時のように。
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