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後遺症

 数日後に勤務が夜間に変わり、午前中が無理なら午後にと思っていたら、スタッフの女性が食事の介助が出来るなら昼食時間でも良いと請け負ってくれた。  誠也は帰りに寄るのではなく一度帰宅してシャワーを浴び、仮眠を取ってから十二時過ぎに病室に到着するように家を出た。  もしかしたらまだ帰っていないかと思いながらドアをノックすると、女性の声で返事があり、一瞬立ち竦んでしまう。  初日に詰られた母親のことを思い出し、それでも避けては通れない道だからと深呼吸してそろりとドアを開けた。  ベッドサイドのチェストに荷物を出し入れしていた女性が、屈めていた腰を伸ばして振り向いた。脇まで届く長い黒髪がさらりと流れ、優しく垂れた目を大きく見開き、こちらも驚いた誠也と見詰め合ってから、二人ほぼ同時にお辞儀をしていた。 「あ、すみません、祐ちゃんが帰ってきたのかと思って」 「いえ、あの、初めまして。俺は、」  名乗ろうとした誠也の声に被せるように「木村誠也さんですよね」と女性の声が跳ねた。 「兄からお噂はかねがね……。やだぁー! ホントにイケメンだわ。祐ちゃんグッジョブ!」  紅潮した頬に両手を当てて、小躍りせんばかりに嬉しげに話し掛けてくる、というより殆どひとり言のようだが。  誠也は失笑しながら、彼女の顔を眺めていた。有りがちな反応だが、まさか祐次の妹らしき人にされるとは思ってもみなかったのだ。  身長は母親より若干高いものの、祐次より低い。女性の標準体型だろう。この分だときっと父親もそう大きくはないのだと推測してしまう誠也に、最初の興奮が過ぎ去ったのかようやく女性が名乗った。 「私、ゆかって言います。誠也さんって呼んでいいですか?」  目の中にハートが見えそうだ。こういう状況には慣れている誠也だったけれど、これはちょっと困ったことになるかもと思いながら、それでも微笑して頷いた。 「いいよ。ゆかってもしかして同じ漢字に香りかな」  親の思考パターンからしてここは祐香だろうと踏んだら、その通りだったらしく彼女は更に瞳を輝かせてこくこくと頷いている。 「当たりですー! 誠也さん凄いっ、なんで判るんですかー!」  種明かしをしても尚凄い凄いと連発している。合コンの時ならこれで話が弾んで良いのだけれど、彼女は祐次の妹である。  参ったなと思いながらも、ここに二人でいるのは拙いと考えて「迎えに行ってくるよ」と踵を返すと、祐香も追い掛けて来てしまった。  幅の広い長い廊下を歩きながら、少しトーンを落として祐香が次々と話題を振ってくる。警備員の制服姿を見たいから今度モールに行きますと言いながら体を寄せてこられて、避けるのも感じが悪いかとそのまま歩いていたら、なんと腕を取られてしまった。  兄二人とは全く違うその行動パターンに気圧されながら、やんわりと引き剥がしに掛かる。 「祐香ちゃん、病院でこういうのはちょっと」 「えー、駄目ですか? 恋人もこんなところには現れないでしょ?」  当然付き合っている人はいるものと断定しながらも、祐香は積極的だった。  美人というほどではないが、何しろ雰囲気は祐次と似ているためあまり邪険にも出来ない。わざと困った顔を作って見下ろすと、唇を尖らせて「駄目?」と首を傾げられて、本当にどうしようと悩んだ。  ここが病院じゃなくて祐次と付き合う前ならば問題ない行為だったのだけれど。    その時、祐次の声を捉えた誠也は弾かれたように進行方向からやってくる車椅子へと顔を向けた。  介助のスタッフが押す車椅子に腰掛けた祐次が、二人を凝視していた。  笑顔を向けようとした誠也は、その表情を見て戸惑う。  まだ十メートルは離れているのに、祐次は肘掛に腕を突いて腰を浮かせようとしていた。その顔は恐怖に固まっていて、言葉にならない声が通路に響いた。 「市村さん!」  車椅子の前に回った女性スタッフが、降りようとしている祐次を懸命に止めた。  その女性に抱きつくようにして、それでも祐次は誠也に向けて腕を伸ばして少しでも近寄ろうとしている。 「駄目です、ドレーンが外れますっ」  スタッフの言うように、移動に合わせて車椅子の後方に掛けられているパックは未だ祐次の腹部と繋がっている。それが外れたら大変なのだろう。  誠也も今度こそ自分から祐香を引き剥がすと、状況に付いて行けずに立ち竦む彼女をそのままにして祐次に駆け寄った。 「祐次、落ち着いてくれ」  伸ばされた手を握り「大丈夫だから」と頷くと、「誠也、誠也」と呼びながらどうにかして近くに来ようとし続けるので、悟ったスタッフが体をずらせて退けてくれる。入れ替わるように誠也は床に膝を突いて、前傾姿勢の祐次を抱き締めた。  作業療法士鮎原というネームプレートを胸に付けたショートカットの女性スタッフは、車椅子の後ろに戻ると、そこに差し込んであったファイルを取り出して腕時計と祐次を見ながらサラサラと書き込んでいる。 「祐次、一体どうしたんだよ。どこか痛くないか? 何か辛いのか?」  首に腕を回して縋り付いて来る祐次の背を撫でながら、誠也は優しく問うた。  初めてこんなに積極的に抱き着かれたというのに、ここが病院でさえなければと不謹慎なことを考えながらも、急に取ったおかしな行動に不安も拭えない。  祐次の全身が震えて、それでも強くはない力で首に縋りながら誠也から離れようとはしていない。 「って、だって、誠也、とられちゃ……」  泣きそうな声で、耳元でしゃくりあげるように告げられる。  背後の祐香は半分怯えていながらも、静かに見守っている。鮎原は慎重に祐次の表情を伺いながらも、納得したように頷いていた。  その視線を感じながら、誠也は祐次の耳元に唇を寄せた。鮎原には聞こえてしまうかもしれない。それでもいいと思いながら、耳の中に落とし込むように囁く。 「とられない。俺は祐次だけのものだ。祐次、好きだよ、好きだ。だから落ち着いて。安心していいから」  祐香からは、誠也が何か言っているということくらいしか認識できなかった。それでも、最初に恐怖と不安に彩られていた祐次の表情が次第に解けていくのを見ていて、じり、と後ろに下がった。  祐次の恐慌は、自分が原因ではないかと何となくではあるが悟ったのだ。離れていても、そこは血の繋がった兄妹の為せる業なのだろう。ぺこりと腰を折ると、「また明日来ます」とさっさと身を翻して三人から離れて行った。

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