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好きなひと

「じゃ、あの、おれも呼び捨てでいい」 「わかった、祐次」  ぼんっと音がしそうなほどに真っ赤になってあわあわと口を開閉するから、誠也は優しそうな笑顔を保つのに必死だった。絶対に誰が見ても祐次の方がいくつも年下に見えるに違いないと思う。 「あの、せ、誠也……」 「うん」 「煙草、吸いたくなったらどうぞ、だから」  懸命にどうにか言いたいことを告げた祐次に、誠也は目を見張った。 「煙草? 吸わないけど」  ぽんぽんと胸ポケットを叩いて煙草が入っていないと示している。 「え、でも前に灰皿のところで」  確かに見たのに、と言葉を呑むと、ああ、と苦笑した。 「昔は吸ってたんだけど、好きな人が嫌いって知ったから止めたんだ」 「そ、か」  好きな人、の言葉に、祐次の肩が下がる。  胸の奥が重石でも載せられたように苦しくて、でもその理由までは思い至らない。誠也の口から好きという言葉が出る度に一喜一憂するなんてバカみたいだ。どんだけ友達欲しいんだよと自分に突っ込みを入れて、傍に通りかかった店員に梅酒の注文をした。  いい加減満腹になり祐次の口数が減ったのを見て取ると、二人揃って店を出た。久し振りに外で飲んだという祐次は物珍しそうに片端からサワーやカクテルを頼んでいたから、いくら居酒屋風に薄めてあるものでも結構酔いが回ってきている様子だ。  誠也はまだまだいけるのだが、それは口にしないで次の行き先は祐次に選ばせようと問い掛けた。 「カラオケ、どうかな。最近の歌、知らないけど」  喋るのも億劫なのか、舌足らずに短く喋る姿は可愛らしく、それじゃあと促して近くのビルへと入って行く。  同じビルの中にはスナックも沢山入っているせいで、まだ宵の口だというのに通路やエレベーターでいちゃつくカップルの多いこと。  それを目にした祐次がもぞもぞと居心地悪そうにしているのを微笑ましく受け止めながら、立地のせいで若者の少ないカラオケスタジオで二時間申し込みをした。  予約の入れ方すら数年前と変わっているから新鮮なようで、機械をあちこちいじっているのを横目に勝手に二人分のジントニックを注文すると、問題なかったようで祐次もちびちびと口をつけている。  誠也は自分でも歌には自信があったから、祐次も知っていそうな九十年代のラブソングばかりを入力しては、ひたすら祐次の目を見つめて歌った。  切なくなるような、ひたむきな曲が、しっとりしたテノールと共に祐次の胸に沁み込んで行く。  二曲続けて誠也が歌ってしまったので、予約したらと促せば、ゆるりと首を振り微笑んだ。 「喋っている声も好きだけど、歌声、凄くいい。もっと聴かせて」  自分でも呆れるくらいに率直に祐次は気持ちを吐露してしまっていた。酔いが回って潤んだ瞳でそんなことを言われるから、誠也の方からしたら理性を総動員して抱き寄せるのを我慢するのが精一杯で。歌本を捲っては次々と入力して、今日までの人生で一番沢山の口説き文句を歌に載せて耳に届けた。  途中で体がぐらつき始めたのに気付き、隣に座ったのが運の尽きだったのだろう。こてんと頭が傾いで誠也の肩に載る。 「祐次?」  声を掛けても目蓋は閉じたままで、誠也が身じろぐとそのままずるずると滑るように横倒しになり太腿の上に頭が落ちた。  小さく名を呼びながら、そっと頬に手を当てると、何事か呟いて、くふ、と笑った。  なんだろうと屈み込むと、耳元でもう一度呼んでみた。起きて欲しくは無い。だけどこのままだと何やら色々とヤバイような気がする。  それなのに、誠也の精一杯の自制を振り切るように、祐次が囁いたのは、誠也の名前だったのだ。  気付くともう抱き上げて唇を塞いでいた。半分開いた唇から舌を差し込むと、絡めて吸っては口蓋を愛撫する。吐息の温度が上がり息が弾んで、弱々しく祐次の目蓋が持ち上がった。 「ん……ふっ、せ、いや?」  苦しそうに眇めた目がはっきりと誠也を視認して、驚愕に見張られる。  それでもすぐには止められなくて、散々弄って祐次が涙を滲ませる頃ようやく口を離した。 「ど、して……おれ、確かに背え低いけど、男だし」  二人の唇を繋ぐ糸を舐め取る舌の動きが艶めかしくて、うっかり見惚れそうになりながらも祐次は今の出来事が理解不能で慄いていた。 「解らない?」  困ったように微笑まれても、祐次は戸惑うばかりで、自分の体を抱き締めた。 「だって、好きな人がいるって」 「それは祐次のことだよ。前に上司に付き合って喫煙コーナーに居たでしょ。その時に凄く嫌そうに煙を避けてた」  苦しそうに口を歪める誠也を見て、そういえばそんなこともあったと思い出す。大田ともう一人、本社から来ていた上司がヘビースモーカーで、仕事の話も混じっていたから加わらないわけにいかずに辟易したのだ。  互いに気付かぬ内に、煙草の嗜好が真逆だと知っていたのだ。  それでも。  好きな人だなんて突然言われても、何かの間違いだこれは酔った勢いの冗談なんだと、信じられなくて、祐次はただ首を振り続けた。  完全な休み以外の日は、必ず日に一度は視線を交わした。初対面から人懐こく笑いかけてくれて、折を見ては何かと話し掛けてくれた。  もうこの辺りには慣れましたか。仕事忙しそうですね。体には気をつけて。今日も店内は凄い混雑ですよ。そんな社交辞令のような言葉でも、毎日話し掛けてくれるから、どんなに隣に立つのが不釣合いだと判っていても、嬉しくてずっと大事にしたくて離れたくなくて。  たった一人の友人だと思ったから、仕事の愚痴なんか誰にも言わなくても毎日職場に行くのが苦じゃなかったのだ。  たった一言の誠也の言葉に毎日元気付けられて、そうして過ごしてきた。  お客さんだって、若い女性じゃなくても誠也には釘付けになる。頬を染めて見送る姿なんてありふれた日常だ。他の店舗の女性だって、何人も誠也に気がある素振りなのを知っているし、休憩時間に共用の休憩室で楽しそうに話している姿だって何度も見かけた。  だから、そんな風にいくらでも綺麗な女性を選べる誠也が、自分なんかにそんな言葉を言う筈が無い。これは幻聴だ。自分が勝手に何か勘違いしているんだ。キスだって、明日になって酔いが冷めたらきっときっと後悔するんだから。  だから。 「誠也」  手を伸ばせばすぐに抱き込める位置なのに、混乱している祐次をこれ以上怯えさせまいと、誠也は自分の膝に手を置いて微笑むことで応じた。 「誠也、ずっと友達でいてくれないの」  ここに居る間だけでも、この職場に居る間だけでもいいから毎日その笑顔を見たくて。もしかしたらまたすぐ他の現場に行くことになるかもしれないけれど、そうなってもメールや電話で遣り取りできるような関係で居たくて、願いを込めて祐次は見つめた。一心に祈りながら。 「俺は、友達になるつもりで傍に居たんじゃない」  柔らかかった笑みが消えて、怒ったように真剣に見つめられて。今度こそ本当に祐次は意識が遠退きそうになった。  言葉もなく見詰め合う二人を鼓膜を、備え付けの内線が震わせた。

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